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初出20160427

Euphuism


10 祝福

 ジーナの無罪をナルホドーが勝ち取ってから早くも三日が経った。ジーナはその他余罪が諸々あったようで、その審理や取調で今も留置所にいるが、わたしやナルホドー、アイリスの面会にも応じてくれ、前に比べて憑き物が落ちたようにすっきりとした表情をしていた。霧深いロンドンもここ数日は晴れ間を見せていて、夏の知らせを讃える祭りももう間近だった。セーターもコートももう要らない。公園には新緑の樹木が、五月らしく佇んでいた。

 大学の特別編入が決まりました。ナルホドーは朝の紅茶を飲んで言った。革張りのソファに寝っ転がっていたわたしはそこから跳ね起き、机に噛り付いていたアイリスは背中を仰け反らせ驚いた。
「おめでとう!」わたしたちが祝辞を述べると、ナルホドーは「ありがとうございます」と言って照れを隠しきれないように笑った。
「これでやっと、親友へ顔向けができます」
 ナルホドーは真っ直ぐな目をして言った。意志の強い表情をしていて、わたしは彼のことをとても立派だと思った。大切な人を亡くしたというのに、彼の弱気な姿を、わたしは今まで見たことがない。その親友は、ナルホドーと親友になれて、本当に幸せだったのだろうなと思った。
 そのあと大学の話を少しだけ聞いた。編入といっても完全に入学を許されているわけではないようで、使える施設や受けられる授業などにある程度制限があるらしかった。但しそれは成績によっては広がっていく可能性があるようだ。ちなみに、わたしやシャーロックが通っている大学とはまた別の大学だった。下宿からだと少し遠い。
 アイリスは「ところで、その真っ黒いので学校行くの?」と聞いた。今日も普段どおり真っ黒いナルホドーは「うん、まあ、これしか持っていないから……」と言った。アイリスは声をあげて笑った。
「じゃあ、お祝いにあたしが服を買ってあげる! いい考えでしょ?」
 日本人らしくナルホドーは遠慮したが、アイリスは一度決めたら貫き通す女の子である。買いに行く日取りもあれこれ言う前に決めてしまい、ナルホドーはぺこぺこと頭を下げていた。十歳の女の子に向かって。
「あ、ホームズくんの退院祝いも考えておかないとね! まだもうちょっと掛かるんだっけ?」
 アイリスはぴょこんと結った髪を揺らし、わたしへ尋ねた。ナルホドーもわたしのほうを見る。わたしは、「多分、次の日曜日かな」と言った。「じゃあ日曜日はケーキだね」アイリスはそう言って机へ戻っていく。原稿の締め切りが近いそうで、少しの時間でも惜しいのだろう、最近のアイリスは机にずっと引っ付いている。
「今日、ぼくも行きましょうか?」
 ナルホドーは気遣うように、小声でわたしに聞いた。行く、とは、シャーロックの見舞いに行く、という意味である。わたしは、ナルホドーが忙しくなければ、と答えた。彼は首を振って笑った。
「ぼくはそれほど忙しくありませんから、荷物持ちしますよ」
「ありがとう。今日、果物も持って行こうと思っているんだ」
 テーブルの上の紙袋を指差して言う。林檎ばかりだけれど、林檎くらいで今のシャーロックには十分だろうと思った。むしろ、要らないと言われるかもしれない。何を食べても、味がしないようだから。
 ナルホドーは出かける準備をするために一旦屋根裏に戻った。先ほどまで元気いっぱいに振舞っていたアイリスは、静かに集中して原稿に向かっている。鋭い観察眼を持った彼女はきっと様々お見通しなのだろうけれど、今は彼女にしかできない大仕事を彼女なりのやり方で取り組んでいた。



 シャーロックの退院予定日はとっくに過ぎていた。本来であればもう下宿に帰ってこれる予定だったものの、何らかの理由で熱が下がらず退院を見送ったのである。
 熱と言っても死に至るほどの高熱というわけではない。やや高めの微熱程度なのだが、麻酔を使った治療の内容に原因がある可能性もあるため、病院側は慎重になって検査と経過を看ている。
 でも、わたしがアイリスに本当のところを言えずにいるのは、このことだけではない。シャーロックは熱が出たからそうなったのか、そうなったから熱が下がらないのか、わからないけれど、精神があまり安定しているようには見えないのだった。このことは、ナルホドーには伝え、アイリスには黙っている。今は、まだ。
 ナルホドーと共にシャーロックの病室を訪ねると、シャーロックは眠っているようで、瞼を閉じすうすうと寝息を立てていた。
「ホームズさんの寝顔、初めて見ました」ナルホドーがくすりと笑って言った。「やっぱり睫毛が長いですね」
 天井を向いた睫毛は呼吸にあわせて稀に動いた。掛布から出された手は、布に少し爪を立てたり軽く握ったり、彼はなにか夢を見ているようだった。
「一昨日が大変だったんでしたっけ」
「そう、皿投げちゃって大変だったんだよ。せっかく林檎剥いてあげたのに」
「はあ。皿を……」
 再入院したシャーロックの病院での振舞いは別人のようだった。苛々したり、悲しくなったり、鬱々としたり、甘えたり、暴れたり、おとなしくなったり。医師によると、見舞いに誰かが来ると幾らか良くなる、らしい。わたしたちの見ていない間はこれ以上不安定なのかと思うと驚愕してしまう。そして今はこんなに静かだけれど、彼の一昨日の荒れ具合は凄惨だった。
 わたしとナルホドーは小さな丸椅子にそれぞれ腰掛け、肩を並べてシャーロックの寝顔を眺めた。
「途中で抜け出したのが、良くなかったんでしょうか」
 ナルホドーは提起した。確かにシャーロックは、あの日かなり無理をして病院を抜け出した。用事が終わったらすぐ戻るべきだったのに、彼は人と一緒にいると熱があることを忘れてしまうタイプのようで、明け方旅立ったミス・スサトを見送りに行こうなんて言ってひどく長い距離をみんなで一緒に行って戻ってきて最寄りの駅で倒れた。でも、それはナルホドーが気を病むことでは、ない。
 正直、豹変したシャーロックを見てわたしはとんでもなく動揺している。シャーロックは元々落ちるときは落ちる人だったけれど、苛立ちに任せて物を壊すようなことはしなかった。だから余計に心配したし、医学は怖い、とさえ思った。それでも命に別条はなく、熱さえ下がれば退院できるし、ベッドから出て歩けるようになれば安定を取り戻す、と医師は言うのだった。
 サイド・テーブルに置いてある花瓶の水が減っている。水を入れてきますね、とナルホドーは花瓶片手に病室を出た。ぱたん、と扉が閉まると、この病室にはわたしとシャーロックの二人だけになってしまった。
 わたしはシャーロックの顔を見た。すやすやとよく眠っている。目の下のくまや顔の皺がその時ばかりは安らかに見えた。そのままわたしは顔を近づけて、お互いの唇をくっ付けてみた。これがわたしの二度目のキスだった。

 水道の位置がわからなかったのか、二十分もの時間を置いてナルホドーが部屋に戻ってきた。その蝶番の高い響きによってか、シャーロックは目を覚ました。長い睫毛が引き上げられ、深緑の瞳が現れる。ナルホドーは靴をコツコツ鳴らしベッド・サイドまで来ると、目を開けたシャーロックを見て
「あ、ホームズさん。おはようございます」
 と言って花瓶を丁寧に置いた。シャーロックは少なからず友人の来訪に驚いていた。どうせ今日もなまえ一人だけが来ている、とでも思っていたのだろう。彼は寝転がったまま、暫くぼうっとすると、その後テーブルの上の体温計を口に咥えた。彼の熱にあわせ水銀がゆっくり動いた。
「なまえさん、ここの看護婦さんに日本の方がいらっしゃいました。ぼく、思わず話し掛けてしまいました」ナルホドーは能天気なのか敢えてなのか、そんな話題を口にする。
「可愛かった?」わたしはからかい半分で聞く。
「まあなまえさんには及びませんが……」
「またまた。それを言うならスサトより、でしょう」
「あれ。これは参ったなぁ」
 はははと二人で笑っていると、わたしの腕がつんと突かれた。シャーロックが体温計を差し出している。わたしはそれを見て驚いた。
「熱、下がってる」
「本当ですか?」ナルホドーも体温計を覗いた。「あ、日本のとちょっと違う……」
 でもちゃんと下がってるよ、とわたしはシャーロックに言った。体調は良くなったかもしれないが、あまり機嫌は良くなさそうだった。いくら甘やかしても今のシャーロックはちっとも機嫌を直さないので、とりあえずわたしは林檎だけ剥いてあげようと思った。
「ナイフを借りてくるね」わたしはそう言って病室を出る。そうして一階の受付に言って箱ごと貸してもらった。両手で大事に抱え病室に戻ると、不思議なことにナルホドーが居らず、シャーロックは上体を起こして窓の外を見ていた。
「ナルホドーは?」
「散歩に行くそうだよ」
 振り返って言う。逆光によりシャーロックの姿は影が掛かっていたが、前回に会ったときに比べ随分穏やかだった。やはり、熱のせい、だったのだろうか、あれは。
 そして、その穏やかな姿に、わたしはある種の懐かしさを覚えた。あの首飾りを貰った日、確かにシャーロックは今と同じ瞳をしていた。
「僕がここにいる間、きみには随分迷惑を掛けたようだ」
 シャーロックの言葉にわたしは背筋がしゃんと伸びた。
「悪いんだけど、あまり憶えていないんだ。夢だと思っていたら、どうやら現実だったみたいだから」
「……あの。それは、主治医から?」
「どちらかといえば、ミスター・ナルホドーから聞いたよ」
 わたしが席を外したとき聞いたのだろうか。きっと、そうなのだろう。彼らが話すタイミングは、わたしの知る限り先の五分間のみだった。
「もう、具合はいいの?」
「まあ……それなりに」
「そっか……」
 一瞬、沈黙が流れた。
「ええと、林檎、食べる? 少しは栄養を摂らないとね。受付の人にさっき聞いたけど、病院のご飯残してるんでしょ?」
「不味いんだ、あれ」
 シャーロックは眉を顰めた。「まあ、林檎なら食べたいがね」
 わたしは椅子に腰掛けて、木箱からナイフを取り出した。刃はあまり研がれておらず、鈍い色をしている。林檎に刃をたてると、視界の端で彼がまた窓の外に顔を向けるのが見えた。わたしたちの間には、林檎の瑞々しい音だけが響いている。
「あそこにある時計台が見える?」
 シャーロックは向こうを向いたままそう言った。わたしは姿勢を変えて窓の外を見ようとした。窓の端っこに、確かに時計台が見える。ここらでは一番背の高い塔かと思われる。
「僕はそこから飛んでみたい」
 シャーロックが抑揚のない声で言う。わたしは耳を疑った。「……と、思ったことがある」
「……貴方は人を悲しませるのが上手だね」
 わたしは顔を歪ませて言った。
「まあ、最後まで聞いてくれよ。それは二十歳くらいの頃だった。僕は謎を解いているとき以外は、全くもって死にそうで、やけに世間を疎い生を呪った。こうやってこれから生きていくんだと絶望したものだよ。
 でも、それを心から改めようと思う契機が、二つあった。いいかい? 信じられないかもしれないけれど、僕はそれをもって、どうしてもそれだけは大事にしなくちゃいけないって、思ったことだけは本当なんだ」
 わたしは林檎とナイフを脇にあった机に置いてしまい、彼の独白とも言える話に耳を傾けた。
「それは、一つ目にアイリス、二つ目にきみ、なまえだった。もしかしたらきみは……明日にでも僕のことが嫌いになるかもしれないけれど。だったら、死ぬまで守る美しい秘密になんかしないで、ちゃんと言っておきたかったんだ」
「わたし、嫌いにならないよ、シャーロックのこと。少なくとも明日は」わたしは弁解をする。
「どうして、そう思うの?」
「歳をとると臆病になるものさ。誰だってね」
 シャーロックは口に手を当てた。彼の一種の癖である。
「じゃあ、わたし、毎日言うよ。明日シャーロックのこと嫌いにならないよって。明日が嫌なら一週間とかでもいいよ」
「なまえ」
 シャーロックはわたしの手を握った。
「そいつは違うね。そういうときは、愛してる、って言うんだよ」
 わたしはシャーロックの薄く血管が浮かび上がった手を握り返した。自分の脈なのか彼の脈なのか、指先に微かな鼓動を感じながら、お互い目を少し泳がせ、笑った。



 ナルホドーは病院の正面口に居た。わたしはナルホドーと合流し、隣に並んで停留所まで歩いた。街は依然として、濃い霧で包まれている。
「ホームズさん、元気そうで良かったですね。なまえさんから話を聞いたときは驚いたけど、今日はぼくも要らなかったくらいで」ナルホドーは苦笑した。
「そんなことないよ。ナルホドーと話して幾らか落ち着いたんだと思うよ。わたし相手だと本当に苛々しがちだったし」
「でも、ぼく、追い出されましたよ」
 え、とわたしは驚いてナルホドーを見遣った。ナルホドーは、気まずそうに笑って、
「僕のなまえに手を出さないでくれ給えよ、なんて。ホームズさん、本気だったなあ」と言う。わたしはたまらなく恥ずかしくなって、おずおずとゆっくり、両手で口を覆った。
「ホームズさん、多分無意識に葛藤してたんじゃないかな。なまえさんに苛々していたのではなくて、大切な人を心配させる思い通りにならない自分の体に怒っていたんだと思います」
 ナルホドーの物言いに、そうかな、とわたしは曖昧に答えた。きっとそうですよ、と彼もまた曖昧に言った。

 アイリスに宣言したとおり、シャーロックは次の日曜日に退院することになった。その日はみんなで予定をあけて、全員でシャーロックを迎えに行くことにした。土曜日のうちにビーフ・シチューを作っておいて日曜日の朝にケーキを買わなくちゃ、とアイリスは紙に走り書きをしながら高揚して言った。わたしとナルホドーは度数の低いお酒を買いに行った。酒に関しては、病み上がりだから控えるほうが好ましいが少しくらいなら……と主治医も許可を出してくれた。テーブルをご馳走で埋め尽くす夢を見て、シャーロックの驚いた顔が見たいね、と三人で悪巧みをした。日曜日はだんだんと近づいてくる。
 愛してる。わたしの子供じみた覚えたての言葉は、日曜日の夜にとっておく。

Fin.