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初出202207

Education


5

 赤色が好きだ。気づいたら、赤を手に取っている。マフラーも赤だし、財布も赤だ。ネットナビのブルースも赤を基調としているし、特注のPETも、オリジナルデータを入れるための空のチップも。すべて、選ぶのは赤だった。
 でも、この時期の赤は好かない。炎山は、街を歩きながら思う。
 冬の入り、首元が冷えるようになってきたと同時に、早々に日が暮れるようになり、暗い街中にはイルミネーションが輝くようになっていた。浮かれた赤と緑に、楽しげに華やぐ人々に、炎山は世界から切り離されたように感じる。自分とは縁のない、明るくて、騒がしくて、心が浮き立つ世界。
 みょうじはきっと、あちら側に生きる人なんだろうな。
 ブティックの紙袋を持って笑顔で歩く女性とすれ違い、彼女のことを想った。家族と過ごすのかもしれないし、友人たちと過ごすのかもしれない。そこには光熱斗も、ロックマンも居合わせるのかも、しれない。なまえが笑うなら、幸せなら、それ以上のことは望まないつもりだったのに。この胸を支配する黒い靄を、どのように形容したらいいのだろう。清く在ろうと努めてきた日々も虚しく、こんな風に願いを変える時点で、もう終わりなのかもしれないと炎山は思った。もう、終わりにしなければいけない、という結論に至った。

 クリスマスの手前、炎山が定めた中間テストの日がやってきた。
 中間テスト……とは、大層な嘘である。炎山は、この機会をもってなまえとの監視し監視される関係を終わりにしようと思っていた。わざと中間テストと言ったのは、最後などと言うと身構えられそうだったからだ。終わりにするためには、なまえにちゃんと卒業してもらう必要がある。軽い腕試しだと言えばなまえの力を引き出せるだろうと思い、軽率に誤報した。
 自分の本当の気持ちに気づいたからには、監視はもう止めだ。真面目な炎山は、なまえとの間に取り付けたあまりに意図的すぎる口実をなくしたかった。でも、もし彼女のために、少しでもなるのなら。炎山はいくらでもマンションのエントランスを開けるし、勉強だって見てやるし、レアチップだって提供するつもりだった。しかし、それは、彼女が決めることだ。
 炎山の考えなど露知らず、なまえはインターホンを押す。

「お邪魔します」
 炎山の家の敷居を跨ぐのは、何度目のことだったか。すっかり慣れっこになってしまったなまえは、手際よく玄関を上がり、脱いだ靴を揃えた。ここ最近の変化をひとつ挙げるなら、上着とマフラーを外す作業が増えた。炎山の家はいつでも空調がちょうどよく効いていて、もちろん防寒着の類はまったく必要なかったので。
 いつもの部屋、いつもの場所、いつもの席。もしかしたら最後になるかもしれないなんてことは、なまえはまだ知らない。「テスト、どきどきするなあ」とはにかむなまえにつられ、炎山も「いつも通りやれば、問題ないさ」と優しい表情になる。ずき、ずき、と何かが痛む。
 炎山手製のテスト用紙が、裏返しになって机の上に置かれる。「目安は三十分だ」炎山の手短な説明に、なまえは黙って頷いた。
「始め」
 合図とともに、なまえはテスト用紙を表へ返した。炎山の手書きの文字で形作られたテスト用紙は、力強くて繊細で達観していて、炎山らしさが滲み出ているようだった。その用紙に、なまえの文字が加わっていく。
 なんて親切なんだろう、となまえは思った。その設問の殆どは、炎山がなまえに徹底的に教え込んだものばかりだった。テストのレベルが低いのではなく、炎山の教え方がよかったのだ。情報に強弱をつけ、本当に大事なところだけは、なまえが踏み外さないように導いていた。それと同時に浴びせられた「何度言えばわかるんだ」「昨日復習しなかったのか?」のような辛辣な言葉も思い出せてしまうが、これほどまできつく言われなければなまえも覚える気力が沸かなかったし、今頃真っ白なテスト用紙を前にして絶望していただろう。
 テストは、決して甘くない。基本的な問いにはさらさらと鉛筆を走らせていたなまえも、考えを問う記述問題には立ち止まらざるを得なかった。少し離れた場所で仕事上のメールの処理をしていた炎山は、鉛筆の音が止むのに気付くと横目でなまえをちらりと見る。俯き考えているなまえの髪が、微かに揺れているのが見える。暫く部屋の中は無音だったが、ふたたびなまえが文字を書き始めると、炎山は安堵したように表情を緩めメール処理に意識を戻していった。
 三十分が経過した。アラートを仕込まれていたブルースが、定刻がきたことを告げる。その声を聞いて、なまえは鉛筆を机に置いた。炎山は席を立ち、答案を拾い上げる。炎山が手掛けた時点では不完全だった用紙が、今では彼女の知恵で埋め尽くされていた。
「すぐ採点する。適当に待っていてくれ」
 テストが無事終わって一先ず安心した様子のなまえは、「じゃあ」と顔を綻ばせる。「炎山くんのレアチップでも、見ていようかな」
 炎山は赤色のボールペンを取り出すと、勉強机に置いた答案に向き合った。なまえの優秀さに気付くのは、そう時間が掛からなかった。基本の設問は、狂いなく正解を導き出している。炎山はその確かさを一つずつしたため、丸をつけていく。記述問題の回答を読む。これには感心と納得と驚嘆を得た。炎山が教えてきたことを踏襲した上で、なまえなりに学んだことや考えてきたことなどが形になっている。
 炎山はすべての採点を終え、なまえの隣に椅子を運び、座り直した。炎山のチップを興味津々に眺めていたなまえは、いよいよだ、と少しの緊張を見せた。
「手応えの程は?」
「ええ、自信ないよ」
「嘘つけ」
「……ばれてる?」
 自慢げな気持ちを精一杯隠して、なまえは笑った。炎山は答案を返却する。用紙に踊る赤い文字を見て、なまえは目を丸くした。
「ひゃ、百二十点? こんなの、見たことないよ」
「記述問題が加点式だからな。気づいたら、満点の水準を超えていた」
 ええ、となまえは照れ笑いをする。炎山は、らしくないほどに、褒め言葉を流暢に続けた。
「みょうじの回答には、参った。このくらいの常識を持つことができたなら、もう危なっかしいプログラムを組むこともないだろう。いや、そんな低レベルな次元をも抜けて、今までに類を見ない高いレベルのものを創り出すこともできるかもしれない。その可能性に、プラス二十点だ」
 褒める間、炎山はなまえの表情を見逃さないようにした。何しろ、炎山がこんな言葉を投げかけるのは珍しい。なまえの反応を、ひとつも残らず記憶に留めておきたかった。これが、最後になるかもしれなかった。少なくとも、炎山はこれで最後にするつもりだ。
 なまえは、本当に嬉しそうだった。可愛らしい笑顔を浮かべて、頬は少し紅潮している。そして、ゆっくり瞬きをして言った。「わたしが二十点ももらえたのはね、理由があるんだよ」
「理由?」
 目を瞬かせるのは、今度は炎山の番だった。
「炎山くんだったらこう考えるかなって、思ったんだよ」
 わたしの中に炎山くんが居て。なまえは炎山の膝のあたりを見ながら、わざと表情を見ないようにして独白する。教えてくれるんだ。わたしが間違えないように、迷わないように。
 炎山の中に、紅く燃え上がるような想いが込み上げてきた。

 はらり。
 机から、テスト用紙が落ちる音がする。

 なまえの頭の中は真っ白だった。炎山はなまえの手をぎゅっと握る。いつの間に握られていたのだろう……この一瞬の間に、何が起きたのだろう? テスト用紙がふわりと舞いながら落ちて、その少し前に手を握られ、そのもう少し前に椅子の軋む音がして、そう、そのもっと前に。
 炎山に、キスされた。
「き……」
「言うな」
 もう一度、唇同士がくっついてしまう。慣れたはずの炎山の部屋が、炎山の長いまつ毛が、なまえの鼓動の高鳴りを助長していく。炎山はなまえの唇を食む。二度、三度……何度も。なまえは身体が麻痺しそうになる。
 なまえ。初めて、名前で呼ばれる。青い瞳にじっと見つめられ、お互いの息遣いしか感じられなくなる。
 なまえが恋焦がれて仕方ないのは、ロックマンだ。本来ならば、抵抗してもいいはずだった。でも、なまえはそれをしなかった。いやな感じがしなかったし、なぜだろう、こういう風になる未来があるような気もしていた。きっと、その未来が選ばれただけ。
 でも。
 熱っぽい、炎山の瞳。掴む手が力強いことや、薄く開いた口元。その先にある、首元。触れた唇の、やさしくも、喰われてしまいそうな感覚。
 それらを、なまえは知らなかった。
 


 日が沈んでしまわないうちに。ふたりは上着を羽織り、なまえだけはマフラーも巻いて、マンションの外へと出た。十二月のこのうら寂しさって、どこからくるのだろうね。どちらからでもなく繋がった話題に、なまえは「寒いから」炎山は「クリスマスのせい」と答えた。
 なまえに連れられ、炎山は初めてなまえの家路を辿る。方角的にはなまえの学校へ向かうのと同じだが、通る道は異なっていて、まるで知らない土地にでも来たかのように炎山は感じた。なまえの歩幅は、とても小さい。そして、ゆっくりだが確かだった。炎山は、今までなまえが自分のペースに合わせてくれていたのだと思い知る。しかし、なまえの速さに合わせるのはそう難しいことでもなかった。彼女の表情を見ていたら自然と添うことができたし、隣を歩くのは自分でありたかった。



 あのあざやかながらも自分本位だった瞬間のことを、炎山は後悔していなかった。やらない後悔よりやる後悔、とはよく言ったものだが、まさにそれで、せめて言葉で伝えてやれば良かったと反省こそすれど、なまえにそれが通用するとも思えないのだった。どうにも彼女からの信用を得られていないと炎山は感じていたし、それならばそれを貫き通し、信じてはいけない最低な男として目の前を去った方がいいとさえ思うほどだった。しかしなまえは、結局はそれを赦さなかったのである。

 永遠のように思えた触れ合いも、実際の時間に直したらほんの数秒だった。しかし、その数秒で何もかもが変わってしまった。冷静だったはずの炎山の瞳の奥には留めておけない高揚が見え隠れしていたし、拒まなかったなまえには荒くなった呼吸と多少の動揺とが残った。
「好きだ、なまえ」
 炎山は、なまえから目を逸らさない。真っ直ぐな眼差しを、なまえに向け続けている。「どうしようもないくらい。抑制が効かないくらい。止められないのが恋なんだって、前になまえが教えてくれたな。悪い、止められなかった」
 しずかな室内で、ふたりはお互いの呼吸音だけを感じている。「訊きたいこと、とか、話したいこと、は、たくさんあるんだけど……」口元を押さえ、躊躇いがちになまえが言う。「今すぐには、できないや……何も、考えられなくて」
 耳まで血色のよいなまえは、俯いて自身の足先を見ている。今は炎山の顔を見ることができない。見たら、何かが腹の中で爆発してしまいそうな感覚があったから。でも、ひとつだけ。ひとつだけ、もう一度訊いておきたいことがある。
「炎山くん」
「……ああ」
「好きなの……? 本当に……?」
 なまえは、下を向いたまま、自分を指さして訊いた。「好きだ」と炎山は言った。告白も二度目ともなると、驚くほどするっと言えてしまうから不思議である。なまえは堪らなくなって両の手で顔を覆ってしまう。
「なまえ」
「う……うん」
「それだと、期待をしてしまうが……」
 炎山は、なまえの手首をやさしく取る。こわごわと、彼女の心境を護る盾を外して、彼女の表情を盗み見た。経験不足の炎山にもわかるくらい、彼女の表情は恋をする少女のそれだった。
「嫌なら、嫌だと言ってくれ」炎山は手を引き、なまえを腕の中に抱き寄せる。「そうでないなら、流されていろ」
 なまえは、炎山の胸に火照った身体を預けた。



 ふたりはなまえの家の近くの公園までやってきた。ここまで来ればもう近い、というなまえの言葉を聞いて、「じゃあ、おれはここで」と炎山はなまえから離れようとする。なまえは咄嗟に、炎山の服の裾を掴んだ。
「もうすぐ暗くなっちゃうけど、あと少しだけ……」
 公園に足を踏み入れると、足音がざくざくとした響きに変わる。夜を間際に控えた夕暮れ時の公園は、寒さも相まって閑散としていた。ふたりはベンチに座り、ふと空を見上げた。そろそろ星が瞬き出す時間である。
 なまえは、未だに流されっぱなしであった。炎山は答えを急かさなかったし、なまえにとっても決めるには早急な気がしていた。しかし、これで今日を終えてしまうのは勿体ないと思った。隣にいる炎山を見遣る。炎山の吐く息は、空気を白く曇らせる。
「こんな日々も終わりだな」
 遠くを見つめる炎山の、突然呟いた言葉がこんなにも理解できないものだとは、なまえは予想だにしなかった。炎山は正直に白状し始める。中間テストとは名ばかりで、卒業テストのつもりだったこと。このテストをもって、指導と監視を終わりにする予定だったこと。つまり、一方的な会う口実をなくそうとしていたこと。しかし、なまえが会う機会をくれるならいつまででも一緒に居たいこと、などを。
 なまえは、じゃあこれでロックにチップを作ってあげられるんだ、と思うよりも早く、炎山くんに会える真っ当な理由がなくなってしまう、ということを思い心がずっしりと重たくなった。そして、炎山と唇を合わせてからロックマンのことをほとんど思い出さなかったことにも気づく。炎山の仕草や、思考や、言葉や、息遣いで、頭と心が溢れかえっていた。
「炎山くんと一緒にいると、炎山くんのことで頭がいっぱいになるよ」
 ぼそり、なまえは呟いた。
「炎山くんの好きな人は、わたしの知らない人なんだと思ってた。そして、そのことをわたしは何とも思ってなかった。でも、今日炎山くんの気持ちを知って、単純かもしれないけど、わたしは炎山くんのことを大切にしたいって思ったよ」
 炎山は冷える指先をぎゅっと握りこんで、その言葉を、意味を、声を、肺いっぱいに吸い込んだ。
「じゃあ、ロックマンのことは」
「好きだよ。気が狂いそうだよ。でもね、わたしはもうこんなのやめたいの。ロックと、適切な距離に戻りたい」
 なまえと炎山の目線がぴたりと合う。なまえの目には、涙が膜を張っていた。その瞳は夜の燦々とした光を跳ね返していて、どんなイルミネーションよりも綺麗だと炎山は思った。ふたりは自然と手を取り合う。夕闇が赤く染った頬を隠す。月に見られないように、触れるだけのやさしいキスをした。