×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


初出20160414

Euphuism


8 割れる

 時が止まったような気がした。勿論比喩表現である。時計は相変わらずチクタクと時を刻んでいたし、わたしたちも息をしていた。明らかに違うのはシャーロックの、とんでもなく熱を帯びた視線だった。火傷するくらい焦ったくて、欲があって、今にもそれが溢れ出してしまいそうな、紛れもないわたしへの好意だった。そんな彼の目を見たのは、初めてだった。
「あの。わたし……」
 言いかけたところで、彼はわたしの唇を指で押さえた。彼はもう片方の手で、なにかを堪えるみたいに自分の口を押さえている。
「わかっていたさ。なまえの目を見ていれば、きみが僕をどう思っているのかなんて」
 彼はまっすぐにわたしを見抜いて言った。わたしは顔が熱くなるのを感じて、思わず両手で頬を隠した。
「でも、わかっていたからこそ、怖かった。外していたらどうしようか……ってね。それに、なまえはまだ若い……僕はもう、三十四だからね」
「ず、ずるいよ……」
「何が?」
「シャーロックだけ、全部知ってたのが、ずるい」
 彼は目を大きく見開いたかと思うと、そのまま笑い出した。何がそんなにおかしいのか。わたしは両頬に手を添えたまま固まってしまっていた。「全部知っていたわけじゃないよ」彼は落ち着くと、額に人差し指を当てて話し出した。
「なんとなく『わかる』ってだけで。結局は当てっこに過ぎないのさ。それに、きみには随分惑わされたよ。ミスター・ナルホドーに聞かされるまで、自信がなかったぐらいだ」
「自信家なのに?」
「それほど、僕にとって大事なことだったのだよ」
 シャーロックはわたしの手の上から自身の手を重ねて、わたしの顔をそっと覗き込んだ。とても近いところに彼の顔がある。わたしの好きな髪の色が、ふわりとわたしの鼻先を掠めた。わたしは熱に浮かされたような気分になった。
「これからは本当に逃がすつもりはないけど、いいのかな……」彼は挑戦的な目つきをして、わたしを見つめた。
「目を逸らしたって無駄だよなまえ」
 そのまま、彼の唇は、わたしの唇へ。ついばむように食んで、彼の手は気付いたらわたしの背中に回されていた。わたしは初めての感覚に頭が真っ白になった。シャーロックは、その口づけを、どんどん深めようとしてくる……。
 恥ずかしさに耐えられなかったわたしは、じたばたして逃げ、部屋に鍵を掛けて引きこもった。シャーロックは追い掛けてはこなかった。それは、そうだ。追い掛ける必要なんて、今更ないのだから。

 翌日、わたしは朝早く出かけ、夜遅くに戻ってきた。勿論用事があってのことだけれど、昼間の間は戻る時間があったのに、戻らなかった。シャーロックの顔を見るだけで、今のわたしはもう駄目だ。どう駄目かというと、言葉にできないくらい、胸がいっぱいになるのである。
 わたしが下宿へ戻ったころ、リビングにはまるでついさっきまで宴会が行われていたかのような雰囲気が漂っていた。スサトが皿を洗っていて、シャーロックはソファで何かを読んでいる。ナルホドーとアイリスの姿は見えなかった。
「なまえ様、おかえりなさいませ。お食事はお済みですか?」
「うん、食べたから大丈夫。手伝おうか」
「いえ、ゆっくり休んでください。あ、今日は、ジーナ様がいらっしゃっているのですよ。泊まっていかれるのだとか」
 スサトは花が綻ぶようにして微笑んだ。なるほど。だから宴会の雰囲気が残っていたり、今アイリスがいないんだ……。きっと歳の近い友達が来て喜んでいることだろう。わたしはスサトにお休みを言って、居間を後にした。

 部屋に戻るやいなや、コンコンとノックされ、わたしは背筋がきゅっと伸びた。わたしが「どうぞ」と言うと、やっぱりと言うか、来客はシャーロックだった。
「随分遅かったじゃないか?」彼は勝手に椅子に腰掛けて言った。
「う、うん。用事があったからね」
「へえ……今度から遅くなるときは、僕に一声掛けるように」
 わたしは鞄をベッドの脇に置いて、どぎまぎしながら聞いた。「どうして?」
「どうしてって、迎えに行くからに決まっているだろう?」
 なるほど……とわたしは頷きつつコートを脱いだ。迎えに、来てくれるのか。なんだか少し浮き立つような、そわそわするような、そんな気持ちになってしまう。そういう風にシャーロックの予定を埋めていいなんて、とても距離が近づいた気がしてしまうのだ。
「なまえ」
 彼は立ち上がった。あっという間に、わたしより背が高くなる。綺麗な深緑の瞳に見下ろされて、わたしの心臓は飛び跳ねた。
「ひとつゲームをしよう」
「……ゲーム?」
 シャーロックは、おもむろに硬貨をポケットから取り出して、両腕を背中に回して見えないようにした。
「硬貨が入っているほうを当ててごらん」
 子どもに向けるみたいににっこり笑って、彼はわたしをじっと見つめた。わたしは緊張しながらも、彼の目を見た。腕は、前に出さず彼の背の後ろに隠されたままだ。これじゃ、彼の思惑次第では必ず失敗するかもしれないし必ず成功するかもしれない。まったくの運試しかもしれない。また彼の目を見たけれど、わたしは名探偵ではないのでなにを考えているか判ることができなかった。
 左、とわたしは言った。「左だね」彼はそう言って、左腕を前に持ってくると、その握られた手の先には、一輪の薔薇があった。その薔薇は迷うことなくわたしの目の前に差し出された。
「おめでとう。正解だ」
 シャーロックはそう言って、左手の薬指と小指を解くと、硬貨がそこから零れ落ち、薔薇は微かに揺れた。芳しい香りがした。
「これは正解したきみへのプレゼントだ。いい夢を見てくれよ……かわいい僕のお嬢さん」
 わたしはその言葉に、いかようにも返事することができなかった。薔薇、ずっと渡したくて、用意していたのだろうか。待っていたのだろうか。朝から、晩まで。わたしは妙にどぎまぎして、部屋を去って行く彼の後姿を恋煩いの気持ちで見つめた。彼も、恋煩いの目をしていたように思う。それは、探偵じゃなくても、判る。



 その晩、シャーロックは拳銃で撃たれた。そのことを知ったのは、翌朝のことだった。余りにいきなりのことであるが、これは紛れもない事実なのである。事実はときに、こういった信じられない面を見せる。
 それは厚い雲の間から僅かに光が漏れるような不穏な朝だった。わたしは起床して、とりあえず自分の分の朝ごはんを作っていた。みんなが起きてきたら、みんなの分も作ろうと思ってのんびりやっていた。なかなかみんな起きてこなかった。
 じきに、ナルホドーが下宿の入り口から入ってきて、わたしに思い詰めた様子で挨拶をした。明らかに様子がおかしかった。
「どうしたの?」
「……どこから話せばよいのやら……という具合ですが……なまえさん、ちょっと、お皿を置いて、くれませんか」
 わたしは彼の言う通りにした。
「昨晩、そこの質屋で事件がありました。そこに乗り込んだホームズさんが……撃たれて、今、病院で手術を受けています」
 お皿を持っていなくてよかった。きっと今頃、割ってしまっていたことだろう。
 いきなりのことすぎて、とにかく受容するしかなかったのだけれど、彼は撃たれた。どれだけ信じ難くても、それは本当のことで、彼は今面会謝絶の中で手術が行われている。何回頭の中で唱えても、覆ることのない実話だった。
 ナルホドーは、本件の容疑者の弁護にあたるのだと言う。容疑者とは、奇しくもあのジーナで、わたしはその事実にも度肝を抜かれた。裁判は明日。随分急な話だ、と思った。
 さて、わたしたちはまだ歳を重ねているからいいものの、アイリスにどう伝えたらよいのか……と悩めるわたしたちの前に、彼女は普段通りの朝を迎えリビングへやってきた。ただ、どことなく不機嫌というか、呆れ顔をしていた。なにしろ朝起きたら隣にジーナがいないわけだし、リビングへ来たら歳上の二人の居候が神妙な顔をして突っ立っているのだから……不審に思うのも、無理はない。ナルホドーは、アイリスと目線の高さを合わせるように屈むと、昨晩質屋で起きたこと、シャーロックのことを伝えた。アイリスははっと口を手で覆い、その目は少し潤んだように、見えた。
「なるほどくん! いま、いますぐ、病院にいこうよ」
「いや、それが、だめなんだ。手術中で面会謝絶だって……」
「どうして! あたしもなまえちゃんも、ホームズくんの家族なのに……!」
 アイリスがこれほど取り乱した姿をわたしは初めて見た。それでも年相応といえるほどに彼女は大人だったけれど、アイリスは思い余ってわたしの腰に抱きついてきた。シャツが濡れる感覚を覚えて、彼女がどれだけ動揺し心配し困窮しているかが判って、わたしも心を痛めた。
「ねえ、とりあえず、ご飯にしようよ。味がしなくたって、食べないと何もできないからさ」
 わたしは二人に話しかけた。ナルホドーは強い意志を持った表情で頷いて、アイリスは無言だった。じきにアイリスがそっと顔を離すと、わたしはコットンのハンカチをその目元にあてがってあげた。ナルホドーは、窓から質屋のほうを見ていた。
 キッチンに戻ってフライパンに卵を三つ落としたら、一個だけぐしゃぐしゃになってしまって、わたしは、そのとき一筋だけ涙を流して鼻を啜ったのだった。