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番外その2 8min | 初出20161029・改稿20171005

Euphuism


12 ハロウィーン

 木枯らしが肌をすべり背中へ抜けて行くたびに、わたしは身震いをひとつして鼻をすすった。ロンドンの秋は、何度過ごしてもちょうどいいものではなかった。冬になってしまえば、重ね着もできて暖炉の火も燃え盛っているのでそうでもないが、この秋はどうしてもいけない。部屋中うすら寒く、板張りの床は侘しく、ランプの火は頼りなかった。
 わたしは二人分の晩ご飯の準備をして、これから冷たい水に触らなければならないことを思って気が沈んだ。二人分。そう、今日はシャーロックと二人きりなのだった。アイリスたちは今、フランスにいるのだ。アイリスは弱冠十二歳で大人顔負けの研究をしていて、それが陽の目を見ることになり、フランスで開かれる学会にお呼ばれされたのである。また、その研究のことを製薬会社がききつけたらしく、先日、その営業の人が下宿までやってきて、アイリスとシャーロックを交えて契約書を囲んでいた。さぞかし、抜け目のない契約を取り付けたことだろう。なにせ、シャーロックは詐欺の事件も数多く解決しているので、悪い手口はほとんど把握していたからだ。
 ともかく、そんなこんなでアイリスはフランスへ飛び立った。
「たくさん契約のお金貰っちゃったから、久々にお洋服でも買おうと思うの! フランスだよ、パリだよ、素敵だよねえ。ルイ・ヴィトンに、カルティエに、エルメスとか、シャネルの帽子もいいよね。なまえちゃんにも、買ってくるからね!」
 わくわくはしゃいで荷物を詰めるアイリスは、本当に嬉しそうだ。シャーロックも、彼女のお金の使い道にはとやかく言わなかったけれども、保護者役のナルホドーに「アイリスが羽目を外さないよう、ちゃんと見ていてくれよ」とこっそり念を押していた。ナルホドーは、「ぼくからしたら、全部羽目を外しているようにしか見えないけど……」とおどおどしていた。この間日本から戻ってきたばかりのスサトも、初めてちゃんと降り立つパリにときめきが隠せないようであった。「スサトは残ってもいいんじゃない?」と、シャーロックの眼差しに耐えられなかったわたしは提案してみたのだけれど、「あらあら、ご遠慮させていただきます」とにこやかに返されて終わった。
 そうして、三人は汽車に乗って出かけて行く。帰ってくるのは、五日後だ。五日……。途方もなく長く感じるのは、わたしだけだろうか。

 シャーロックが、いつもの茶色のコートをはためかせ帰宅してくる。とても上機嫌で、鼻歌を歌っていて、手には立派なオレンジ色のカボチャがあった。
「なまえみてくれ! そこの八百屋で買ってしまったよ。なかなか粋な顔してると思わないかい?」
 器用にくり抜かれたジャック・オー・ランタンは、まんまるの目に三角の鼻、ギザギザの口で構成されていた。たしかに、なんだか憎めない顔をしている。にたにた笑っているようで、どこか気の抜けた、空っぽの表情だった。
 シャーロックはカボチャを机の上に置いて、靴の音をコツコツ鳴らしキッチンへ寄る。鍋の蓋を開けて、ひゅう、と口笛を吹いた。
「今日はシチュー? ちょうど食べたかったんだよ」
 それはよかった、とわたしは言って、火を止める。鍋の中はまだくつくつと音を立てている。
「なまえ……」
 シャーロックが甘えた声で呼ぶので、わたしは咄嗟に一歩身を引いた。しかし、すでに腰に回されていたシャーロックのたくましい腕によって、その退路は絶たれてしまう。
「今、逃げようとしたね? ひどいなあ、僕たちの仲じゃないか」
「だって……」
「大丈夫、今ここには、二人しか居ないんだ」
 シャーロックは気遣うように優しく笑い、わたしの頭を撫でた。人前で愛を語るよさを理解できないわたしは、シャーロックと恋人になってからも、本当に人気を感じない場所でしか恋人らしくいることができなかった。シャーロックもそれは判ってくれていて、アイリスやナルホドーの前では、以前通りのままでやってくれている。
 でも、ひとたび、その弊害がなくなってしまうと、檻から出された虎のように、彼はわたしにがぶりと噛み付くのである。
「今年は二人でハロウィンだね。アイリスにお菓子をせびられなくって済むよ。それとも、なまえがお菓子を欲しがるかな?」
「うん、チョコレートと、クッキーと、ショートケーキと……」
「あっはっは! 参ったなあ、あいにく用意してないよ」
 シャーロックはわたしの手を取って、カウチまで連れて行き、一緒に腰かけた。わたしの肩に手を回して、繋いだままの手は指を深く絡め、わたしの顔を覗き込む。きれいな肌。きれいな瞳。歳相応に少しくたびれた目元。じっと見つめて居ると、シャーロックは結んだ手を解いて、その手でわたしの顎を少し上向きにさせた。そして、わたしの唇にひとつ、口づけを落とす。彼の唇のやわらかさに、わたしは身が縮こまりそうになる。電撃が走るってこのことなのかもしれない。
「なまえは大人だろう? それなら、大人向けのものをあげないとね」
「ええと……それなら、子どものままでいいよ」
「なんでそういうことを言うんだい? ほら、こっちを向いて」
 再び彼の方へ顔を向けさせられ、今度は深いキスをした。煙の匂いだ。先ほどパイプをふかしてきたのか、男性らしい渋い香りがした。シャーロックの吐息が離れていき、整った鼻筋が見えるくらいまで距離が開くと、わたしはほっとした。このまま続いていたら、感電して死んでいたかも、なんて、ばかみたいなことを考えてしまう。
「今のが、大人向けのハロウィン?」
「なに、案外余裕そうじゃないか。アメリカでは仮装が流行ってるみたいだけど、僕たちもする? 仮装」
「し、しないよ」
「僕が医者で、きみが患者っていうのはどうかな」
「どうかな、じゃないよ」
 シャーロックはひとしきり笑って、わたしを腕の中に閉じ込めた。

 シチューを食べおわって、ワインを開けた。下宿の奥さんであるハドソン夫人がカボチャのお菓子を分けてくれたので、ワインと一緒に出した。パンプキン・クッキーのようだ。一口かじると、カボチャとバターの甘い味がした。
 cheers!
 シャーロックが景気良く言う。ワインを飲むと、胸の中がかあっと熱くなった。
「ねえ、なまえ、これはアイリスやナルホドーには内緒なんだが……」
 シャーロックが机に肘をつきながら言う。
「諮問探偵業の範囲を狭めようと思ってね。依頼は受けるが、僕は外出を控えて、人を雇ってやろうと思うんだ。去年は、ちょっとここを空け過ぎてしまったし」
 わたしはそれを訊いて、一瞬混乱が起きて、なにも言うことができなかった。
「それで、いいの?」
「うん?」
「シャーロックは、それで満足いくの? いてもたっても、いられないんじゃないの?」
 わたしは何度も見てきたのだ。彼が犯罪者を追うときの瞳の中に燃え上がる炎や、事件が解決しなかったときの憤りを。「やっぱり僕が現場に行くべきだった」という言葉も、アイリスがふざけて口にすることがあるくらい、口癖のように言っていた。推理が当たることや報酬を得ること以上に、悪事を減らすことによっぽど価値を感じていたはずなのだ。
 しかし、彼は、わたしの目の前で穏やかに笑っていた。
「僕にとって、今はなまえが、とても、本当に大事で……だから、これは当然のことなのさ。それに、特別危険が大きいことから離れるのは、生き物の行動として普通のことじゃないか。僕は探偵を辞めるわけじゃない。ただ、身を守ろうとしている、それだけだよ。この間撃たれたときは、本当に参ったからね。でも、それは、なまえにしたって同じだっただろう?
 これはアイリスには隠しておくつもりさ。こんなことを言ったら、寂しがると思うからね。彼女の前では、僕はいつだって大探偵だったんだ……」
 シャーロックはワイングラスを傾ける。濃い赤はグラスの中で美しく揺れ、整えられた数式のような波を描き彼の中へ吸い込まれていった。
「わたしの前でも、シャーロックはいつだって大探偵だったよ」わたしは、彼と初めて会ったときのこと……古い研究室と、大量の手紙と、バラの咲きこぼれる庭と、チェルシーの夜風……を思い出した。「だから、わたしも寂しいと思う」
「ありがとう。でも、なまえの前では探偵じゃなくって、身近で頼れる男でいたいものだね」
 シャーロックはわたしの手を握って言う。「じゃあまず、お部屋を片付けないとね」と、わたしも悪戯にはにかんだ。