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初出20151208

融雪


5

 春はとおかった。わたしと彼は八番道路における目的をすべて果たしたあと、一晩ホテルでやすみソウリュウへ向かうことにした。その日は、そのころのセッカにしてはお日柄がよく、日中晴れて気温もあがっていたのだが、それが宵の寒さを引き立てる要因となったらしい、わたしはうっかり熱を出してしまって、ホテルの部屋に辿り着くなり倒れ込んでしまう。翌朝、ホテルのロビーに行く約束をしていたので、わたしはろくな準備もせず厚着だけをしてそこへ向かった。チェレンはまだ居なかった。受付のお姉さんにチェックアウトせず宿泊を延ばしたい旨を伝えると、幸い部屋に空きがあったので、わたしは同室でもう一泊できることになった。そのすこしあとに、チェレンは大きな荷物を持ってロビーにやってきた。いやに荷物を持っていないわたしを見て、チェレンは訝しげにどうしたのと言った。
「ごめん。風邪ひいたみたい」
 わたしが答えるなり、彼は冷ややかな線の瞼を押し上げておどろいた表情をした。
「大丈夫? 病院は?」
 言うまでもなく、行っていない。常備薬を持っているので、ひとまずそれで済ませてある。そして、わたしは止むを得ずもう一泊していくことを伝えると、彼は落ち着かない様子で眼鏡の位置を調節して相槌を打った。
 ごめんね。わたしは心の中で再度謝った。自分からついていきたいと言い出したくせに、こうやって足を引っ張ってしまう自分のことが、このときばかりは受け入れるに堪えなかった。そしてそれを彼に押し付けることはもっと堪えられなかったので、あえて謝ることを辞めた。そういったことが功を奏して、彼は独りで先にソウリュウへ向かうという手段を選んでくれた。
「無理はしないで」
 そうお辞儀をして、彼はロビーを去った。

 わたしの病は一日経ってすこし良くなった。翌朝チェックアウトをし、近くの定食屋できちんと食事を済ませたあと、ソウリュウへ向かうべく雪道を踏みしめた。この日も天気がよくって、春一番のような風が吹いていて、案外春はちかいのかもしれないと思った。
 今まで教科書かなにかでしか見たことのなかったシリンダーブリッジを見て、わたしは一時風邪を忘れ観光気分で独りはしゃいだ。無機質な造りの橋だったけれど、雪の白がどこか風情があった。下の産業道路を走る車の音や金属の震える音を聴きながら、のんびりゆっくり散歩でもするかのように歩いた。遅くついたところで、チェレンはまだ図鑑を揃え切っていないだろうから、全然構わないと思っていた。
 橋の中腹あたりで、見覚えのある金髪が目に入った。目を凝らし凝らし近づいてみると、その人影はやはりベルだった。ベルもわたしに気がつき、大慌てでわたしに近づいてきた。
「なまえ! チェレンを見なかった?」
 その問いかけはあまりにも急だったけれど、その一言で彼が尋常でない事態に陥っているであろうことがよく判った。見なかったことを伝えると、ベルは胸の前で両手で抱え込んでいたモンスターボールをわたしに見せるやいなや
「これを置いてねえ、どっか行っちゃったの」
 と困り眉でわたしに訴えた。それらはチェレンの手持ちだった。わたしはぼんやりとした頭でボールの赤と白を眺めて、これを置いていくなんて相当なことだ、と思った。
「わたしこれからソウリュウに行くから、向こうのほうに居ないか見てみるよ」わたしは寒気を追いやってそう言った。
「お願いね」
 ベルはボールをより一層大事に抱え直すと、シリンダーブリッジの向こうのほうへと駆けて行く。
 朦朧と動転とで失念してしまっていたけれど、どうして彼がそんな失踪に至ってしまったのか、ベルがその顛末を知っているかどうかくらいは聞いておけば良かったな、とわたしは後悔した。吹き付ける強い風のせいで熱がまた上がってしまったらしくて、寒気が戻ってきたのはもちろん、身体の節々が痛かった。
 しかし、後悔はそう長くは続かなかった。なぜなら、ソウリュウについた瞬間に運良くチェレンとばったり出くわしたからである。彼はすこしうなだれた様子でベンチに腰掛けていた。近くで柔らかく風に乗り響き渡っている笛の音色に誘われるように、ふわふわとした足取りで彼に近づくと、彼は顔を上げ驚いたようにこちらを見た。
「なまえ! もう大丈夫なの?」
「大丈夫」
 本当は、もうだめかもしれないという気持ちだった。
「ベルが捜してたよ。ポケモン全部置いて行って失踪したって」
「それは、ぼくのこと?」
「そう」
 チェレンは苦虫を噛み潰したような表情をした。このときは理解に及ばなかったけれど、後から情報をしっかり整理してみるとどうやらそれはベルの勘違いらしかった。確かに彼はホテルに一時的にポケモンを置いて外出していたのだが、チェレンと連絡が取れなくなったベルが慌ててホテルの受付に押しかけ、ホテルマンとともに部屋を開けてみると本人が居なく荷物だけが置いてあったので、失踪だと早とちりしてしまったそうである。
「でも、ベルがそう勘違いするのも無理はないな」
 チェレンは自嘲気味に言う。
「あんなことがあったらね……」
 チェレンの話によるといよいよプラズマ団がその悪行を本格的に始めようとしているとのことだった。チェレンとベルは、一人プラズマ団の元へ乗り込もうとするトウヤを追い掛けた。ポケモンリーグでプラズマ団と決着をつけに行く、というトウヤを、チェレンは一度止め、勝負をしかけた。それは、彼に世界を救え得る覚悟があるかどうか確かめるためにだった。しかし、強い意志を抱いたトウヤに、チェレンは敗れてしまう。ついに最後まで、チェレンはトウヤに勝つことができなかった。
「知らなかった。そんな大変なことになっていたなんて」
 それがわたしの率直な感想だった。
「ぼくだって最近まで知らなかったよ。ぼくは、結局トウヤに何もしてやれなかった」
 今頃、トウヤは戦っているのだろうか。わたしは遠いところにいる友人を思った。ジムリーダーやチャンピオンと共に向かっているとはいえ、それはあまりにも大き過ぎる事件のように感じたし、それが勃発していることを知っている人間もそう多くはないのだろうと感じた。わたしも今知ったくらいなのだから、カノコの人たちは知る由しもないだろう。もしかしたら、テレビで中継をしたりしているのだろうか……。わたしはトウヤが今何をしているか、テレビ中継などはやっていたか聞くが、トウヤはライブキャスターにも出ずテレビ局もプラズマ団に押さえられてしまっているらしいとチェレンは言った。なにより、街の雰囲気は平和そのものだったので、聞くまでもないことだったかもしれない。
 木枯らしがぴゅうと吹いた。チェレンは近くのフレンドリーショップで缶コーヒーを買ってくる、と言い残してベンチを立った。彼が席を外している間に、わたしはセッカで買ったスコーンと薬と水をこっそりと鞄から取り出して、それぞれを順番に一思いに飲み込んだ。あまりに胃に悪い食事だった。
 戻ってきたチェレンは買ったコーヒーの片割れをわたしに寄越した。彼は自分の分の缶のプルを上手に引いて、それを傾けて静かに飲んだ。しばらくそうやって、石像のように固まっていた。わたしはお腹がいっぱいだったため、受け取った缶をずっと両手で包んで、冷えた指先をなんとか暖めようと怠い頭で考えた。
「……なまえ。こんなときに自分のことばっかりだけど、カノコタウンを旅立ってからぼくは……なにが変わった? なにがしたいのか、なにをすべきか考えようと、自分と向き合ったらなにもないように思えて……。ぼくは本当に強くなったのか、ポケモンが強くなっただけなのか、よくわからなくなった……」
「チェレンは真面目だね。わたし、そんなこと考えたこともなかったよ」
 わたしは遠い目線の先でパステル調の風船がゆらゆらと揺れているのを眺めながら言った。ありふれた、すごく日常的な風景だった。
「わたしもよくわかんないよ。なにがしたいのか、結局まだ見つかってない」
 どのくらい時間が経ったか分からなかったけど、ふとみるとチェレンはまだ缶を傾け続けていた。その中身があるのかどうか、そのことさえわたしにはわからなかった。ミミロップの着ぐるみが、持っていた風船を一つ手放してしまった。パステルブルーの風船が空高く上がり、快晴の中にうまく溶け込んで消えた。
「いつか雪は融けるかな」
 わたしはほとんど独り言のように呟いた。彼もまた、春がくればね、と呟いた。

 そのすこしあとに、わたしはカゴメに身を寄せた。それまではチェレンと一緒に図鑑を埋めたり何だり行動していたのだけれど、そこで別れることになった。わたしは風邪を無理やり治した後遺症として咳き込みと喉の痛みを長いこと患っていたけれど、カゴメに滞在してからは随分よくなった。お金が底をつき始めていることに気づくまではホテル暮らしをしていたけれど、その後すぐに賃貸を探し、職を探し、生活を整えるまでに必要なだけ時間を使った。そうこうしているうちに、少しだけ忘れてしまったのだ。それまでに起きたことや、旅を共にした人のこととかを。
 チェレンからは、二回ほど思い出したかのようにメールが来た。ほとんどお知らせメールみたいなものだった。ジムリーダーを目指すことにした、とか、ヒウンの学校に通うことにした、とか。ただそれもおぼろげになってわたしの中の様々な思い出と混ざり合って溶けた。
 時が過ぎるのはあまりにも早い。