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下宿先のお嬢さんに恋をした。歯痛がつらい日々があった。友を、裏切らないといけなくなった。誰も知らない龍ノ介の決死(ネタバレなし) 成歩堂龍ノ介 / 大逆転裁判 | 名前変換 | 14min | 初出20160409

後生知らぬふりをして

 ぼくは白い敷布の上で、するどい頭痛に苛まれて起床した。ふかいふかい微睡みから急につめたい現実へと放り出されたぼくは、ゆめかうつつか、判らぬままに仰向けになって体を反らした。ずきん、ずきんと針の先で突っつくように疼いた痛みは、永遠のように続くかと思われたが、窓の外の青空を捉えた瞬間に、ひとたび治った。
 あ、逆さ富士。
 遠くに富士が見える。ぼくが逆さになっているので、其の富士は上から垂らされたようななだらかな曲線を窓の枠いっぱいに見せていて、澄み切った青空と相まって壮観だった。ぼくは呑気に、富士のことを思って、頭痛のことなんて忘れてしまった。
 黒い学生服を纏うと、下宿生にあてがわれた二階の洗面台へ赴く。ひんやりとした水で顔を洗い、歯を磨いた。房楊枝が奥歯に当たったときに、またもするどい痛みがぼくを襲って、思わずよろよろと壁へ倒れこんでしまった。先ほどの頭痛と比べ、衝撃的な痛みであった。此の痛み、理工学部の学生の電撃実験を食らったときと相違ないのでないか。もしくは政治運動の人混みでど突かれたときのものと、然り。……あるいは……そこまで考えて、ぼくは莫迦らしく思えてやめた。

 貴様、其れ虫歯ではないか。
 ぼくは大学で一緒に講義を受けた亜双義に今朝の痛みの相談をした。彼は特段驚きもせずに、淡々と可能性を述べてぼくを恐怖の淵に陥れた。
「む、虫歯だって? 虫歯って、あの虫歯? ……医者にかからなければならないほうの……。」
「其れ以外何がある?」亜双義は呆れ顔で言った。
「成歩堂、貴様、歯科医が恐いのだな? 心配せずとも、今時の歯科には、とっくに麻酔が導入されているだろうさ。」
「そ、うは言っても、さあ。」
 削る。抜歯。想像しただけで身の毛がよだつ。歯を抜くなんて、悪魔の仕業だ。まあ、虫歯になったぼくが悪いのだけれど。口内を、け、削るなんて、拷問や火あぶりの刑となんら変わりないじゃないか。まあ、虫歯になったぼくが云々。
「亜双義は、歯医者にかかったことが……?」
 ぼくは畏れながら訊いてみたのだった。亜双義は刀の柄に両手を重ね掛ける癖を見せて「無い。」と言った。そうであろうな、とぼくは思っていたので、納得した。亜双義は良さそうな房楊枝も持っていそうだし、歯の磨き方も抜かりなさそうなんだもの。

 ぼくは結局其の日一日じゅう虫歯の話をし続けたので、講義が終わるや否や亜双義に引っ張られる勢いでずるずると下宿近くの歯科まで連れてこられてしまった。お金は、下宿の奥さんに話して幾らか貸してもらえた。ぼくは其の間じゅうも嫌だ嫌だ恐い恐いと喚き、亜双義はついに
「泣き喚くな、情けない!」
 と刀をちらつかせたが、其れでもなおぼくの目は泳ぎに泳ぎ、冷や汗はだらだらだった。
 虫歯になった、ぼくが悪いんだ……最終的には諦めがついて、お医者様の前に大人しく座った。いろいろな検査を受けている最中も亜双義は隣に居て呉れて(なんだかんだ優しいのだ)お医者様はぼくの口の中をよくよく覗いて「虫歯じゃあないね。」と言った。
 む、虫歯ではないのですか!
 ぼくはそう言ったつもりが、口を大きく開けていたので、なんだか耳障りな音を出して終わった。
「親知らずが生えているね。此れが悪さしてるんでしょう。」
 ぼくは其時初めてお医者様の手から解放され、頬を擦り擦り訊いた。「親知らず?」
「一番最後に生えてくる永久歯のことでね、きみのは生え方が悪い。じきに其れが虫歯にもなりそうだし。」
 お医者様は淡々と喋った。へえ、とぼくは呆然として聞いていた。でも、つまり、虫歯じゃないんだ。親知らずだか子知らずだか存じないけど、ぼくは虫歯じゃなかった。其れでいいじゃないか。万歳!
「治療は此れ以上必要ないということですか?」
 隣にいた亜双義が訊ねると、お医者様はごく当たり前に「いや。」と言って
「抜いたほうがいいだろうね。来週またおいで。」とぼくたちを診療室から追い出した。
 ぼくは目をぱちくりさせ、唖然としながら長椅子に腰掛けた。
「抜く?」ぼくが訊いた。
「そうらしいな。」亜双義はそう答えた。
 山下さーん、次どうぞー、と言う声が随分遠くに聴こえる気がする。耳も悪くなってしまったのか知らん。ぼくは完全に項垂れてしまった。
「来週は、ひとりで行けよ。」
「あ、ああ……むしろ今日は、ありがとう。付き合って呉れて。」
「気にするな。早く元気になって牛鍋食いに行こうぜ、相棒。」
 ぼくたちは診療所の前で別れ、ぼくは其のまま真っ直ぐ下宿へ戻った。



 下宿へ戻ると、下宿のお嬢さんが晩御飯の支度をされている最中であった。戻りました、と一声かけると、お嬢さんは煮物の火を止めてぼくのところまで来て呉れた。
「龍ノ介さん、母から聞きました。お医者様へ行かれたのでしょう?」
 下宿のお嬢さん、なまえさんは心配そうに言った。なまえさんはとにかく優しい人で、ぼくが風邪を引いたりなんだりすると斯様にして身を案じて呉れるのだった。現在の下宿生がぼくひとりということもあるのだろうけど、部屋までお粥を持ってきて呉れたり、薬を飲むための水を汲んできて呉れたり、深夜こっそりぼくの部屋まで様子を診に来て呉れたり(昼間の間じゅうも寝てたわけなので、其のときぼくはたまたま起きていた)。でも、其れはおそらく優しさだけではない。
 なまえさんはぼくのことを好いている。
 彼女の目線で、其れがなんとなく判ってしまったのである。
「大丈夫です。虫歯でなく、親知らずと言われました。」
「まあ。お医者様は、恐かったですか?」
 なまえさんはくすくす笑いながら訊いた。奥さんから、ぼくの絶叫っぷりを聞いたのであろう。ぼくは頭の後ろを掻いて照れ笑いをしながら、「いいえ、お医者様は良い人でした。」と言った。なまえさんは花がぱちんと弾けるように笑った。
「来週、抜きに行くことになりました。抜かないと駄目らしいのです。」
「其れじゃあ、来週のほうが大変なのですね……。食べやすそうなものを、ご用意しておきますね。」
「気を遣わせてしまい、すみません。ありがとう。」
 ぼくはそう言って部屋へ引き上げた。

 ぼくはなまえさんのことをどう思っているかと言うと、正直言って好きである。ただ、好きというのは恋ということだけではなく、妹へ向けるような愛もあわせて感じ得ているから、ぼくは莫迦みたいに夜這いしたり親の目を盗んで誘惑したりは、しない。できない。間違いのひとつでも起きれば下宿を追い出されるということもあったし、なにより彼女を悲しませたくはなかったのである。
 其の晩の食事は根菜の煮物とすまし汁、納豆であった。ぼくは米一粒も残さぬようご飯を平らげた。なまえさんは側で其れを見ていて、ぼくがおかわりするのを微笑んで待って呉れていた。其れがこそばゆく嬉しくて、ぼくは、歯医者が恐い情けない男だけれど、此の子の仕合わせだけは守ろう、とそう思ったのだった。



 日曜日のことだった。ぼくとなまえさんは奥さんに外の用事を頼まれて商店街へ出てきていた。むろん、ぼくは付き添いとして、である。なまえさんは懸命に手帖をみて、お砂糖を買って、着物を受け取って、其れから……と回る順番を考えていた。手帖に踊るなまえさんの流れるような字は桜の花びらのように可憐で、ぼくは思わずどきりとときめいて、其の瞬間だけ歯の痛みを忘れるようだったが、そんな気持ちは余所へおいてぼくたちは一定の距離をあけて歩いた。
「あ。龍ノ介さん。」
 なまえさんが鈴の音のようにぼくの名を呼ぶ。「梅の花が、咲いていますね。」
 彼女の指差すほうをぼくも見遣って、そして、ほっと息をついた。青い空に小さな花々がぽつりぽつりと浮かぶように咲いている。もう、そんな時期であったか。うちの梅は、まだですね、となまえさんは言う。そういえば、去年も少しだけ遅かったのだっけ、みょうじ邸の梅の木は。
「もう少しで、咲きますよ。きっと。」ぼくは微笑んで声をかけた。「今年も一緒に見られますね。」
 なまえさんは、恥じらいを隠すようにやわらかく笑った。

 ぼくたちはすべての用事を終わらせると、茶屋へ立ち寄った。たまには息抜きでも、と奥さんがなまえさんに多めに握らせていたようである。「久しぶりに、みたらしが食べたいです。」と、用事が終わる前からわくわくを隠せぬようであった。
 ぼくとなまえさんは、緑茶と団子を頼んで外の見える席へ座った。まだ肌寒い風とあたたかな陽の光が、なんとも心地よかった。しばらくそうして、最近の大学でのできごとやなまえさんの読んだ本の話など、とりとめのない話をして過ごした。
「成歩堂じゃないか。」
 ふと、なまえさんの肩越しに声を掛けられた。ぼくは其奴と目が合って、立ち上がって挨拶した。亜双義だ。なまえさんもぼくの挨拶につられて、振り返った。
 亜双義は同い年の男何人かで茶屋へ訪れているようだった。顔が判らないので、おそらく法学部の友人らなのであろう。亜双義は振り返ったなまえさんに一瞥を呉れると、一瞬、動きが止まった。目が少しだけ見開いて、頬の筋肉が少しだけ緊張をしたように見えた。
 其のとき、ぼくは、悪い予感を得たのである。
 亜双義は友人らに先に席に向かうよう伝え、再度、なまえさんでなくぼくを見た。「奇遇だな。」と、先ほどの会話の続きを言いながら。
「そうだ。紹介が遅れた。此方はみょうじなまえさん。ぼくの下宿先のお嬢さんなんだ。」
 と、ぼくは一応彼女を紹介した。亜双義は其のときやっとなまえさんのほうを向いて、彼自身も自己紹介をした。なまえさんは、小さく会釈をして、言葉はひとつも発さぬままだった(彼女は少々人見知りなところがある)。
 ぼくと亜双義は二、三話して、彼は元ある場所へ戻っていった。話す間も、なまえさんを気遣うように目配せをしているのがぼくにはよく見えた。彼が去った後、なまえさんはまたいつもの表情に戻って
「今年は是非、桜が咲いたら向こうの川沿いを散策したいと思っています。龍ノ介さんも、来て下さいますか。」と、言うので、ぼくは勿論と大きく無邪気に肯いてみせた。



 親知らずを抜いた。平日にも関わらず診療所は混み合っていて、ここに来ている人の大体が虫歯か、親知らずか、其の他かと思うと、世間には歯痛を患っている者が多くいるものだな、と恐怖を忘れて感嘆をしてしまうほどだった。ぼくは、約束通りひとりで診療所の長椅子に腰掛けていた。膝が笑い、目が忙しなく泳いでいるのが、自分でも判る。混んでいるのにも関わらず、ぼくのすぐ隣りへ座ろうというものは居なかった。迷惑なまでに、ぼくは来る決死のときに向けて震えていたのだった。
 幾らか待つと順番がやってきて、ふくよかな女性に案内され、ぼくは抜歯を受けることとなった。じつは、あまりにも壮絶だったので、ぼくは其の前後のことを詳細に思い出すことが出来ない。人には忘れていい記憶というものがあって、此れは其れに該当するのだと思う。だから、あえて思い出すようなことも、しない。斯くして、ぼくの親知らずは抜かれ、其の後数日後遺症だけが残った。此の後遺症のことを、ぼくは後生忘れないだろう。

 さて、茶屋で得たぼくの悪い予感というものは、ぼくの願いと裏腹にぴたりと的中してしまった。亜双義は、何日か経ってから、ぼくに一通の手紙を手渡してきた。渡しながら、相談と報告なども一緒にしてきた。なまえさんに惚れた、というのである。手紙は勿論、ぼく宛ではなく、彼女宛だった。
 頭痛は、もうずっと続いている。亜双義は真剣だった。彼の人となりは、ぼくもきちんと判っている。こういうことを適当に決めて行動するような人ではないことくらい、とうの昔に知り得ている。だからこそ、ぼくは真面目に話を聞いた。其れが、ぼくに出来る最大の配慮であった。
 そうして、其の後、考えた。自室に戻って襖を閉じたときに、思考を闇の中に放り投げた。此れを渡したら、どうなってしまうのか。きっと、なまえさんは酷く動揺することであろう。そして、其の手紙を、間違ってもぼくから差し出されたりなんかしたら、動揺どころか、心に無数の傷がついて、家にすら居場所がなくなってしまうかもしれぬ。だから、此の手紙は渡してはいけない。なによりぼくの心が許せないのは、やはり、ぼくも彼女のことを想っているからだった。
 歯の奥がうずく。ぼくは亜双義からの恋文をそっとひらいて、中を流し読んだ。そうして、新しい便箋を引っ張りだして、筆を走らせた。彼女の可憐な字を真似て、ひどく哀しい言葉をただただ書き連ねて、歯痛とも頭痛ともとれぬ喉の奥の痛みにも耐え、ぼくは一通の決別の手紙を書き上げた。ぼくがこんなものを貰ったら、電撃が走って死ぬ。
 ぼくは文机を離れ畳の上に力なく横たわった。辛かった。悲しかった。体じゅうが痛かった。ぼくの正義なんて、所詮こんなもの。ぼくは其れを、二十二にして絶望した。
 仰向けに倒れると、逆さ富士がぼくの頭上に現れた。一瞬、すべての痛みが引いたように思えたが、ぼくの両目からは、泪がはらはらと、いつまでもいつまでも止まらないでいた。
 夕刻になって、なまえさんが襖の向こうから「龍ノ介さん、ご飯の支度ができました。」と明るい声で呼びかけてくる。ぼくは、顔を拭いて、襖を開けた。彼女は、なにも知らない。そしてぼくも、知らぬふりをする。なまえさんは、ぼくの顔を見ると仕合わせそうに笑って、とんとんと先に階段を降りていった。