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番外その3 シャーロックと恋人になってからの初めてのデートの回想(2クリア推奨) 15min | 初出20170902

Euphuism


13 言い寄る

 シャーロックの恋人になってから初めてしたデートのことを、わたしは今でもまざまざと覚えている。彼の恋人になったといえるのは、四月ごろだったのだけれど、わたしが彼の大きな手にひかれ221Bから連れ出されたのは、それからずっと後のことだった。彼が拳銃による怪我をしていたこともあるし、色々と都合がつかなかったこともある。だからわたしたちの関係性は、春頃と比べそんなに大きくは変わっていなかった。

 六月のことである。倫敦では珍しく晴れ日和が続いた。風がよく吹き霧もなく、気持ちの良い日々を過ごしている最中だった。わたしは来年大学を卒業するため、卒業論文を書いているところだった。タイプライターを狭い私室で叩き、たまに小さな窓から吹き込んでくる涼しい風に心を躍らせた。こんな素敵な日は、公園で本を読みたいなあ。そう思いながら、わたしはタイピングを続けた。今日は、あと一時間はこの論文と向き合う必要がある。そうしないと、次の中間発表会まで終わらないからだ。
 ギイ、と蝶番の軋む音がする。ちょうど、机の真横に出入り口があるので、ドアが内側に向かって開けられると、わたしのいるところからは誰が入ってきたかがわからない。しかし、なんとなく、その人物の目星はついていた。高い位置で落ち着いたグレーの髪が揺れるのが見えると、その予感は確信に変わった。
「やあ」
 訪ねてきたシャーロックは、ドアを閉め、そのままわたしのベッドに腰掛けた。わたしはタイプライターを打つ手を止め、シャーロックの方を向いた。
「居間の方ではアイリスがタイピング、ここではなまえがタイピング……いやあ、本当に忙しそうだね。ここ最近ずっとそうじゃないか」
「アイリスもわたしも締め切りがあるからね」
「ふうん。じゃあ……デートには誘えないかな?」
「え?」
 デート。わたしは、目を泳がせて、首を傾げた。シャーロックは、試すようにしてわたしを見ている。わたしはなるべく冷静を保つようにして、「一時間後でも、いい?」と聞いた。
「もちろんさ! 今日は一日空いているからね。……じゃあ、居間で待つことにするよ」
 シャーロックはそう言って、部屋を出て行く。ばたん、とドアの閉まる音がすると、わたしはため息をついて胸をなでおろした。
 デート。わたしはまた、頭の中で復唱した。よもや、おふざけと推理と煙しか吐き出すことのないシャーロックの口から、そんな砂糖菓子のように甘い言葉が出てくる時が来ようとは、わたしは俄かに信じることができなかったのである。わたしにとってのシャーロックは、恋人というより、まだ家族のような感覚だった。それもそのはずで、わたしたちは恋仲という段階を飛ばして、先に家族になってしまったのだ。だから、なんだか、むず痒いような照れくさいような、とにかく落ち着かない気がしている。

 結局、わたしは残り一時間を有効に使えないまま、シャーロックとのデートに出掛けることになった。着替えを済ませ居間へ向かう。居間には全員揃っていた。シャーロックは自分の机で顕微鏡を覗いていて、わたしの部屋のドアが開くのがわかると、すぐに顔を上げてわたしのほうを見た。アイリスは居間のソファで、ナルホドーに肩を叩かせていた。そんなに珍しい光景ではない。ここ最近のナルホドーは、週三回大学に行く以外は、こうしてアイリスとシャーロックの使いっ走りをして過ごしていることが多かったのだ。
 シャーロックは立ち上がり、わたしの隣へやってくる。そして、ソファで雑談をしている二人に向かって、誇らしげに胸を張った。
「ミスター・ナルホドー、アイリス、聞いてくれたまえよ。僕はね、今日、やっと! ……この美しいレディとデートに行くことになったのだよ」
 大げさにアピールするシャーロックの腕をわたしは引っ張った。小さい声で「恥ずかしいからやめて」と言っても、彼は聞く耳を持たない。
「おお、ホームズくん、本当に嬉しいんだねー。なまえちゃんとのデート!」
「で、でえと、ですか」
 ナルホドーは恥ずかしそうに俯いてしまう。日本人は控えめというけれど……ああ、わたしも日本人に生まれたら良かったのかも、なんて、自分のおかれた状況を静かに呪った。
「気を付けて行ってきてねー。あたしたちは午後のティータイムが終わったら、買い出しに出掛けるから!」
「たち……」
 ナルホドーはアイリスの言葉を聞いて、ややげんなりした。一方アイリスは何も気にせず、手を組んで可愛く振り返った。
「うん、なるほどくんはもちろん荷物持ちだよ! ホームズくんっていつも全然持ってくれないけど、なるほどくんはすごくたくさん持ってくれるの。ほんと、この下宿に来てくれて助かったー」
「あっはっはっはっ! なかなか役に立っているようじゃないかミスター・ナルホドー。よかったら、一生居てくれて構わないんだよ」
「いっ……! え、遠慮します」
 わたしは同じ居候の身として、彼の災難を憂いた。しかし……彼らがナルホドーに何でも頼むのは、ナルホドーのことを信頼し大事にしているからこそでもある。わたしたちは、生まれも育ちも境遇も違うけれど、いつの間にか本当の家族みたいになっていた。その事実は、さみしい育ちをしたわたしにとって本当に嬉しいことでもあった。

 素敵なルームメイトに見送られ、わたしたちは下宿を後にした。通りに出ると、馬車が一台止まっている。シャーロックがあらかじめ待たせていたもののようである。馬車に乗るとき、彼は手を引いてエスコートしてくれた。
「何処に行くか、決まってるんだっけ」
 不規則に揺れる馬車に身を委ね、彼に尋ねる。彼は「ああ、決まっているよ。何処だか当ててごらんよ」と言った。
「植物園? 動物園? 遊園?」
「なまえは園のつくものが好きなのかい? 残念ながら、どれも外れだ」
「どういうところ?」
「……なまえの新しい一面が見れそうなところだよ」
 え……と言ったはずの声は掠れて消えた。わたしの新しい一面……? そのヒントは、この問題をさらにややこしくしている気がした。シャーロックは喉の奥でくつくつと笑って、「多分、当てられないだろうね……着いてからのお楽しみってことにしておこうか」と飄々と言ってのけた。
 わたしは色々と考えてみた。まさか、服など見繕ってくれるのだろうか? だとしたら行き先はデパートになると思うけれど、馬車はその場所から遠ざかっているように思えた。劇場の方向だ。コンサート、……ではないと思う。すでにシャーロックとは一応二回、そういった外出をしたことがある。今更音楽鑑賞でわたしの新しい一面なんて、見られないと思う。
 その後もわたしの考えは彷徨い続け、結局のところ、彼の目的地に着くほうが先となってしまった。馬車がゆっくりと止まり、わたしたちは地面に降りた。なんだか、空気が湿っていた。空を見上げると、あの綺麗な晴天はどこかへ行ってしまっている。分厚い雲が影を作り、墨を薄くぼかしたような曇天が広がっていた。
 そんな空の様子よりも気になるのは、目の前にある館だった。看板には、こう書かれてある。マダム・ローザイクの館。とても大きいという訳ではないが、煉瓦がしっかり組まれていて、よく手入れされているようだ。きっとこの建物は、何百年も前から構えている由緒ある建物なのだな、と、わたしは素人ながらに思う。
 マダム・ローザイクという人物の名は、聞き覚えがあった。
「もしかして、去年からちょっと話題になってる……」
「そう、例の見世物屋敷さ」
 噂好きの人がこぞって話題にする蝋人形の展示。今までなんとなく興味を持たず、友人らの話だけ小耳に挟んでいたが……そうか、これがそうなんだ。思わず感嘆してしまう。
「デートに此処を選ぶなんて、シャーロックもなかなか物好きだね」
 わたしは忌憚のない正直な感想を述べた。何しろ、此処はおよそロマンティックな場所とは言い難い。どうお世辞を言ったところで、シャーロックには隠しきれないし……わたしの中には、そんな諦観と、淡い恋心があった。
「僕が蝋人形を見に来たと思う?」
「あ……違うの?」
 彼は心情の読めない目線でわたしをじっと見つめる。わたしは何も言えないまま、彼を見つめ直すしかなかった。「僕が見たいのは、蝋人形じゃない……なまえの反応なのだよ」そう告げると、彼はわたしの肩を引き寄せ
「ねえ、僕はなまえの全てを知りたい」
 そんなことを耳元で言った。わたしは驚いて背筋がまっすぐ伸びてしまう。お腹の奥がぎゅうっと締め付けられたような気もした。今、一体何をされたのだろう。本当に、耳元でなにか呟いただけ? それなのにどうしてこんな、身体中がまさぐられたような感覚があるのだろう。
 シャーロックは小さく笑った。とにかく入ろうよ、そう言ってわたしを先導し、ものものしい雰囲気の館に一緒に入った。

 館の中はガス灯がきちんとついていて、思っていたよりは暖かみがあった。しかし人形が溶けてしまうといけないからか、部屋は随分涼しくしてあった。
 初めに入った部屋と二つ目の部屋は、サーカスの様子や音楽家、なにかとお騒がせな貴族や有名なフィクションの一幕など、今倫敦で楽しまれている娯楽が精巧に創り上げられていた。わたしからしたら、どれも本物の人のようにしか見えない。今にも動き出しそうな躍動感と生き生きとした表情は見事で、まさに圧巻だった。
 ここまでは、よかった。わたしはずっと、館に入る前のシャーロックの行動が気がかりでならなかったが……おそらくそれは、この後やってくるものなのだという予感は薄々あった。彼は、よくできたピエロを見て喜ぶわたしを見たいわけではないのだ。そしてそれは結果としては当たっていて、奥の部屋に続くドアの横に書いてあった「この先、恐怖の間」を読んで、わたしは足が竦んでしまった。
「おや、どうしたんだい?」
 シャーロックが、あまりに白々しく声を掛けてくる。そうか、そういうことだったのだ、とわたしは納得させられる。つまり、シャーロックはわたしを怖がらせてその反応が見たい、とそういう試みのようだ。そういえば、まだスサトがいた頃に、みんなで怪談話をしたことがある。そのとき極端に怖がっていたのは、わたしとナルホドーで、わたしはその夜ひとりで眠れずアイリスと一緒に寝た。ナルホドーは明け方ごろ睡魔に襲われるまで眠れなかったという。シャーロックはそのことを覚えていたのだろう。なんとも意地悪な行動である。
「シャーロック、本当に無理」
「そう? 大丈夫だよ、明日あたり絶対に来てよかったって思うはずだから」
 何を思えばそんな言い分ができるのだろう。わたしには皆目見当もつかない。シャーロックは、もっと傍へおいで、とわたしに彼の腕を掴ませた。そうして、わたしの臆病な拒否はなかったことにされ、ゆっくりとそのドアを開けたのである。
「…………」
 わたしは薄目がちになりながら、シャーロックの歩みに沿っていった。恐怖の間は、いわゆる「殺人現場」の再現のようで、それはそれはもう衝撃的な瞬間が表現されていた。言うまでもないが、変なホラーやオカルトよりも恐い。わたしは殆ど目を開けられなかったので記憶が薄いが、まずバスタブのある一画を見た気がする。
「いやあ、よくできてるね」
「……そう、だね」
「なまえ、僕に抱きついちゃって……可愛いな」
 シャーロックに頭を撫でられる。嬉しくない。まったく、嬉しくない。人は強大な恐怖を目の前にすると、どんなに素敵なロマンスも吹き飛んでしまうらしい。
 もう一つは、室内の事件で、もう一つは、屋外の事件のようだった。記憶がかなりあやふやなのは承知している。もはやわたしはその光景が恐ろしいというよりかは、この空間にいること自体に不安と恐怖を感じていた。そのため、記憶ができていないというよりは、忘れたいという気持ちのほうが勝っていた、のだ。しかしそんなわたしでも、唯一覚えていたことがある……それは、目を瞑ってしまうわたしのことを、シャーロックがあやしたことである。
「なまえ……? 目を開けてごらん。大丈夫、僕しか目に入らないと思うから」
 言われた通り目を開けると、言われた通りシャーロックしか目に入らなかった。彼は吐息が掛かりそうなくらい近距離でわたしの顔を覗き込んでいて、熱のある瞳で、わたしの揺れる瞳を射抜いた。そのまま彼は、口付けをした。やわらかい唇が触れ、わたしは思わず力が抜けそうになってしまう。一度離れたかと思うと、シャーロックはまた唇を重ねた。今度は、やさしく舌を絡めてくる。誰か来たらどうするつもりなのだろう。こういうことを公衆の場で行うのは、皆こっそりやっているとはいえ、女王陛下の名の下ではタブーだった。しかしシャーロックのざらざらとした舌は、わたしの口内に何度も侵入する。何度も唇を食まれる。唾液がまざりあって、彼のごと飲み込んだ。何の味もしなかったが、その事実に身が焦がれる思いだった。
「泣かないで」
 恐怖と、シャーロックに与えられた興奮とで涙を零してしまったわたしの頬を、彼は指で丁寧に拭った。
「ねえ、なまえ……まだ終わりじゃないんだよ」
「え……」
 絶望的な真実を告げられ、夢から醒めたような気持ちになる。彼は、目線を横にずらした。目線は言葉ほどよく語る。彼の目線を追った先にあったのは、厚いカーテンだった。わたしは、一瞬にして悟ってしまう。この奥にあるものが、まさしくこの間の最大級の見世物である、と。
「い。いや……」
 わたしはふるふると首を振った。しかしすでに猟奇的に微笑んだ探偵にはその懇願が効かなかった。彼は物怖じせずわたしの頬を撫で、こう言った。
「僕にもっと見せて……? きみがこの奥のものを見るとどうなるのか、をね」
 誰がこのシャーロック・ホームズを止めることができただろう。わたしはシャーロックに半ば引き摺られながらそのカーテンの中を見、あまりの光景に大泣きして「もう帰りたい」とお願いした。シャーロックは楽しそうに笑っていたけど、わたしの乱心を見てやっと館を出ることを許してくれた。わたしはハンカチに顔を埋め、シャーロックに肩を抱かれながら外に出る。受付のところで、「ふふ……ありがとうございました」と、女性から妖艶なご挨拶を戴いたのを最後に、わたしはこの屋敷を振り返ることもなく馬車に乗った。

 わたしの涙もすっかり引いて、下宿が近づいてきた頃、シャーロックは上機嫌になってこんなことを尋ねてきた。
「なまえ、今日はひとりで眠れそうかな?」
 これこそが今日の彼の最大の目的だったことに気づいたのは、もっとずっと後のことだったと記憶している。