×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -
ふたりでだめになる(ネタバレなし) シャーロック・ホームズ / 大逆転裁判 | 名前変換 | 9min | 初出20160501

May Day

追伸 メーデーの日に家までおいでよ。悪いようにはしないから。4.19 Sherlock Holmes

 来いと言われて来てみたものの、来てよかったものかと疑問に思う。でも、もらった手紙を何度見ても紙の端には"May Day"とあるし、羊皮紙は打ちひしがれたように文字を滲ませていた。
 彼の住むアパートが開拓の進んでいないロンドンの端っこにあるのを、わたしは去年の冬に知った。少し歩けば郊外に出てしまうくらい、この場所は都会から切り離されつつある。長い間、その姿のまま改修されていないその建物は、まるで廃墟のようである。今日も古い匂いがしたし、庭は荒れていてひどく閑静だった。誰もここには、いやしない……そう思ってしまうほどに。その一方で、庭を這っている赤い薔薇は力強く自生をしているようだった。逞しく伸びた棘だらけの蔦と赤い花弁が、それはそれは美しかった。一筋、アパートの入口まで伸びている小道があった。そこだけはするどい棘が及んでいない、ホームズさんが普段歩いている道なのだと判断できた。
 アパートは三階建てで、彼は三階に住んでいる。石階段をのぼってノックをすると、厚い木の戸が開く。その向こう側には、ホームズさんがいた。彼はわたしを中に入れ、ソファへと誘導する。
「迎えに行けなくて申し訳なかった。久しぶりだね、四月は会わなかったから……ここへの道は、迷わなかったかい」
「迷わないよ。一本道なんだもの」
 ホームズさんはわたしの隣へ腰掛けた。薄い生成りの麻の服が、彼の膝の輪郭を柔くかたどった。寝巻きかな、とわたしは勘繰った。眠って、いたのだろうか。そういえば、髪を整えた様子も伺えない。
「特に、用事もないのだがね」
「うん」
 そうだと思って来たから、大丈夫。そう伝えると、ホームズさんはわたしにぴたりと寄り添って、長いあくびをした。

 ホームズさんとわたしのあいだには、いつもたいした重要な用事がない。たまに連絡をとっては、こうして一緒の時間を過ごして、話をしたりお茶を飲んだり、寄っかかったりする。甘え甘やかす、それがわたしとホームズさんの間柄であり全てだと思う。不思議なことに、それ以上の何かは無い。ただし出逢いは至って単純で、社交界で偶然話すことになったのがきっかけ、といった具合だった。
 ホームズさんとこうして過ごすのは、もう何回めのことなのだか、わたしにははっきりしないのだった。大抵は電報が来て、来週の土曜に迎えに行くだとか何時に時計台の前だとか、そういう風に約束をして街で過ごすことが多いのだけど、今回ばかりは手紙で家に招待された。変わった人だとは思っていたけれど、今日のホームズさんはより一層、どこか遠い場所に居るような気がしてしまう。その思惑は、実際に会ってみて更に増した。
 ホームズさんはしばらく四月にあったことをわたしに話して聞かせていたが、その話は急に終わりを迎え、わたしの肩は彼により不意に引き寄せられた。わたしの頭が彼の肩に乗ってしまうと、彼はわたしの頭を撫でてあやし始めた。旧い子守唄を、喉の奥でうたっている。彼の大きくてさらさらとした皮膚は、わたしの頬や髪にやさしく触れる。とても心地が良くて、わたしは思わず彼にもっと体をくっつけた。
「なまえ、可愛い」
「うん」
「どうしてこんなに可愛いんだい」
 わたしは黙って首を傾げた。ホームズさんはそれで十分だったようで、その後続けて訊ねることはなかった。
「今日は雨が降るらしいんだけど、知ってたかな」
「ううん、知らなかった」
「雨が降ると、この辺りは一面海になるよ」
 ホームズさんは大げさな冒険譚のように語りだす。わたしは可笑しくて少し笑った。
「翌日大抵晴れるんだ。そうすると、水盤のように空を映し返すから、まるでそこは天空の鏡さ」
「いいな、見てみたい」
「明日見れるよ」
 ホームズさんはソファから立ち上がると、レコードを一枚掛けた。クラシックだった。そしてそのままキッチンへ行って、ケトルに水を注ぎ始める。「紅茶でいい?」わたしはその問いかけに「はい」と答えた。
 曇った窓とその向こう側に、ふと目をやってみる。それなりに晴れていて、雨が降るようには思えなかった。でも、ごう、と強い風がふいて雲が散り散りになっていく様を見ると、これからこの風が雨を連れてくるのだなと予感できた。階下では薔薇が大きく揺れている。
 こんこんと陶器と金属が鳴り、わたしのところまでふわりと紅茶の香りがした。

 ホームズさんは、ときどき薄暗い場所へ行ってしまう。物理的な話ではない。朝陽が昇って南の空を回って落ちるまで、何時間も横たわってしまうことがあるのだ。わたしはそれを、一度彼とホテルにステイしたときに見た。急に訪ねてきて、わたしを宿泊先へと連れ出したのである。静かな冬の入りだった。
 そこはシティの中でも有名なホテルだった。彼は大学に用事があるからと一昨日から部屋を借りていたらしく、その一室にわたしを招いた。すでにルーム・サービスのアフタヌーン・ティーが届いていて、ホームズさんは自らポットの準備をした。
 わたしはコートを掛けてしまうと、窓の外へ寄って外を眺めた。往来は多く、きっと賑やかなのだろう。ここはとても静かだけれど。
 ベッド・サイドに新聞が複雑なかたちをして置いてあった。一度開いて、適当に畳んだ後のようだった。ベッドの上では、真っ白なシーツがぐしゃぐしゃになっていた。今日、一度もベッド・メイキングされていないようで、すなわち彼は外出をしなかったのだと思われる。
 わたしはここから先のことを、目を瞑って想像してみる。紅茶を飲んで、話をして、それから。その想像は霧がかかったようにもやもやとしていて、それ以上考えを巡らすことがかなわないのだった。ただ、それは結果として正しい。ホームズさんは紅茶を飲んで少し話したあと、わたしをベッドの上に誘い込んだ。二人で広いベッドに寝っ転がって、たまに背中を撫でてくれる、それだけだった。チョコレートの箱を枕元に置いて、食べたい時に手を伸ばす。彼はわたしを幼い娘にするかのようにあやす。そうして二人で歌をうたった。彼のテナー・ボイスは掠れていてうまく音を捉えられないようだった。

 同じようにして今日、五月一日、ホームズさんは独り言のような歌を小さく呟くようにうたうのだった。二人、ぼんやりしていると、ざあっと雨が降ってきた。大量の水と風は屋根にあたり窓にあたり、このアパートを揺らした。
 衝撃によるものかレコードが外れて、ぷつりとクラシックが止まった。ホームズさんは、薄暗い部屋の中でわたしを抱きとめて、「だめだ」と言った。
「何がだめなの」
「何もかもが」
「全部?」
「全部、かな」
「わたしも、それに入ってるの」
 ホームズさんは低く唸って「きみは違う」とつぶやいた。
 ねえ。一段と枯れた声で彼は語り出した。
 僕は何も要らない。何も考えることができない。ことに先のことを考えると、どうやって歳を重ねていけばいいのか気持ちが悪くて吐きそうになる。探偵のできない探偵には何が残る? 幸せな婚約さえも叶えられない男には? 僕はね、それを知るのがたまらなくこわいんだよ。
 ホームズさんの手はわたしのお腹に力なく乗せられていた。深呼吸をしてみると、背後からソファから寝具からぜんぶホームズさんの匂いがした。ねえ、なまえ、僕とだめになろう。ホームズさんはそう言って、わたしの顔を傾けてキスをした。顔を離したら、彼もわたしも泣いていた。
 悪いようにはしない。彼のその救難信号は嘘でもあり、ある種真意だった。わたしだって、こわかった。ホームズさんがまだ知らないことを知ってしまうのがこわかった。知るくらいなら二人でだめになったらいいと思う。何も考えずに、寄り添って掛布ごと抱きしめあう一日を送ったらいい。その決断は色んなものを得たし、色んなものを喪った。

 わたしたちは、その晩二人で一枚のシーツにくるまって夢を見た。わたしは遠い田舎道をホームズさんと歩く夢を見た。薄く霧がかったでこぼこ道を、ふたり手を繋いで笑いながら歩いている。脇には田園風景が広がっていて、草と土と太陽に囲まれ、なんて楽しいのだろう、わたしはそう思った気がする。彼は何を見たのだろう? 起きたら聞いてみてもいいかもしれない。
 朝、窓の外を見たら、変わらず荒れた庭と開発の進んでいない土肌が見えた。窓をあけると、湿った匂いがする。生きているものと、死んだものとが混ざり合った複雑な匂いである。春が終わって夏がくる。当たり前のことなのに、やはりその先のことをわたしも上手く想像できないでいた。
 もう、いっそ、雷でも落ちて欲しい。過ぎ去った雨雲にしずかに祈って、無駄だとは思ったものの、ホームズさんの名前を呼んだ。彼は返事をしなかった。