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BL小説 BLove
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番外その1 シャーロック目線で語られる彼女との邂逅 36min | 初出20160612

Euphuism


11 彼の手記

 白いカーテンが外からの風を可視化して見せる。緩急をつけて大らかにはためくと、それは何事もなかったかのように一枚のただの布に戻って垂れ下がった。外からの光のせいで、室内の埃が舞っているのが露わになる。その細やかな塵に光が乱反射して、ぼんやりとした淡い光が部屋全体を覆う。窓のさんには拭き取られずに残った白い埃が、湿り気を持ってこびりついていた。サイド・テーブルにある水差しとグラスはこぎれいなものだったが、その側にある花瓶は薄く濁っていた。その様子こそ、この病室に最もふさわしく、また部屋の遍歴を多く物語っていた。
 先ほどまで、僕はひどく暴れていたらしい。それは医師から詳しくは言われなかったのだが、目の前に広がる光景を見れば明らかだった。僕がどんな順番で、勢いで、手段で動いたかは、状況証拠で幾らでも推理できた。まるでその映像を、第三者の目線で、幽霊になった気分で想像することも可能だ。僕はずっとそういうことばかりしてきたし、そういうこと以外はおおよそ切り捨ててきた。
 僕はまず、シーツを力いっぱい投げたのであろう。丸まってくしゃくしゃになったシーツが、向かいの壁付近にだらしなく落ちている。布は思いの外遠くへ飛ばないから、あそこまで投げるには丸めて、しかも全力で投げるしかない。そのあと僕は皿を壁に向かって投げた。シーツの上に割れた皿の破片がある。だから僕は、シーツの後に皿を投げたことになる。割れているから、間違いなく壁に一度当たっている。他にも色んなものが散乱していた。鞄、服、本、新聞記事。あと、林檎と思われる破片が、ベッドの脇に落ちていた。
 このように、多くのことは状況が語り、僕の口からは語られない。記憶がないのである。僕の記憶は、穏やかにベッドに横たわっているところから始まる。だから僕は、普通に朝が来て目が覚めた、と思った。もしくは、昼寝から目が覚めた。ひとつ違うのは、僕の寝顔をそれはそれは熱心に見つめていた、口髭をたくわえた医者が目の前にいたことだった。部屋の中は光が差していて全体的に淡かった。ぼんやりとした輪郭に、ぼくはひどく懐かしい気持ちにさせられた。
「ミコトバ……?」
 僕の寝ぼけ頭は、一瞬その人物を旧い友人だと思って、そのように声を掛けてしまった。しかし一向に返事がない。ぼくは目をまたしばらく閉じ、開けてみる。そこには、ミコトバは居なかった。
「きみは悪い夢を、見ていたようだ」
 目の前の医者がそっと口を開いた。声を聞くと、ますます旧友とは異なることが判った。視界がはっきりしてきて、ぼくはこの医者が彼とは全くの別人だということを深く確信した。医者は多くは語らず、僕の脈や眼球の動きなどを診て、長い息を吐いた。僕は周りを見回す。医者の後ろには看護婦が一人と、扉の近くに何人かの男性職員がいるようだった。部屋は散乱していて、僕は今ひとつ状況を理解することができなかったけれど、医者の次の言葉でほとんど推察できた。
「あまり覚えていないでしょう。しかし、それで良いのです。さて、ここに一冊のノートとペンがあります。書くことは頭の整理になります。退院まで、今までのご自分の生活を振り返ってみて記してください。きっと早期の退院にも繋がりますから」
 言いたいことだけ言うと医者はそこから去っていった。深い事情は知らないが、医者からのこの勧めは、何も日記を付けなさいと教師のように親切に指導したわけではなく、単に検査の一環というような気がした。しかも、こういう患者には勧めなければいけないとか、医師会であらかじめ決められていそうな、極めて形式的なもののように思える。このノートに少しでもおかしなことを書けば、僕はもうちょっと大きくて幾分マシな王立の精神病院に押し込まれることだろう。変な文章はもちろん、ぐちゃぐちゃの絵なんか描いたりしたらもう終わりだ。入院を長引かせるわけにいかないので、僕は比較的まともなことを書こうと思った。
 探偵業をする僕の中でのごく一般的な記憶というのは、非常に狭義的だった。



 僕は母校でもある大学の研究室をよく借りて様々な実験をしていた。あるときは事件解決に役立つ薬品を作ったり、あるときは何の役にもたたない無意味な装置を作ったりした(全自動蠅取器とか)。下宿でやらないのは、同居人であるアイリスへの配慮が九十九パーセントだった。僕の研究にかなり理解のある彼女だが、女性である彼女の研究と僕のそれは路線が少しずれていて、彼女は可愛い色の素敵な香りのする煙が好きだった。僕の研究は犯罪に関するものだから、少々無骨だ。小さいレディは、僕が無配慮に部屋の中の空気を濁すとそれなりに注意をした。さすがの僕も気を遣って、こうして外で煙を焚いているわけである。

 僕の姿を見て、「あ! シャーロック・ホームズさんだ!」と言い興奮して駆け寄ってきてサインください、あ、よければ握手も、なんて好奇心旺盛な青年が言っているうちに周りの人も気づいてしまって次々と「ホームズさんだわ」「ホームズさん」「ホームズさん格好良い」「素敵」なんて取り囲まれてしまって、やれやれ参ったなあと僕は肩をすくめる、なんていうことは、この大学では経験したことがない。この大学では、というより、このロンドンの街で基本的にそういう現象はほとんどない。意外と僕は目立たない。意外とね。売れている本に描いてあるのはインクで表現された絵だし、誰も僕がシャーロック・ホームズとは気付かないわけだ。探偵は目立たない方がいいのだけれど、どうせ目立とうとしたって目立たない、それが現実というものだった。
 春に差し掛かるころだったろうか。僕は研究の休憩として、散歩がてら一服をしようと、わりに暖かな中庭に出てのんびりした。十分程度で研究室に戻ると、一人の女性が、部屋の前で本を抱えてぼんやりしているのが見えた。研究室の扉は開けっぱなし(僕がそうしたのだ。ここには盗まれるものもない)になっていて、その女性の目線の先には壁に掛けた僕のディアストーカーがあった。
「何かお困りですか?」
 僕は女性が道に迷ったていで訊いてみる。女性は驚いて振り返り、僕の顔を見てさらに驚愕して手で口を覆った。僕は女性の様子をまじまじと観察した。グレーの瞳に陶器のような肌で、派手すぎない服装、趣味の良い革靴を履いていた。落ち着いていて賢そうな学生、といったところか。
「あの。もしかして、シャーロック・ホームズさん?」
 彼女は問い掛ける。僕は前髪を掻き上げ「ええ。僕がアノシャーロック・ホームズです」と言った。なあに、大したことではない。自己紹介をしただけである。
 女性は、自分がなまえという名前であることを名乗った。そして、本を差し出して「いきなりで申し訳ありませんが、サインをいただけないでしょうか?」と言った。僕は「もちろん」と快くそれを受け止めた。本のタイトルは「緋色の習作」、言わずと知れた僕が主役の長編小説である。ハード・カバーの内側にサインしてやり、本を彼女に返す。彼女は礼儀正しいお辞儀を一つして帰って行った。僕はそんな彼女の様子に違和感しか覚えなかった。
 自惚れるわけじゃないが、いささか形式的すぎるやり口ではなかっただろうか? 僕の持ち物、僕の顔を見て、シャーロック・ホームズという単語が出てきたらそれは結構熱狂的なファンである。今までがそうだったのだ。彼らはサイン一つでも貰えば笑顔にならざるを得ない。何度もお辞儀せざるを得ない。でも、なまえという女性にはそれが無かった。自惚れるわけじゃないが、それはあり得ないと思った。
 アイリスはそれを「お友だちにでも頼まれたんじゃない? サイン貰ってきてって」ということにした。でも、それは当て推量に過ぎなかった。なまえはあのあと何度も、僕の元へ訪れたのである。

「あの、今はお忙しいでしょうか」
 例によって開け放たれたままの入り口に、なまえは顔を出した。僕はそのとき研究そっちのけで新聞を読んでいた。読み上げてくれる相棒が居なくなってからというものの、面白そうな記事は自分の目で探すしかなかった。アイリスも読んでくれることがあるが、大抵大きな記事を読んで終わってしまう。僕が知りたいのは、なんの変哲もなさそうな小さい記事の中の違和だったりするので、やはり自分で読まなくてはならない。
 なんにせよ、ミス・なまえは再来した。そういえばこの頃はまだ、僕は彼女のことをこう呼んでいた。ミス・なまえ。彼女の再訪は、初めて会話をしたときから一週間ほど空いていたから、僕は一瞬誰が来たのかすらよく判っていなかった。話を聞くうちに、あの時の女性か、というのが細い記憶の糸を手繰り寄せるように判ったのである。
「今は研究をされているのですか?」
「ええ、まあ。たった今は新聞を読んでいましたがね」
 それは失礼しました、と彼女は小さく笑った。中々冷静な女性である。僕の中の女性たちは、もう少しお喋りで明るく笑う人たちだった。でも、男性に混じって大学にいるくらいだから、今まで男性が担ってきたものが少しずつ受け渡されていると考えても不自然ではない。女性の家庭教師業も流行っているし、そういう理知的な女性も今や珍しくないのだろう。
「少し、お側で様子を見ていてもよいでしょうか」
 なまえは僕をおっとりした目で見た。僕は「女性が楽しめるようなものではないよ。止めはしないが……好きにしたらいい」という風に返したと思う。
 そうして彼女はそれからほぼ毎日、研究室にやって来た。特に何かがあるというわけではなかった。僕の研究を眺めたり、読んでいた新聞を彼女も読んでみたり、そういう風にして時間は流れていった。たまに紅茶を淹れてあげたり、彼女がお菓子を持ってくることがあった。会話はにこやかに行われた。彼女の話は退屈ではなかったし、僕の話も彼女を飽きさせなかったみたいだった。
 でも、ますますよく判らない。彼女は何のために研究室へ訪れるのだろう。僕の印象だと、事は極めて事務的に行われていた。僕の研究室に来ることが彼女の義務みたいに感じられた。まるで時計仕掛けの人形のようだ。それが恋心だったら、もう少し話は単純だったのにと思う。とはいえ、僕は彼女の恋心を受け止める器量も気力も勇気もなかったのだが……とにかく僕はその思惑が気になって、さして用事がないのに研究室に居ることもあった。

 二週間ほどそんな日々が続いたと思う。僕はその頃ヤードが持ってくる簡単な事件の簡単なコンサルタント業しかしていなかったので、幾分暇だった。家でぐったりするよりは、研究室に訪れる可愛らしいお嬢さんと話でもしている方がましだと思って、僕は研究室で無意味な研究をしながら彼女を待った。しかし、彼女はその日訪れなかった。まあそういうこともあるだろう。僕はそう思って、夕方頃には引き上げた。
 それから次の日も、僕は研究室へ行った。雨の降っている日だった。僕は薬品関係の論文をまとめた本を、その手の教授から借りて読んでいた。暇な一日だった。周りの人々は目的を持って足早に一日を過ごしていたが、僕はそういう何かもなく、ただ日が暮れるのを待っていた。もっとも、夕焼けを見るには少し雲が分厚すぎたのだが。その日も彼女は来なかった。
 その次の日も、……やめよう。これ以上の詳細を僕は覚えていないし、書くだけ虚しい。とにかく、なまえは急に来なくなってしまった。それは竜巻がやってくるのと同じくらい突然のことだった。
 いったい、どうしたというのだろう? もしかして、大きな事故や事件に見舞われているのではないだろうな。僕は考えてみる。しかしここ最近年頃の女性が事故・事件に巻き込まれたという話は、少なくとも僕の耳には挟んでいない。僕の情報網はロンドン中に張り巡らせているから、すなわち、そんな事件は実際に起こっていない確率のほうが断然高いのである。
 もしくは、病気。あるいは、僕は愛想をつかれた可能性がある。でも、そもそも愛想というものが、あのなまえにあったのだろうか。あの目は僕を見ているようで見ていなかった。少なくとも、僕がミス・なまえと呼んでいるうちは、恋慕はなかったと思われる。
 一方、僕の方はどうだったか? それはそれは心が乱された。何度も言うけれど、特別暇だったということもある。また、アイリスのおかげもあって少しは女性への偏見が薄れたということもある(僕は女性が信用できない時期があった。本当に若い頃の話だ)。何より決定的だったのは、僕はその日、なまえにあげようと小さな花束を持っていた。その花を渡すのはとても自然な流れだと僕は思っていて、つまり僕は無意識のうちに、ありきたりに言えば、恋をしていたということになる……今思えば。しかし贈ることは果たされなかった。夕刻になるまで、花は飾り気のない変な匂いのする研修室の中で、異様に美しく机の上に乗っていた。日が暮れると、僕の手によって下宿に持ち帰られ、アイリスの手によって花瓶に飾られた。そしてなまえに一度も見られることなく、散っていった。

 あれからまた少しの時間が経った。僕は変わらず時間を持て余し、当てもなく新聞を眺めていた。大きな記事から小さな記事まで、ほとんど満遍なく眺めた。文化欄にまでいってしまうと、いささか読む気を失くす。僕は文学は読まないのだ。
 しかし、その項目に僕の名前を見つけたので、僕の注意は引き続き文化欄に払われることになった。でもどうやら、僕の本の売れ行きとか功績とかを讃える文章ではないらしかった。いわゆる、書評というものである。アイリスの書いた文章によもや書評はつくとは思わなかった。しかも彼女の書く話は、半分くらいは僕の伝記である。文学を嗜む人たちが読みやすいようにロマンスたっぷりに書かれているけれど、筋立ては僕に因るものだ。だからそんなものが評価の対象になるなんて、余計に思わなかったのである。
 その書評は評論と言いつつも、僕の私生活に密着したかのような記述もされている。「出身大学の研究室にて、胸躍るような事件解決へのヒントを模索していた……。」とこちらもやや夢を持たせる書き方をする。僕が研究室に篭っていることは以前雑誌の特集を組まれたときにも書かれたことだし、この述者がそのようなことを知っていても、何ら変わりないただの「事実」に過ぎなかった。「ホームズ氏は研究室で紅茶も嗜まれ、その淹れ方も大変器用だった。」ふうん。まるでどこかで見ていたような口ぶりだ。
 まるで、ドアの向こうからでも見ていたかのような……。
 僕は一つの予感を持って、書評を読み進めた。その最後には文責の名がきちんと記載されていた。なまえ。ラスト・ネームは初めて知ったが、これは彼女に違いない。書評の最後に、「緋色の習作にサインを貰った」とある。僕があのときサインしたのも、緋色の習作だった。
 僕は一つの仮説を立てた。これを書き上げたから、彼女は僕の元を去った。これは単純で明快な答えだろう。でも、それなら何故、正々堂々と「書評のための取材で」と言わなかったのか。言うわけにはいかなかったのだろう。取材をすれば、取材料を払わなければいけない。だから彼女はこっそりと僕の側に寄って、そっと離れていったのだろう。しかし、それをやるには、彼女は演技力がなさすぎた。もしくは、演技するつもりがなかった。こういうことを考える人間は、もうちょっと徹底的にやるものである。そうすると、彼女はどちらかといえば脅迫されて従わせられている子飼いということになる。…………。

 僕は新聞局を尋ね、なまえの住所を訊いた。本来答えてもらえなさそうなものだが、僕は新聞局に一人口利きしてくれる友人を持っていて(本当は弱みを握っているだけだが、そんなことここには書けない)その人物に頼みを叶えてもらう。彼女はチェルシーに住んでいた。ウェスト・エンドは比較的富裕層が多いが、チェルシーはその中でも際立って高級住宅街だった。
 僕は彼女の家の近くを張る。他の家々と比べると小さな家だった。使用人も一人といったところだろう。
 昼過ぎ頃、大きな旅行鞄を持ってなまえが帰ってきた。家のベルを押すと、一人の使用人がぱたぱたと出てきて彼女の鞄を持ち家に入れた。その数分後、先ほどの使用人とは異なる男が家から出てきた。服装からして主人だろう。僕と同じくらいの年齢に見えた。その男性は、ポストを覗いて手紙を持って行った。随分たくさんの手紙だった。一日分どころではない。三日放っておいたと思うにしても溜まりすぎと思える量だった。
 僕はそのあと家の周囲をぐるっと回った。窓の数と家の大きさからすると、妥当な部屋数は四つほどだろう。一つは居間だとして、他三つは個室。イースト・エンドじゃあるまいし、三人暮らしと思うのが妥当だ。それであれば、この家で暮らしていると思われる人物全員を、すでに目にしたことになる。
 十三時すぎごろ、家のドアは再び開いた。なまえが軽装で出てくる。僕はその後ろにぴたりと張り付いて、ひと気のある賑やかな通りに出たところで話し掛けた。
「この間は素敵な書評をありがとう、ミス・なまえ」
 なまえは硬直して足を止めた。振り返ってはくれたが、彼女は少なからず怯えていた。
「やあ。久しぶりだね。ところでこれから時間はあるかな?」
「あ。あの、……」
「恐がらないでいい、僕はきみの力になりたいんだ」
 彼女の震えは僕の協力の申し出によって少し緩和されたようだった。僕は馬車を捕まえ、彼女を下宿まで連れて行った。彼女は困惑と戸惑いと少しの恐怖とで、その冷静な佇まいが押し潰されそうになっていた。僕はまず彼女に薄めのブランデーを渡して、心を落ち着かせるように言う。次第に彼女は正しい呼吸を取り戻し、カウチに深く腰掛け穏やかになっていった。
「ホームズさん、その、従兄のことをご存知でいらっしゃるのですか?」
「きみの家のご主人のことかな?」
 なまえは少し驚いて間を置いたものの、深く頷いた。
「僕は、きみの罪を問いたいわけじゃない。ただ、きみが何か面倒なことに巻き込まれているようだったからね」
「はい……本当に、今、困っています」
「話してくれるね?」
 なまえは肯き、恐れながらも話し始めた。「わたしたちは今、脅迫の手紙に悩まされています。といっても、宛先は決まって従兄なのですが……従兄に手紙が届くようになったのは、もう三ヶ月も前のことです……最初の手紙の内容は、何時何分にパディントン駅周辺に来いというような内容でした。来なければ大変な目に遭うぞ、と。初めはいたずらの手紙ではないか、と従兄も本気にはしていませんでしたので、おそらく駅には行かなかったのでしょう。しかしその数日後、いたずらはほんとうになってしまって、従兄は街を歩いているときに何者かに襲われ、全治三週間の怪我を負ってしまったのです。そのあとまた手紙が届きました。指示に従わなければもっと大変な目に遭う、警察に言えば命はない、と……。そのときから、手紙はひっきりなしに届くようになりました」
「手紙に脅されていたと?」
「はい……」
「いとこのお兄さんは、さぞかしその手紙を恐がって、ポストを気にして、届いたらすぐ開くようにしていたんだろうね」
「ええ、きっとそうしていたはずです……彼も、ひどく怯えていましたから」
「なるほど、大した俳優さんだ」
 僕は、一つの確信を得た。従兄は手紙を恐れていない。脅迫を恐れた人間は、ポストを三日も放置しないからだ。
「気にしないで、続けてくれたまえ」
「基本的に……手紙の指示の内容は、簡単なものでした。公園で受け取ったものをあの通りのあの人物に渡せ、ですとか、この人物にこの言葉を言って物を受け取って郵便局から配送しろ、ですとか……。ここ最近は、わたしへの指示も増えてきました。それは、新聞に載せるエッセイや書評を書くことでした」
「その指示には、ある単語を組み合わせて入れるよう指示がされていた?」
 なまえは目を見開いて驚いた。「はい……! どうして判ったのですか?」僕はパイプを咥えて一言、「よくある話ですから」と言って、彼女に話を続けてもらうようにした。
「初めは本当に簡単な内容でしたが、次第にその内容は深く自分の力だけでは手に負えないものになっていました。新聞社に友人が居るのでよく知っているのですが、新聞に載せるにはある程度の質が必要で、その質の一要素としてインタビューとか取材とかが要るということでした。ただ、わたしには自由に遣えるお金がありません」
「でも、指示には従わなければいけない。新聞に載せられる質の文章を書かなければいけない」
「そうです……。それで、ホームズさんに黙って近づいてしまいました」
「なるほどよく判りました。事件はほぼ解決しました」
 なまえはふたたび驚いて、今度はソファから跳ね上がった。信じられない、といった表情である。
「ただし、まだ証拠がない。ミス・なまえ、きみには一芝居打ってもらうよ。僕に見せたのとは大違いの、大女優の演技だ。できるね? 僕はきみの恋人を演じ、きみの家まで行く。そのときにその脅迫の手紙と、なんでもいいけど従兄の筆跡が判るようなものを見せてくれ。くれぐれも僕が探偵だってバレないようにね」
「はい、判りました……」
「敬語もだめだよ。僕のことはシャーロックと呼ぶこと。僕もきみのことを呼び捨てにするけれど、無礼を許してくれるね?」
「……もちろん、問題ないよ」なまえは戸惑いながらも、他人行儀を取り下げた。
「でも、大丈夫かな……その、あなたの姿格好は、どう見てもシャーロック・ホームズにしか見えないし」
「大丈夫さ。僕は意外と目立たない。意外とね。まあ気になるなら、眼鏡を掛けていこう」
 僕はロイド眼鏡を掛け、普段着ないような黒いジャケットを着た。紳士用のハットを被れば、僕のアイコン的要素は一つもなくなる。僕は馭者を呼んで、メリルボーンからチェルシーへ、馬を走らせた。

 チェルシーの彼女の家の前まで行くと、僕は彼女の後について家に招き入れてもらう。使用人が奥から出ておいでになり、僕を見ると嬉しそうに笑った。
「お嬢様、こちらの殿方は」
「わたしの大切な人だよ、オーサー。今日は紹介しに来たの」
「初めまして。シャーロック・マクファーレンといいます」僕は適当に名乗った。
「そうでございましたか。しかしあいにく、ご主人様は外出中でございます。お茶でも飲みながらお待ちになっていただきたいのですが、帰りが遅くなるということでしたので……」
「お構い無く」僕は人の良い笑みを浮かべた。オーサーと呼ばれる使用人は、ほっと微笑んで、「では紅茶をお持ちしますね」と廊下の奥へ消えていった。
「なまえ、きみはラッキー・ガールだ。さあ、手紙を確認しよう」
 なまえは今にある手紙の入った箱と、本棚に挟まっていたファイルを取り出した。僕はその場で手早く筆跡を確認すると、その不幸の手紙と従兄の筆跡はぴたりと一致することが判った。
「手紙はこれで全部かな?」
 なまえは、恐らくそうであることを述べた。僕はそれを全部鞄に入れる。紅茶のトレイを持ってやってきたオーサーに寄り、「せっかくご用意いただいたのに申し訳ありません。本日はこれで失礼いたします」と言った。オーサーは驚いたものの、肯いて「またいらっしゃってくださいね」と言った。
 しかし、僕たちの退路は一旦絶たれてしまう。従兄が帰ってきたのだ。オーサーはそれにも驚き、慌てて玄関口まで行った。レモンの入った紅茶の薫りが、部屋の中に優しく広がっている。僕も緊張してきたけれど、なまえも少々戸惑いを見せた。彼女にはまだ僕の推理を何も教えていないけれど、従兄が怪しいということが、彼女にもなんとなく判っているようだった。
 従兄はジャケットと帽子をオーサーに渡しながら居間へ入ってきた。「こんにちは、なまえがいつもお世話になっています」と、兄らしい立派な挨拶をする。僕も好印象を与えそうな笑みで返事を返す。なまえも、演技ができないわりには、幸せそうに笑って僕に寄り添っていた。
「お兄さん、わたし、恋人ができたの。もうオーサーから訊いたかな」
「さきほどちらっとね。ええと、どちら様だったかな?」
「シャーロック・マクファーレンと申します」
「ミスター・マクファーレン。どうも、ヘンリー・シンクレアといいます」
 僕たちは握手をした。細くて力のなさそうな男である。なまえと同じグレーの瞳は、賢そうに澄んでいた。
「シャーロックとは、珍しいお名前です。かの名探偵と同じだ。なまえも探偵小説が好きだったね? こないだ書評も書いていたし」
「そう! シャーロック……素敵な響きだよね? わたし、時々シャーロックと出会えたのは運命なのかなって思うの」
「ははは、なまえもそういうことを言うようになるとは。でもまあ、僕は私立探偵というものがいまいち信用できない……いや、ミスター、あなたのことを暗喩しているわけではありませんよ。可愛い妹をあなたに取られて、ちょっとやきもきしているのは事実ですけれどね」
「ええ、判っていますよ」僕は微笑みながら言った。
「ただねえ、僕は、彼らほど正義をかざしているわりに自己中心で高給取りなやつらに、思うところがあるというだけです……少しね。気を悪くしないでいただきたい。もちろん、ストランド・マガジンに掲載されているあの冒険譚は、面白いとは思いますよ。でも、現実とは違う……と僕は思うんですがねえ」
「事実は小説より奇なり、とも言いますから、言葉のあやとは面白いものです」
 僕は朗らかに言った。シンクレアは笑って、「そうだねシャーロックさん。言葉のあやとは面白い」と言った。
 僕たちはオーサーの「お見送りいたします」という言葉を合図に、玄関まで向かった。辺りはすでに暗くなり始めており、春らしい涼しげな風が、チェルシーの街並みを更に高貴に仕立て上げていた。僕たちは玄関を境に対峙する。シンクレアはオーサーの後ろで狡猾に目を細めていた。恐らくだけれど、彼の企てる犯罪に、人の良さそうな僕をどう絡めようか企んでいたのだろう。僕は去り際に振り返って言った。「よい一日を」
 僕の合図を受け、庭で張っていたヤードの連中がドアの前まで駆けつけた。シンクレアは唖然としているうちに手錠を掛けられ、馬車へと連れ込まれる。僕は眼鏡を取ってポケットへ入れ込んだ。シンクレアはわけがわからないというような顔をしていたが、何かに気づいたかのように僕の方を見る。僕は「探偵を馬鹿にするものは、探偵に泣くものですよ」と言った。言ったことで特に気分が優れるということもなかったが、一人の悪党が捕まって僕はせいせいした。
 部下に指示出しをしていたと思われるレストレイド警部が、ややうんざりという表情で僕のほうへ歩み寄ってきた。茂みにいたせいで、葉っぱが頭の上に乗っている。
「ああ探偵さん、おめでとうございます。あなたに呼び出されてわけもわからず一人の男を捕まえましたけど、さぞかし重大な犯罪をやったんでしょうね?」
「もちろんさ。きみたちが二年ほど追いかけても捕まえられなかった化物のしっぽだと思うがね。証拠はこれだ」僕は手紙の束を渡した。「まさか、ヤードの皆さんに僕から説明する必要はないだろうね?」
 僕の物言いにレストレイドは更にいらいらしながら、「事情聴取には協力してもらいますからね!」と叫ぶように言った。彼はそれから部下にあれやこれやと指示を出し、待たせていた馬車の中の一つに乗って行ってしまう。僕たちのそばには二人の警察官が残ったが、彼らは僕の様子を伺うだけで、今のところはなにか話しかけようともしなかった。
「ねえ、シャーロック。わたしには説明をしてくれる?」
 僕の腕を掴んだままだったなまえは、不安げに言った。今もなお、衝撃がなまえの心を強く揺さぶっているのがよく判った。僕は帽子を深く被り直し、彼女に説明をした。
 まずこの事件は、半ば狂言であった。シンクレアは自分で自分を脅迫し、被害者を装っていたのである。彼は恐らくどこかの組織に所属し、暗号でもって組員に連絡をしていた。時にはものを運び、時にはなまえを使って新聞上に暗号を載せる。しかし、彼の誤算はここから始まる。新聞社は、なまえの記事の質を求めるようになった。エンターテイメント性も併せ持つ記事を書かせなくてはいけなくなった。そこで僕を選んだのは、シンクレアの最大の誤算と過信だった。自分はシャーロック・ホームズには捕まらないぞという自信が透けて見える。彼は探偵を根拠薄いままで見下していたし、僕のことも依頼金なしに動くような情のある人間だと思っていなかったようだ。後から訊いて確信を得たけど、彼女の小遣いは彼が完璧に管理していたから、僕に依頼なんかしたらすぐに判るようになっていたと思われる。もっといえば、若くして両親を失った彼女の遺産までも管理していた。とんでもない金の亡者である。
 僕たちは事情聴取を受け、それぞれの帰る場所へ帰った。そのときのなまえの様子などは特に記憶されていない。

 僕はその事件を堺に、次々とヤードから未解決事件を持ち込まれることになる。単にタイミングの問題だとは思うのだが、なんにせよ少し忙しくなってしまって、僕は221Bをほとんど離れず、頭のなかで事件のことをあれこれ考える日々を送っていた。
「ホームズくん、そろそろ薔薇の時期だよ」
 アイリスが外の様子を伝えてくれる。ろくに返事もせずに僕はソファに背中から埋もれこんだ。アイリスは小さな足音を立てて駆け寄ると、「手紙! ホームズくん!」と紙を投げつけてきた。僕は腹の上に落ちてきた手紙を取る。なまえからの手紙だった。

「この間のお礼をしたいです。本当はそちらまで伺いたいところですが、チェルシーまで来ていただけませんか? シャーロックに見せたい景色があります」

 僕は彼女と連絡をとって、チェルシーのウィズリー・ガーデンへ向かった。なまえとはあれ以来会っていなかったが、彼女は春らしいドレスを身にまとい、脅迫に怯えているころよりかは精力的に見えた。ウィズリー・ガーデンは、とても上品で美しい植物園だった。アイリスの言っていたとおり今は薔薇の季節のようで、あちこちに薔薇が咲こぼれていた。これがなまえが僕に見せたかったチェルシーの景色の一つらしく、彼女はそのとき、自分が生まれ育ったチェルシーの街を愛しているということと、そんなチェルシーで衝撃的な出来事が起こってしまって悲しいということを、困った笑顔で話してくれた。
 なまえはテムズ川付近のレストランを予約してくれていて、僕にディナーをご馳走してくれた。テラス席は薄明るく、川は夜空よりも深い郡青で、空には星が燦然と輝いていた。今日の夜も涼しかった。シンクレアを捕まえた日の夜を思い出してしまうほどだ。あの夜は、事件さえなければ最高に心地の良い夜になったはずだった。
「きみは自由に遣えるお金を手にしたんだね」
「うん、おかげさまで」
「よかった」
 不器用な僕たちの会話は途切れる。恋人ごっこは、終わったのだ。彼女は肉料理に少し手を付けると、フォークを置いて、「お金は手に入ったけど、家は手放すことになったの」と言った。
「そうか。まあチェルシーは地価も高いだろうしね。あれを売れば、ストランドあたりで一生食うに困らないくらいのお金にはなりそうだ」
「あ……ごめんなさい、違うの。わたしには、あの家の相続権はなかったの。だから、追い出される、という表現が正しいのかも」
「ふむ、なるほど、それは残念だったね。行くところはあるのかい?」
「それが、まだなくて。あまりに急なことだったから……これから決めるんだ」
「ねえ、なまえ。なんなら、僕の下宿に来ないかい」
 僕はワインを飲んだ。なまえは言葉を失くしてしまったのか、黙ってしまう。僕は続けてこう誘った。
「別に迷惑にもならないし、もし僕と二人っきりで暮らすことを心配しているのなら、その心配はいらない。十歳の女の子がやかましいのを我慢できるなら、だけど」
「お子さんがいるの?」
「僕の子じゃない。色々あってね」
「……ねえシャーロック、お酒が回っていい気分だから言っているんじゃないんだよね?」
「誓って言うけれど、僕はワイングラス一個くらいじゃ酔わないよ」
 僕はなんとなく、こうなることを心のどこかで確信していた気がする。また、こうするのが本当に自然なことだと思った。なまえが幾ら戸惑っても、幾ら遠慮をしたとしても、少なくとも僕はこのディナーの間は彼女を誘い続けただろうし、お酒を勧めて「イエス」を求めただろう。彼女は僕の顔を見つめたかと思うと、視線を川の方へ逸らす。無彩色のグレーの瞳は潤んで、空の青とワインの赤と灯りの黄色を映して、宝石のように輝いていた。僕はなまえのことが好きだけれど、彼女も僕のことが好きなのではないかと、僕はそのときから思うようになっていた。その空気は言葉を持たずなまえにも伝わり、二人は胸の奥でどきどきする心臓を押し込みながら、ほんとうの笑顔で途切れた会話を再開させる。そして僕たちは、奇妙な共同生活を始めることになった。



 なまえは僕の手記を読んで、格好良く書きすぎじゃないかと言った。「わたしの覚えている限りだと、こんなに素敵な話じゃなかったよ」彼女は困ったように言う。しかし、そんなことは関係ない。僕の目からはそう見えていたのだから、僕にとってはこれが正しいのである。
 アイリスはこの話をいたく気に入ってしまい、少し手を加えたうえでストランド・マガジンに載せたいと言っている。なまえはだめの一点張り、何故かミスター・ナルホドーは頬を真赤に染めながら、恥ずかしそうに読んでいた。
 僕はこの手記を医者にも読ませて、「医学的な見解のもとで言えば、脳や精神には異常がない」ということで、妙に引っかかる言い方ではあったけれど、無事退院を言い渡された。僕は書き連ねるうちにこの思い出が素晴らしいと思い、早くなまえに会いたくなった。なまえはあの頃と変わらない中性的な笑顔で、入院中も絶えず僕に会いに来てくれた。
 退院日、なまえだけでなく、アイリスもミスター・ナルホドーも病院まで来てくれた。僕は病み上がりでふらふらと覚束ない足取りだったものの、ミスター・ナルホドーに肩を貸してもらい、アイリスにあいた方の手を握られながら、ゆっくりと病院を後にした。馬車の中では、ミス・ジーナのその後の裁判のこととか、この間ミスター・ナルホドーが大法廷の死神とお茶をしたという奇妙な話をされて、僕は笑いすぎて早速腹の傷に響いた。家に帰ってからも賑やかに食卓を囲み、大学への編入が決まったことだとか、僕となまえはいつデートするんだとか、そんな和やかな会話が行われて、気づいたら二十三時になっていた。
 なまえは僕の寝室で、包帯を取り替えてくれた。外して、塗り薬を塗って、また巻き付ける。そんな作業だった。僕は久々に自分の生活に戻って、少し疲れてしまっていたのか、うつらうつらしていた。時々なまえにもたれかかってしまい、彼女はその度に僕を座り直させたが、僕にシャツを着させてしまうと、そのまま僕を受け入れてくれた。
 僕は彼女ごと、ベッドへ倒れこんだ。傷が痛んだが、もはやそんなことどうでもよかった。彼女の柔らかな頬に埋まって、僕は今まで得たことのない幸福感に浸っていた。なまえは身じろいで、僕と距離を置くと、僕の瞳の色を確認するかのように覗きこんだ。僕の目は眠気に耐えながら、なんとか彼女の表情を見つめ続けていた。
「シャーロック」
「うん」
「愛してる」
「僕もだ」
 短いやり取りをして、僕たちは眠りについた。朝目が覚めても、僕の女神は隣ですやすやと寝息をたてていた。