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初出20160330

融雪


7

 サンギタウンはあたたかな風に揺られる花畑により、あたり一面に春の香りを立ち込めさせているなんとも牧歌的な街だった。わたしは今、チェレンに手を引かれてこの街を歩いている。ほらなまえ、あれがこの街の教会だよ。毎日心を穏やかにするためにお祈りしにいく人も少なくないんだ。あれはパティスリー、ラズベリーのケーキで有名。あれはフラワーマーケット、今の時期は圧倒的に薔薇がきれいだね。わたしもまた、一つ一つ取りこぼしのないよう返事をしていた。つないだ指の先が、なんとも言えずこそばゆいものだ。気温は二十度。わたしは薄手のカーディガンを羽織って、チェレンは薄い白のコットンシャツを着ていた。髪が、シャツに少し触れるほど伸びている。

 チェレンは無事、ヒオウギジムのジムリーダーに就任することになった。試験はもう十ヶ月も前のことになるが、就任が決まったのはつい先月のことである。チェレンは試験の後、本格的にやることがなくてひたすらアルバイトをしたりカノコに定期的に帰省したり、たまにカゴメに泊まりにきてくれたりした。そうこうするうちにわたしたちはだいぶ恋人らしく打ち解けた。逆にもうあの頃には戻れないくらい、わたしたちは進んできてしまったのだ。片思いだったころを思い出すと、わたしはとても懐かしい気持ちになって、二歳年下のわたしとチェレンを思い出ごとぎゅっと抱きしめてあげたくなる衝動に駆られる。コーヒーを飲んで白い景色の中のぼってゆくパステルブルーの風船を見つめていたときのことが、たまらなく切なくきれいに思えるのだ。チェレンに絡んだ記憶は全部、きれいなままでわたしの心の奥にしまってある。
 チェレンは就任に伴い、ここサンギタウンに引越しをした。わたしがこの街に訪れるのは初めてのことだったけれど、この街は一目見ただけでもとても素敵な街だと感じられた。
「ねえ、メールでも書いたと思うんだけど、この先にもっとすごい花畑があるんだ」
 チェレンはわくわくしたように言った。
「うん、読んだよ。わたしも今日はそれがすごく楽しみだったの」
 彼はわたしの言葉を聞くと、新しい革靴で足早に地面を踏みしめた。わたしも遅れをとらないよう、駆けた。だんだんとその速さは増していって、わたしたちはいつの間にか走り出していた。待って待って、と笑いかけると、待たないよちゃんとついてきて、とチェレンは強く手を握った。
 一息に走ってきてしまうと、可憐な花たちで一面埋め尽くされた景色がそこにはあった。思わず顔を綻ばせて、一人でに花畑へ近寄ってしまう。とても、いい香りがする。サーっと風が花を凪ぐとその香りは風にまじってあたりを駆け巡っていくようだった。風のおかげで、髪に軽く滲んだ汗がひいていった。とてもうららかな水曜日の午後だった。
 わたしに追いついたらしいチェレンが後ろから手を回してきた。わたしは振り返ってチェレンに今の気持ちをそのまま伝えた。
「とても素敵。すごくきれい。話で聞くのよりもずっと、ずっと」
「でしょ? その顔が見れてよかったな」

 わたしたちは花畑を迂回して、向かいにあるカフェへ立ち寄った。わたしたち以外にも花畑の周囲を散歩している人々が散見できた。ただ歩いている者、写真に収めている者、ベンチで談笑している者、様々であった。
 カフェへ到達すると、アイスミルクティーを二つ注文してテラス席で戴いた。トリコロールのパラソルがなんとも言えず可愛らしい。サザナミタウンの海もいいけれど、サンギタウンの花畑もいいな、とわたしは満たされた気持ちで思った。
 チェレンはシャツの袖を捲って頬杖をついていた。すでにグラスの中身は空っぽで、氷だけがキャラメル色を鈍くまとわせ静かに溶け出していた。遠くを見るチェレンと風景の間には、レンズがない。
「眼鏡、しなくて平気なの?」
 わたしは思わず尋ねた。
「コンタクトレンズにしたんだ。見慣れない?」
「そうなんだ。見慣れないけど素敵だよ」
「今日、なまえ素敵しか言ってないよ」チェレンは笑った。
「だって、素敵なんだもの」わたしもあわせて笑った。
 チェレンはわたしに長い睫毛を向けて「なまえ、この花畑を描くのはどう?」と聞いた。わたしはいかようにも返事をせず、「え?」と聞き返した。彼はうーんと言いづらそうに頭の後ろを掻いて、その手をそのまま膝の上に乗せ妙にかしこまった姿勢で居直った。思わずわたしも背筋が伸びた。
「ぼくたちは今まで距離がありすぎたと思うんだ。なまえさえよければ、なまえがこっちに越してきても構わないんだけれど」
「わあ」
「あ……いや、ごめん。こういう言い方をするつもりじゃなかったんだ。ぜひ越してきてほしいですお願いします」
 わたしは思わず両手で顔を覆った。顔がにやけるのが止まらなかったのである。そして、その指の隙間からチェレンを見た。チェレンは指と指の間で「なに、それ」と笑っていた。わたしはそうっと手を下ろした。
「いいよ、ちょうど、家の契約更新が来月だから」
「ちょっと。現実的な話出さないでよ」
「そうでもしないと恥ずかしすぎるでしょ」
「まったく」
 チェレンは仕方なさそうに笑った。そうは言っても、彼はそもそもこんなことで怒ったりするような性格ではない。去年の夏からまあまあ正式に付き合うようになって、それから初めてわかったことなのだけれど、彼は真面目が少しいきすぎてこういうところにも出てしまうだけなのだ。つまり、ロマンチックに決めるべきところは、とことん決めにくるといった具合だ。そういうところがあって、彼にはいまいち照れみたいなものがないときがあるようだ。付き合ってもいないわたしを泊まりに誘ってきたあの寒い雪の日みたいに。


 前のことをふりかえってみると、それは忘却されたようで、逆に自分の身に深く染み付いていることがわかった。とはいえ、確実に記憶は薄れているのだ。ただ、染み付いている。
 わたしがチェレンとの旅の節目にカゴメに滞在するということを伝えた日は、春の祭りがあって、ホテルが取れなかった。ポケモンセンターに留まることもできたので、問題はなかったが、ふとわたしは星が見たくなってチェレンを外出に誘ったのだった。チェレンは「いいけど」と、嫌なのかそうでないのかわからない返事をしたものの、ちゃんとわたしの隣で地べたに寝転がってくれた。下にはショップで適当に買ったヒウンタイムズ紙が雑に敷かれていた。
 あの星とあの星を結ぶと、シキジカに少し似ているね。チェレンは至って真面目な顔で言った。あれはポカブで、こっちはチラーミィ。わたしも適当に相槌ついて聴いていた。チェレンって本当に、ポケモンが好きなんだなと思った。
 愉快な解説つきの自然のプラネタリウムはそうしてゆったりと時間を経過させた。ふと、チェレンはわたしに
「なまえはカゴメで何するの」と聞いた。
 わたしは、絵を描く、と言った。イッシュを回って見てきたことを描きたい、と。チェレンは天を仰いだまま、いい夢だ、と言った。
 本当は、そんな出来事なかったかもしれない。それほどに記憶というものは曖昧で刹那的なものだ。でも、なぜかこれだけは自信を持って事実だといえる。いえるというより、事実としたい。チェレンはふと、こんなことを言ったのだ。
「世の中、もっと評価されたほうがいいものっていっぱいあるよ。でもそのどれもが日の目を見ずに、今まさにじっくりとタイミングを伺っている。いつ雪が解けるんだ……ってね」
 どんな文脈だったかさっぱり覚えていない。けれども、確かにわたしの記憶にはこれが刷り込まれている。
 チェレンに思い切って聞いてみたこともある。それはつい最近のことだ。チェレンはポケモン用のおやつを日毎に振り分けながら少し唸って
「そんなこと、言ったっけ。全然覚えてないよ」
 と言うのだった。だからこそわたしはあのときの記憶が疑わしい。

 チェレンの中の雪は、もうすっかり解けたのだろうか。わたしにはそう見える。チェレンはわたしの笑顔が見れてよかったというが、わたしはチェレンの前向きな表情が見れて本当によかったと思っている。

 来週、引越し作業を少しずつ始める。それにさしあたって、わたしはずっと見守ってくれていたベルに報告をしなくてはいけない。わたしはメールして、来週末シッポウに集まることとなった。
 それからあとのことは、まだわからない。わからないけれど、きっと大丈夫。すべてうまくいく。おまじないを心で唱えて、わたしは隣にいる彼の手を握った。