×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -


初出20160424

Euphuism


9 ダッチ・ロール

 その日は一日中、ナルホドーとアイリスは事件の情報集めに駆け回っていた。わたしはひとつ大事な授業だけ受けに行き、休めるものは休んで下宿で待機した。シャーロックのことで新しい情報があれば、打電をしてくれると聞いたので、わたしは留守番して待つことにしたのだ。ただ、待てども待てども、一向に電報は届かなかった。
 時折、ナルホドーとアイリスが下宿に戻ってきては、電報がなかったか聞いてきた。わたしが首を振るのを見て、二人は溜息をついた。わたしはあわせて、調査の進捗を聞いた。二人はぽつり、ぽつりと情報を話してくれたが、顔色は悪いままであった。どんよりとした曇り空も相俟って、その日は少し肌寒く、あらゆる要素がわたしたちを不安にさせた。

 それでも時間だけは正確に過ぎ、夕刻になった。ナルホドーもアイリスもスサトも、全員下宿に戻ってきた。わたしはありあわせで夜ご飯を作り、テーブルに並べているところだった。結局、電報は一つもなく、三人にそれを報告するのがとても心苦しいばかりだった。
 アイリスは帰ってくるなりテーブルに紙袋を置いて、わたしの名前を呼んだ。
「あのね、すさとちゃん、明日、帰国しちゃうんだって」
「えっ」
 わたしは予想していなかった言葉に驚いたものの……度重なる驚愕の事実にはもう慣れてしまったのか、その知らせはわたしの腹にスッと落ち、「なんで」だとか「どうして」だとかも出てこなかった。ただ、「ああ、そうなんだ」と受け止めるだけであった。
「なまえ様、ご報告が遅れて申し訳ありません……。父の容体が悪いとの報告を受けまして、明日の朝、汽車に乗ってここをさります」スサトは本当に申し訳なさそうに言った。
「なまえ様には本当にお世話になりました」
「いや、わたしのほうこそ、色々とありがとう。スサトの作ってくれるビーフ・シチュー、本当に美味しかったよ」
 わたしはその味を思い出して少し胸が切なくなった。「また、会えるといいんだけれど」
「ありがとうございます。帰国したらきっと、お手紙を書きます」
「そうだ、ストランド・マガジンの新刊が出る度に送るよ。取り寄せるのも大変でしょう? お手紙付きでさ」
 隣にいたアイリスも、力強く肯いた。そんなわたしたちを見て、スサトは深くお辞儀をして、ありがとう、と言った。
 アイリスの持っていた紙袋の中身は、近所のパティスリーのケーキだった。スサトとのお別れを惜しんで買ってきたものだろう。こんなことと知っていれば、わたしも食材を買いに出ればよかった。どうせ電報も来なかったのだから……。
 暗いことばかりに囲まれていたわたしたちたっだけれど、最後のディナーはそれは穏やかに、楽しく、思い出話などもしながら、平和に過ぎていったのだった。

 翌日。朝起きたら、すでにスサトは居なかった。アイリスもナルホドーも粛々とした表情をして、きちんと着替えをしてから居間へやってきた。
 わたしはアイリスとナルホドーに朝ごはんを作った。目玉焼きとベーコンと、ブレッド。もう、食材がこれくらいしかない。今日は流石に買い出しにでなければならない。
 フォークを持つやいなや、アイリスは大きなあくびをした。
「昨日全然眠れなかったの」
「ぼくもだよ」
「なるほどくん、裁判中に寝ないでね!」
「大丈夫! コーヒーいっぱい飲んでいくから」
 二人の会話は徹夜明けともとれるような妙な方向性を持って行われていた。
「それじゃあなまえちゃん、行ってくるね!」
「なまえさん、ホームズさんのこと、よろしくお願いします」
 食事を済ませて、二人はオールド・ベイリーへ向かっていった。外は酷く重たい雨が降っていて、二人は冬物のコートを引っ張りだして出掛けていった。
 わたしはまた電報を待つことになったので、意気込んでコーヒーを飲みソファで待機した。十四時回ってもこなければ、買い出しに行ってしまおう……そう、頭のなかで予定の組み立てをしていたのだけれど、存外、待っていた知らせは早く来た。
「シャーロック・ホームズ氏、セント・アントルード病院、三号室にて療養中。着替えを持ってお越し願う」
 着替え……。
 わたしは戸惑いながらも、おそらく着替えが入っていると思われるクローゼットの中の棚の中を見た。オーソドックスな白いシャツを手に取り、次に黒いパンツを取った。下着も必要か、と思い、引き出しを適当に開けて適当な下着を鞄の中に入れた。自分で言うのもなんだけど、かなり事務的な作業だった。
 なんというか、こういうのって、起こり得るとしても、もっと先にあることだと思っていた。しかたのないことではあるけれど、こんなかたちで好きな人の下着を初めて見るなんて順序がおかしいと思ったのである。まあでもわたしたちは、最初から順序がおかしかったのかもしれない。いきなり一緒に住み始めてしまったところから、わたしたちはずっとおかしいままだったんだ。一昨日くらいまでは。
 とにかくわたしは下宿を出て、病院までオムニバスに乗って向かった。途中で、一応花だけ買っていった。



 その病院には初めて来た。名前は知っていたが、ここまで古めかしい病院とは思わなかった。
 受付にてサインをし、シャーロックの居る病室へと足を運ぶ。ノックをしてその病室にはいると、右奥の窓際のベッドの中に、彼は居た。その病室には、彼以外人が居ないようであった。彼はわたしの方へ目を向けると、安心したように笑う。わたしは彼の元へ歩み寄った。
「なまえ。来てくれてありがとう」
「うん」
「これ、なんだい? 僕に?」
 シャーロックはわたしの手の中にある花束を指差した。肯いて、それを渡す。彼はそれを受け取って、顔を花に近づけた。匂いを嗅いでいるようである。そして、お礼を言いながらそれをベッド脇のデスクに置いた。
「着替え、持ってきたよ」
「助かった! 色々血まみれになってしまったものだからね。これで外に出られる」
 彼はそう言っていきなり、現在着ている病院から貸してもらったのだと思われる服を脱ぎ、わたしの持ってきたシャツに腕を通し始めた。わたしは目を丸くしてそれを見ていた。
「ね。ねえ、シャーロック。もう、もう平気なの?」わたしはしどろもどろになって尋ねた。「平気なわけ、ないよね?」
 彼は笑みを顔に貼り付けたままシャツのボタンを留め始めた。
「なまえの言うとおり、平気じゃないさ。でも、弁護士くんのところへ行かないとね。これは使命だ」
「え、え……何言ってるの? だめだよ、ここにいなくちゃ」
「それなら、僕の着替えを止めてごらん?」
 悪戯っぽく笑って彼は両手を広げてみせた。ボタンを外せと言っているのだろう。できない、そんな大胆なこと。告白すらままならない人間が、できるわけがない。わたしはふるふると首を振った。彼は「悪かった。困らせるつもりは、なかったんだが……」と言ってわたしの手を取った。わたしは、それを振り払ってしまう。
「行かないで、シャーロック。お願いだから……」
「……なまえ」
「わたし、本当に心配して言ってるんだよ。傷口が開いたらどうするの? そこからまた変な病気になったら? 勝手なことばっかりしないでよ」
 気づいたら、わたしは泣いてしまっていた。わたしは自分の脆さを恥じた。こんなことで泣くなんて、そんな女の子には、なりたくなかったのだ。でも、結局はそうなってしまった。シャーロックは懲りずに、わたしの腕を掴んで、引っ張った。わたしは誘われるがままに彼の強い腕の中に、収まってしまった。
「ねえなまえ。僕は思ったんだ。僕は、守らなきゃ。きみも、きみの周りの人も」
「そう思うなら、」
「居なくなるのが怖いなら、一緒に来ればいい。僕が何処にも行かないように、勝手なことばかりしないように、見張っていてくれよ。ずっとずっと一緒にいよう。これならいいだろう?」
「馬鹿。なんでそんなことばっかり言うの。嫌い。シャーロックなんて嫌い」
「僕は好きだ」
 結局わたしは根負けしてしまい、シャーロックと一緒に病院を出た。彼はわたしの手を掴んで離さなかった。まるで、何処にも行かないことを証明するかのように。平気そうな顔で笑っているわりには、歩く速さはわたしよりも遅かった。
 オールド・ベイリーへは、オムニバスではなく、ちゃんと馬車を呼んで向かった。いつ彼が血を噴き出すかわかったものではないからである。馬車の中でも、彼はわたしの手をずっと握ったままだった。
「痛む?」
「……まるで刃物が刺さっているかのようにキリキリと痛い」
「刺さってないから安心してね」
 彼は薄紫色の包を膝の上に乗せていた。これが今、ナルホドーに必要なのだと言う。持っていくだけならわたしが、と買って出たものの、彼は聞く耳持たずにブーツを履いてしまっていた。
「僕は元気、僕は元気、僕は元気……」
「なに、それ」わたしは尋ねた。「おまじないさ!」と、彼は顔を歪めながら笑うので、わたしは溜息をついた。

 オールド・ベイリーにつくと、シャーロックは一人の係官に近づきこそこそと話をしたのち、わたしを置いて何処かへ行ってしまった。わたしはほとほと呆れて入口付近のベンチに座っていると、目の前に係官が一人やってきた。なんだろう、追い出されるのかな……とわたしは思わず身構えてしまう。
「どうだい? 係官に見える?」
 それは、係官の格好をしたただのシャーロック・ホームズだった。
「どうしたの、それ」
「あの係官の弱みをひとつちらつかせてやったら、快く貸してくれたよ!」
 わたしはもはや何も言えなかった。
「じゃあ、なまえ、僕は行ってくる。きみは法廷には入れないけど、法廷のすぐ脇にある控室には、僕が係官の振りをして通してあげるよ。おいで」
 自慢気に敬礼すると、彼は帽子を目深に被った。彼についていくと、エントランス・ホールを抜け長い廊下をまっすぐ行ったところにある、重々しい雰囲気の扉をそっと開けてくれた。ここが控室、らしく、審理が終わるとナルホドーたちもここに戻ってくるらしい。わたしは建物内の厳格な雰囲気に圧倒され、ぐるぐると周りを見回した。係官の彼は、ウインクをひとつして、扉を閉めて行ってしまった。
 ………………。
 今、どんなことが法廷内で起きているのだろう。耳を澄ませても、そのざわめきは聞こえてこなかった。わたしはすることもないので窓の外を眺めた。雨がざあざあと降っている。天には分厚い雲が張り付いているが、濃い部分、明るい部分と様々な色を見せていた。直にあがるだろう、とわたしは思って、ソファに深く腰掛けなおし長い息を吐いた。
 うまく行きますように、うまく行きますように、うまく行きますように……。わたしは十字を切り両手を組んで小さく細く願った。控室は暖かくて静かで、わたしは思い出したかのように疲れを自覚した。わたしは目を閉じて、すべてが終わるのを、待った。