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オフィシャルに従事する大学生 伊集院炎山 / ロックマンエグゼ | 名前変換 | 初出20230419-

受難


 受難とは、苦難や災難を受けること。

 すっかり温くなったブレンドティーを、わたしはひりひりとした気持ちで口に運んだ。いろんな負の感情が浮かんでは消え、喉の奥がすこし痛くなる。それを押し流すように、ぐいっとお茶を飲み込んだ。カップを机に置く。ことん、という無機質な音が鮮明に響く。きれいに片付いた白い机が、どこまでも続いている。ここは科学省のオープンオフィスで、平日の午前はほとんど人がいない。
 きれいなままではいけない分析シートが、ラップトップのディスプレイにずっとずっと居座っている。わたしはほとんど手癖で、シートのタブを移す。今度は、充分に書き記され、見づらい(言ってしまえば、きたない)シートが出てきた。一秒も見ずに、わたしはショートカットキーを押して元のきれいなシートに戻した。
「受難だな」
 そう言い示したのは、炎山である。今彼は傍に居ないが、数日前に通りがかったときに、わたしの開いていたシートを見て一言そう溢したのだ。ジュナン、が判らなかったわたしは、何とも返せずじまいだった。判らなかったけど、きっといい意味じゃないんだろうなとは思っていた。炎山が立ち去った後にナビのピルエに聞いてみたら、「受難とは、苦難や災難を受けること」ということを教えてくれた。それ以来、わたしはこのシートを受難のシートと呼んでいる。
 受難のシートは、今日もたいして進展することもなく、マイフォルダの中で古い日付のまま沈み込む。

 大人になったらネットバトルの技量だけあってもいけないよ、なんて言葉を、寧ろもう言われなくなりつつある。賢い先輩たちは、市民ネットバトラーを辞めて学業とアルバイトに専念した。わたしは何というか、乗り遅れて、というより近しい同期に辞める気がなかったので、今もこうして続けている。そして周囲からも、この三人は辞める気がないと思われている。残りの二人はもちろん、熱斗と炎山だ。
「なまえにちょっとお願いしたいことがあるんだよな」
 障害が起きた時の被害状況のレポートをまとめていたら、熱斗がおもむろに現れた。彼がこういう口ぶりで話すときは、大抵あんまりよろしくないことをお願いされるときである。彼は近くにあった手頃な椅子を引きずってきた。机にラップトップを置くと、彼は背もたれ側を前にして座る。顔を背もたれに預け、少しだらしのない姿勢でパソコンのマウスパッドに指を滑らせた。「これなんだけどさ」
 見せられたのは、ひとつのドキュメントだった。
 明日から別の研究に参加させてもらえることになったんだ。熱斗は言う。この分析シート、なまえに引き継いでいい? なまえならうまくまとめてくれると思うんだよな。このあと権限付けるからメール見といて。じゃ、よろしくー。
 矢継ぎ早に話し、熱斗は勢いよくどこかに行ってしまった。断る余地は何処にも存在していなかった。
 こうして渡されたシートが、あの受難のシートというわけである。

 分析は、苦手ではないつもりだった。大学でも専攻している分野だし、多少の作法は心得ている。でもそれも同年代の普通の子に比べて、という意味で、天才や秀才に比べたらとても誇れるようなものではなかった。
 熱斗から貰ったシートは、案の定わたしが理解できるようなものではなかった。ある意味勉強にもなったが、どうしてこんなに自由な記述ができるのか、熱斗の頭の中を一度覗いてみたいものだった。そんなことをピルエに零すと、「覗いたところで、カレー三割、バトル三割、研究三割だと思うよ」と言う。その通りだとも思うし、その通りなら文字通り天才なのだよなあとも思う。
「それよりも、そろそろ再構築の完成形が見えないとじゃない? もう月末だよ」
 毎月、月初に報告をあげなくてはならないらしい。それを下旬に引き継いでくる熱斗の豪胆さと言ったら。大学の勉強が立て込んでいる時期でなくてよかったのが不幸中の幸いだ。ピルエの忠告にわたしは気を落としながらも、「好い加減頭を切り替えなきゃね」と返した。
 PETをスリープにし、ラップトップにひとりで向かう。どこからローデータを引っ張ってきて、何と何が数式で結びついているのか。熱斗の書いた難解な式は見なかったことにして、自分で一から作り直す。並行して、分析対象になっていることを見返す。わたしが扱ったことのない事柄だった。改めて思う。熱斗はこんなに大きな仕事を請け負っていたんだなあ。そして、オフィシャル公認のバトラーである熱斗に対してはこんな仕事を普通に任すのだなあ……と。

 オフィスは相変わらず静かだ。一時間ほど集中したら、そこそこ進捗した。やっぱり、雑音がないほうが集中できる。
 ある程度かたちができあがってきたところで、どうしてもエラーになってしまう式に遭遇してしまった。やり直したり、違う式に変えたりする。エラー。余計と思われるものを削いだりする。エラーの内容が変わるだけで得たい結果は得られなかった。
「んー……」
「躓いたか?」
「えっ!」
 驚きながら、隣を見る。「炎山、いつから居たの!?」「さあな。気付かないなんて、凄い集中力だな」
 こんなに静かなのに。炎山は頬杖をついて、笑いながらため息をつく。わたしは、無意識で作業に没頭する姿を見られ、恥ずかしさに耐えられなくなった。
「この間のか? 光に押し付けられたやつ」
「う、うん……。この間よりは、進んだけどね」
「あいつの仕事、雑だろう。おれも前に引き継いだことがあるが、滅茶苦茶だった。テロレベルのクエリ書くし」
「やっぱりそうなんだ。でも炎山のことだから、すぐ何とかしたんでしょう」
「そう思うなら、そうなのかもしれないな」
「何それ」
 適当にはぐらかされる。炎山と話すと、大体このようにあしらわれる。いつからだろう? 境い目は非常に曖昧である。

 そのあと炎山とは、少し世間話をした。最近取り扱った事件のこと、近頃の情勢や繰り返し多発する事故のこと、話せる範囲でのIPCの展望など。話しているうちに、結局最後はオフィシャル関連の話になり、受難のシートにまで戻ってきた。
 炎山は親切にも、時間を潰すついでに少し見てやる、と言って鞄からラップトップを取り出した。わたしはお言葉に甘え、シートの権限を炎山にも付与する。炎山はトラックパッドに指を滑らせ、メーラーからシートを開いた。「こっちが古い方か」「そう。で、こっちが今作っている方で、ローデータは別シートにしてて、ここにリンクを貼ってるの」指を差しながら案内をする。炎山は一言、「わかりやすい」とだけ言った。
 ディスプレイを前にして、あれこれ言いながらシートを直していく。なんだか、ペアプロみたい、とわたしは思った。よく、大学の研究室でプログラムを作っている人たちが、作業をするときペアを作り、あれこれ相談しながら作っているのを目にすることがある。ペアプログラミングといって、作業とレビューと相談を同時におこなえるため、効率的なのだという。プログラミングまでは手を出せていない自分には、縁のない話だと思っていた。
 不思議だ。ひとりだと全く糸口が見えなかった正解への道が、炎山と話しながら段々と形作られていくのが判る。なんら不思議ではないのかもしれない。だって、炎山はオフィシャルにおける秀才なのだから。

 気づけば、日が暮れかけていた。でも、成果は上々で、シートだけではなくレポートも八割ぐらい仕上がってしまった。わたしはえらく感動して、「ありがとう……!」と何度も炎山にお礼を言った。炎山は「礼を言われるほどでは」と言いながらも、気分よさそうに笑顔を浮かべていた。
「本当に困ってたからさ、お礼、言うだけじゃなくて何かさせてよ」
 コーヒーとか、ランチとか。わたしが考えているのはその類のお礼だった。思いがけない提案を受けた炎山は、一瞬迷う素振りを見せたものの、直ぐにその綺麗な顔に浮かべている笑みをにわかに悪戯っぽく変容させ「月末に提出するレポートがあるんだが……」と言った。
「げ、月末? レポート?」
「安心しろ、お願いしたいのは来月分からだ」
 すでに今月も残り三日というところだった。しかしだからといって、なんだよかったという話でもない。が、あれよあれよという間に、わたしのメーラーはそのレポートにまつわる引継ぎでいっぱいになる。
「判らないことがあれば連絡をくれ」
「資料めちゃめちゃたくさんあるじゃん……」
「返事は?」
「わ、わかったよ」
 わたしの受難は続く。