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初出20160316

Euphuism


7 もし恋が盲目なら、恋は的を射貫けない。

 下宿へもどると、ビーフ・シチューのいい匂いがした。わたしはアイリスとナルホドーにずっと慰めてもらいながら食卓についた。我ながら情けないと思う。スサトはわたしの表情を見て少し口をつぐんだあと、わたしのほうへ真っ先にシチューを持ってきてくれた。ナルホドーもわたしの目の前に赤ワインを持ってくると、「なまえさん、今夜はこれを空けましょう」と言って笑った。アイリスは、「学会でもらったチョコがあるの! なまえちゃんにあげるね」と包を寄越した。シャーロックにしてやられたことよりも、彼らのやさしさのほうが今のわたしの涙を殊更に誘うのだった。スサトのビーフ・シチューは、昔母親に作ってもらったそれよりも、ずっと心の奥底まで染みた。
 三人は原因とか行く末だとか、そういうものには全く口を出さなかった。いつもよりやさしくいつもより元気に、最近のあの本がどうだとか最近の天気とかこの間外食に行ったこととかの記憶を辿っていた。わたしはうわべだけはよくよく聞いていたつもりで、全くその内容が頭に入っていなかった。頭の中では、シャーロックが夢中に物思いにふけっている様子かヴァイオリンを奏でている様子が無限に反芻されていた。
 話が一通りおさまると、わたしは立ち上がって食器を片付けた。ナルホドーとスサトはわたわたと立ち上がって、ぼくがわたしがやりますから、とわたしの体をとめようとした。わたしは振り返って
「今日はみんなありがとう。手を動かしているほうが落ち着くから、もうわたしに任せてみんな部屋に戻って大丈夫だよ」
 と言って、笑ってみせた。二人はおずおずと手を引き、気まずそうに顔を見合わせたが、後ろにいたアイリスが「もう遅いから寝たほうがいいの! 医学博士の視点から言っても」と声をかけたことにより、しぶしぶ頷いて屋根裏に戻っていった。アイリスもテーブルを拭いて軽く箒がけをして部屋に戻った。わたし一人が残された部屋には、食器と食器が擦れる音だけが響いた。

 シャーロックはやはり(というのもなんだかおかしいけれど)あの後何日も家を空けた。難しい事件を追っているんだ、とはすぐに予想できたが、あんまりだった。わたしは二日くらい経ったある日、なにもかもがどうでもよくなって、シャーロックから預かっていた首飾りを外して青い箱の中に戻してしまった。そうして、先日もらった華奢な首飾りを、首にかけてみたのだった。シャーロックの首飾りも大概だが、この首飾りはより一層収まりが悪かった。とても素敵なものであることは確かなのだが、今のわたしはそれを薄ら拒んでいるような姿で鏡に映っていたのだ。三秒で外し、それもまた元あった箱のなかに戻した。そうして、わたしの首には久々になにも掛からないようになった。なあんだ。わたしは心のなかでつぶやいた。あれを外すのなんて、そう大儀なことでもなかったんだ。
 わたしが自室を出てゆくと、ナルホドーが暇そうに新聞を読んでいた。わたしは彼を散歩に誘い出してみた。彼は二つ返事でそれを承諾した。
「わたしより三つ年上のナルホドーさん」
「なんですか、その含みのある言い回しは?」
「生きていく上で物憂さというものは本当に必要なのでしょうか?」
 彼の返しはほとんど聞かなかったようにして、わたしはあらかじめ用意していた質問をふわりと投げかけてみた。もしかしたら、彼からしたら、ふわり、とは感じられなかったかもしれないが。
「それは簡単です、なまえさん」ナルホドーは指を鼻にあてて聳やかした。「必要か不必要かという話ではなく、必然なのです」
 結果として、彼はわたしの質問に答えてくれたわけだけれど、なんとなくその答えにはしっくりくるものがあるようで、逆に真意から遠ざかっているようにも感じられた。「そういうもんですかねえ」とわたしがため息をつくと、「そういうもんなんですよねえ」と彼もため息をひとつついて見せた。
「ねえ、慰めを抜きにして答えても、本当にそうだと言える?」
「慰めを抜きにしても、物憂さは必然なのです」
「はあ」わたしはため息をついた。
「はあ」ナルホドーもため息をついた。
 わたしたちはベンチに腰掛けた。外は暖かいようで、木陰に入ると寒々としていた。春と冬の狭間がそこにはあった。
「ぼくはスサトさんが好きです」
「ずいぶんとはっきり言うね」
「はい。本人の前では言えないけど、ぼくは小春のように透明で美しいスサトさんが好きです」
 鉄のベンチはすぐにわたしたちの身体を冷やした。目の前で行き交う人と人の流れを見て、ああ彼処は陽が当たっていて暖かそうだなあと思った。
「わたしも、本人の前では言えないけれど、シャーロックが好き」
「ええ」
「話変わるけど、リュウノスケっていい名前だよね。ドラゴン? かっこいい」
「ぼくはもう少し短い名前が良かったです」
「シャーロック・ホームズは日本でもシャーロック・ホームズ?」
「英語の発音を日本語にするのは、少し骨の折れる作業なのです。今はシャアロック・ホルムス、が多いのかな」
「全然ちがう」
「ええ、全然ちがいますよ」
 ガタンゴトンと馬車が目の前を通り過ぎていく。わたしは足を組み替えて姿勢を正した。鉄の冷たさは、ずいぶん気にならないほどにはなってきていた。
「ナルホドーは、司法の勉強がしたくて、ずっと英語を勉強していたの?」
「……いいえ」ナルホドーは一言そう言って、言葉にならない音で喉を鳴らした。うまい言葉を探しているようだった。
「英語は、前からずっと学んでいて。ぼくが司法を志すのは、ある親友の信念を引き継いだからです」
「親友の信念?」
「ロンドン行きの船の中で、志半ばにこの世を去ってしまったんです。『日本の司法を変える』。それが彼の信念でした。ぼくは後ろさえも振り向かずに、その信念だけを見据えて、必死に勉強しました。でも、最近よく耽ってしまうのです。その、なまえさんが言うようなものと同じ、物憂さとやらに」
 彼は木陰のせいで薄暗くなった顔色をさらに沈みこませるように、深い瞬きをした。わたしはまた周りの温度が少し下がるような感覚を得た。幼さの残る顔立ちで彼は一瞬わたしを見遣って、そしてやや枯れがちな声で笑って見せた。
「だから、ぼくは物憂さは必然だと思うのです」

 わたしは下宿に戻ったのち、紙を一枚掴んで手紙を書いた。かの男子学生に向けてである。どうしても貴方の気持ちを受け止めることができません、ごめんなさい。そういったことを短くまとめて、首飾りを入れて封をしてポストに突っ込んだ。住所はあのとき強引に渡されたので知っていた。
 ずいぶん酷いことをしたものだ、と思った。しかし、手紙で振るという行動はわたしの取れる行動のなかでも最もマシな部類だとも思った。それは、わたしにとっても、彼にとってもだ。面と向かったら、わたしは何を言い出してしまうか自分でも見当がつかない。
 手紙を投函した途端に、わたしの手に水滴が落ちてきた。先ほどは晴れていたのに、どうやらこれから雨が降るらしい。わたしはわずかな雨ですでに湿り出す煉瓦畳みで滑らないようポストの前から遠ざかった。それから真っ直ぐ下宿へ戻って食事の準備をした。雨はあれから三日三晩降り続き止むことがなかった。
 一週間ほど経った頃合いだろうか、その日の朝刊にでかでかとシャーロックの写真が載ったのは。ナルホドーは眠そうにソファーに腰掛けスサトは卵とベーコンを焼き、わたしはケトルに水を注いでいるようないつもの朝だった。めずらしく晴れていた。アイリスは徹夜明けの妙な心の浮き具合で新聞を取りに行って、その一面を見て黙っていられなかったのであろう。「ビッグ・ニュースがあるの」と大きな声で騒ぎ立てた。
「シャーロック・ホームズ、お手柄」わたしはタイトルを読み上げた。
「へえーすごい、やっぱり事件を追っていたんですね」
「ホームズさま、さすがです」
 ナルホドーとスサトは、初めてみる本物の探偵の喜劇に感激していた。アイリスによると、新聞に載ることはままあるものの、ここまで大きく写真が載るのは初めてのことらしい。
「未発表の毒薬を手掛かりに昨夜未明犯人を逮捕……そろそろ帰ってくるってこと?」
 アイリスは自らの疑問を突っ込みつつ、内容を軽く読み上げた。使用例のないめずらしい毒薬が使われた事件で、手掛かり無しとされていたが、ホームズ氏はその毒薬を頼りに事件を解決に導いた……。
 わたしは授業に間に合うように誰よりも早く下宿を出た。今日の英国文学研究の授業で取り上げられたのは、シェイクスピアだった。黒板に書かれた「If love is blind, love cannot hit the mark. (もし恋が盲目なら、恋は的を射貫けない)」を、わたしは紙の端に二度三度落書きする。ユーフュイズムだかなんだか知らないけれど、気取ってばかりじゃ駄目だと、わたしはぼんやりと思ったのだった。
 授業の帰り、わたしは街中のブック・スタンドに立ち寄った。目当ての本は別にあったが、スタンドの一番目立つところに今日の朝刊とストランド・マガジンがずらりと並んでいて、思わず注目してしまう。そこに写るシャーロックは、息が苦しくなるほどにわかっていたけどやはり格好よくて、わたしは、数秒悩んでこっそり朝刊を買った。本当は買い占めたいくらいだった。盲目って、本当はそういうことを言うんだろうと思う。

 二十分ほど歩いて下宿に着くと、ドアを開ける前から響くヴァイオリンの調べによりわたしはなんとも言えない気持ちになったが、わたしはコホンと咳払いをひとつたてると、そのドアをそっと開けて部屋に入った。ヴァイオリンを奏でる主シャーロックは、わたしが鳴らす蝶番の音に即座に気付いてドアのほうを見遣ったのち、すぐヴァイオリンを置いて「おかえり」と言った。わたしも「おかえり」と言った。
 わたしは薄手のコートを脱いで掛けてしまうと、自室に戻って荷物を置いた。このまま引きこもってしまおうか。そう思ったけれけれど、シャーロックが部屋のドアをノックして「紅茶でもどう?」と言うので渋々部屋を出た。
 シャーロックはケトルに水を注いでいるところだった。鼻歌を歌いながら揚々と注いでいた。わたしは戸棚からアール・グレイの茶葉と蜂蜜を取り出し、今朝運んでもらったばかりの牛乳も瓶ごと暗所から取り出した。後ろから見るシャーロックは、以前より少し痩せたようだった。
「チョコレートがあるんだ。食べないか?」
 シャーロックは自分の書斎に一旦戻ってから、黄色い箱を持ってきた。「ウイスキー・ボンボン……」箱にそう書いてあった。
 シャーロックはそれを無造作に机に置こうとしたのだけれど、わたしが茶葉やら蜂蜜やら置いたのが見えていなかったのかそれらを引き倒そうとしたため、わたしは大慌てでシャーロックの腕ごと静止した。
「え」
 シャーロックは一言漏らして固まってしまう。
「あの、茶葉とか倒しそうだったから」
「あ、ああ……いや、もちろん気付いていたさ! このぼくに気付けないものなんてないんだからね!」
 シャーロックに気付けないことなんて世の中たくさんある気がするが、「そうだね」と言って紛らわした。
 シャーロックはその後数秒押し黙って、この間のことなんだが、と話題を切り替えてきた。この間のこと、なんて思い当たる節がひとつしかない。わたしは思わずスカートの裾を握った。
「急にいなくなったりしてすまなかった。あと、ずっと事件に没頭してたことも……悪かった。なんていうか、なまえって僕にちっとも興味がないんじゃないかと思ってたところもあったというか、僕が何をしていようとお構いなしな感じなのかと思って、それでまさかあんなことになるとは思っていなかったんだ」
「……一部始終見てたの?」わたしは不機嫌に目を細めた。
「さっきミスター・ナルホドーに怒られたんだよ」
 ケトルがかたかた言い出した。わたしはすぐ火を止めに行き、机に戻ってティー・ポットに茶葉を入れた。
「ナルホドーに怒られないと気づかなかったわけ」
「本当にごめん」
「もういいよ、怒ってないから。わたしももういい大人だからね」
 わたしは茶葉の瓶に強く強く蓋をした。
「じゃあ、どうして、首飾りをしてないんだい」
「聞きたかったんだけど、あれをわたしが付けてることってそんなに大事かな?」
 わたしはポットに沸かしたばかりの湯を注いだ。開いた茶葉のいい香りがわたしとシャーロックの間を満たした。
「きみが逃げないように」
 シャーロックは気まずそうに言った。
「わたしはこの下宿から出ないよ、もう暫くはね」
「そういう意味じゃない」
 かちゃん。カップとソーサーが音を立てた。シャーロックが机に身を乗り出したからだった。
 わたしはシャーロックの目をまじまじと見た。シャーロックもわたしの目をはっきりと見た。
「僕はなまえのことが好きなんだ」
 時が止まったような気がした。うまく呼吸ができなかった。机の上の一輪挿しの薔薇でさえも呼吸を止めたかのようだった。でも、シャーロックの息遣いだけは変わらなかった。
 時計が午後三時を知らせるために、低く唸りをあげている。