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倫敦行きがかかっている演説会の日に一真は流行病に掛かりそれを会場手伝いの彼女に知られてしまう(ネタバレなし) 亜双義一真 / 大逆転裁判 | 名前変換 | 8min | 初出20160320

きみ、欺け

 演説会でのことだった。複数大学の有志の会であるにも関わらず、それには多くの人が足を運んできていた。ぐるりと見渡せば、政界に通ずるもの、軍事目的のもの、警察、過激運動の扇動者、様々なものが器用に顔を隠し身分を隠しひそんでいた。もちろん教授などは最前列に居て、皆一様にモダンに短く揃えられた髭を撫でつけ学会以来の交流を図っていた。それは開始五分前のことである。
 亜双義一真は袖にて息を整えていた。冒頭演説を行う使命を預かっているのである。昨夜まで丁寧に書き下ろした原稿は彼の右手のうちに隠され、それはすでにくしゃくしゃで、何度も書き直された鉛筆の跡があり、今では緊張と熱から吹き出す汗で塗れていた。彼は今日、三十八度にかかるかかからないくらいの熱を帯びていた。朝、急に発症をしたのである。朝日が昇ったころ寒気に身震いして起床し、体温計を口に咥えたら一瞬で水銀が延びた。熱を自覚したら、余計に身体が怠く、頭痛、目眩、妙な胸焼けと、足元の覚束なさが顕著となった。が、しかし、彼は赤い鉢巻きを平常通り巻き頭痛を押さえつけ、神に縋りながら身体を引き摺ってこの場へやって来たのである。今にも倒れそう、目眩の先に見える壇上の白熱灯がちらついているのだ、まるで悪魔の笑みのように……。
 彼の頭の中には、どう上手く遣り過ごすか、その施策だけが練られていた。
 一方、みょうじなまえは平静と受付嬢をしていた。付属の女学院に通うなまえはこの日の会の手伝いのためだけに大学の講堂までやって来ていたのだった。来客への対応が終わると、次は進行の援助に回る予定となっていたので、彼女は客から提出された招待状と名簿を照らし合わせ問題ないか相方の女子と確認を行ったあと、受付を畳み舞台の裏へと立ち退いた。
 なまえは、舞台裏では雑用係だった。もう一方の女子は楽屋周りの片付けを命じられ、すでになまえの隣からは姿を消していた。なまえはグラスに水を注ぎ、演説者に配って回る役を得た。袖にはすでに演説者である男子学生が全員出揃っているようであった。お水をお持ちいたしました、と手前のものに一声かけて水を渡すと、なまえのその様子に気づいた後続の演者たちは水を配る少女が来たことを瞬時に把握し、逆に自ら受け取りに来るものもいたほどであった。それほどに、舞台袖は大きな変化がないことが常であり、ただじっと定刻になるのを待ち続ける場でもあったのだ。
 最期、唯一終始そっぽを向いていた、一番袖に近い男に話し掛けた。その男は赤い鉢巻きを揺らし、なまえのほうを向いた。なんだ、と男は言った。なんだ、ですって? なまえは少し驚きながら、お水をお持ちいたしました、と言って盆を強く握った。
 男、亜双義一真も状況を把握するにあたり時間を要した。水? ただ雑用が気配りの一環で水を持ってきただけであるのに、何故俺に? を考えずにはいられないほど、彼の頭は参っていたのだ。
 もしや、熱があることが知れているのではあるまいな。
 沸騰しそうなほど溶けきった頭で、彼はそれだけを心配した。彼は朝からそのことだけが気がかりだったのである。高熱を伴う感染症が出回っているこの頃で、熱が出たと言おうものなら、即病院即検査、即隔離は間違いない。彼は今日という日はなにがなんでも家で寝ているわけにはいかなかったのである。何しろ、この演説にも倫敦留学の切符が少なからず絡んでいたのだから……。
「結構。」
 亜双義は不躾なまでに断った。普段は女性を冷たくあしらう様な対応もしないのだが、全身を覆う怠さが彼をそうさせた。しかし、なまえも引き下がらなかった。存外、頑固だったのである。
「喉、乾いたでしょう? 演説前ですもの、げん担ぎと思ってお飲み頂いたところで、神様だって罰をお与えにはならないわ。」
 亜双義はキッと口を結んだ。この娘、なにもかも判った上でこう言っているのか、そうであるならば大したものだ。亜双義は吹き出した汗をハンカチで拭い、これ以上断っても逆に怪しいだけなので受け取ることにした。亜双義は盆の上から直接取ろうとするものの、聡く責任感の強い彼女はすぐにグラスを自らの手中におさめ、手渡しで水配りを全うしようとしたので、亜双義の手は泳ぎに泳いで結局彼女の手元に行き着いた。グラスを受け取る際に手が触れた。なまえの手は酷く冷たかった。亜双義の手は燃えるように熱かった。
「あっ。」
 なまえは、自分の手が溶かされてしまうのではないかと思って、思わず悲鳴をあげてしまう。周りの人々が彼らを見遣る。もしかして、貴方、お熱があるのでは。なまえは、気遣うつもりで、そう言葉を発してしまった。怖いもの知らずに。言ったが最後、亜双義は二重の眼を鋭く歪め、なまえの肩を抱いて耳元に口を寄せ、「きみ、頼むから、あざむけ。」と言った。なまえだってさすがに流行りの感染症のことは知っている。それを隠すことがいかに罪なことかも判っていた。
 控えていた主催者がなまえに近寄ってきた。「熱があるものが居るのか?」問われた内容は非常に単純であった。
「いいえ。勘違いでした。わたくし、体温が低いもので、触るものすべて熱いのです。お騒がせしてすみません。」
 主催者は赤鉢巻きの彼を訝しげに眺めてから、始まるから騒がないように、と一言注意して下がっていった。程なくして、司会進行が壇上で始まりの言葉を述べた。ほんとうに、その差三秒といったところだった。
 亜双義はなまえに「ありがとう。」と言った。すっかり共犯者にさせられたなまえは、せっかくついた嘘が水の泡にならないことを祈りながら、おからだ平気ですか、と小声で尋ねた。「平気なわけが、ない。」今や亜双義に残された精神的余裕は霞ほどであった。
「演説が終わりましたら、わたしの父に係りませんか。父は医者なのです。この会の出席者に情報が漏れないように、うまくやるよう頼んでみますから。」
 なまえは自分の身を守るためにもそう提案をした。その顔には気まずさからの笑みと少量の善意のみが浮かんでおり、なまえは病人を目の前にして只相手だけを思い遣ることに身を沈められない、自分が冒している浅ましさをほんとうに悲しく思っていた。ああ、神様。なまえはここに懺悔いたします。わたしは罪を逃れるためだけに、目の前の人を心配している様子を装って、善意の殻を被って、所在無くにっと笑っています。
 亜双義はすでに摩耗しきっており、訊かれたことに「はい」か「いいえ」で応える位の体力しか無かったので、なまえの提案にも「はい。」という返事しかしなかった。主催者の「亜双義一真、壇上へ。」の合図にも「はい。」と言って従った。なまえは初めて得た共犯者の名前を頭の中で繰り返し繰り返し呟いた。亜双義一真、亜双義一真、亜双義一真……。左胸は痛いほどに動悸を起こしていた。
 亜双義は、熱に耐えかねているわりには、立派な演説をおこなった。抑揚をつけ、短くまとめていながらも内容の濃いものを語った。些か声には力が無かったが、それを見抜く客は一人としておらず、彼の演説が終わると拍手喝采をして見送った。
 舞台袖に下がると亜双義はすぐにその場を去り、なまえは後ろからそれに着いて行った。去り際、主催者に、「申し訳ありませんがこのあと大阪へ行かなくてはなりませんの。今朝急遽決まったのです。」と断ると、なまえが名家の生まれと知っているばかりに、主催者は彼女を見逃した。なまえは楽屋口で亜双義を待ち、出てくるところを捕まえて、約束を守って呉れるよう言った。亜双義は圧倒され、先ほどより頬が赤く、眼は気怠そうに細められ、やはり「はい。」と言った。そのまま亜双義となまえは彼女の家もとい医院へ行った。よくよく検査をしてみると、ただの熱中症だった。