×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -


初出20160126

Euphuism


6 道化師の朝の歌

 おはよう。朝、起床して自室から出てくると、窓から爽やかな朝日が差し込む部屋の真ん中で、トランプを片手に唸っている男が二人いた。付けっ放しのランプを見る限り、一晩中起きていたのだなということが判る。わたしは瞬時にそれを汲み取ってしまい、呆れて何も言えなかった。とりあえず、コーヒーでも淹れようかな。自分のために。
「はあ……また負けた……」
「あっはっは! 僕に勝とうなんて五億年早いよミスター・ナルホドー。さて、もう朝になってしまったね。やめよう」
 シャーロックはわたしの姿を捉えたのか、ナルホドーとの勝負をそそくさと切り上げた。トランプを片付けながら、シャーロックはちらちらとわたしの手元を見る。コーヒーが欲しいのかしら。そう思って「要るの」と投げ遣りに聞いた。シャーロックは満足げに頷いたので、わたしはやむを得ずケトルに入れる水の量を三倍に増やした。
「おはよう……」
 アイリスがあくびをしながら部屋から出てきた。おろしたままの髪を手でなでつけて、ぼんやりしたまま机につく。「ホームズくん朝刊は?」アイリスは薄く目を開けてつぶやくと、シャーロックは「持ってきてあげよう!」と勿体ぶった様子で言い、ドアの前に置きっ放しの新聞を揚々と持ってきた。ナルホドーとの勝負に勝ったのが相当嬉しいのか、やたら元気で明るい。
 最後に現れたのはスサトだったが、アイリスみたいに髪が下ろしっぱなしでもなく、わたしみたいに部屋着でもなく、しっかり着物を身につけ髪を結っていた。おはようございます、と可憐に頭をさげると、ナルホドーは笑顔で椅子をひいてやる。ああ、きっとスサトのことが好きなんだろうな、とわたしは思った。わたしはケトルに水を足す。
「ホームズくん、良いニュースと悪いニュースがあるの、どっちが聞きたい?」
 アイリスは頬杖をつきながらすこし枯れた声を出した。シャーロックは小さくあくびをすると、「んー。じゃあ、良いニュースから聞こうかな?」と言った。
「良いニュースはね、今日はすごく暖かくなりそうなの」
「それは確かに良い知らせだ」
「悪いニュースはね」アイリスはぱらぱらと新聞をめくってお目当ての記事を探す。「スコットランド・ヤード、誤認逮捕相次ぐ!」
 シャーロックの反応をちらりと見ると、彼は半目開きで眠っていた。



 春がやってきて、ぽかぽか暖かい陽気が続いた。冬が長く夏が短いロンドンにしてはめずらしいことだった。なんだかいいことがありそうね、と友人とランチをとりながら談笑するいつもの様子も、心なしかいつもより充実しているような気がした。
「なまえのつけてるペンダント、シックでかわいいね」友人はわたしの首元を覗き込んだ。
「アンティークかしら。とてもすてきだわ」
 わたしは器用に笑ってそれをはぐらかした。
 このごろ、大学の知り合いのことですこし気がかりなことがある。同じ研究室の二つ年上の男子生徒のことである。夕刻の四時にお茶に誘われているのだが、なんだか悪い予感しかしない。なぜだろう、彼はやさしげな人物であるし、あやしくも底意地わるそうでもない。研究もそこそこ優秀で、いやみたらしくもないし不潔でもない。いい意味で普通の男性である。
 しかし、悪い予感は的中した。紅茶が給仕されしばらく当たり障りのない会話をしていたが、彼は急に、「なまえさんに似合うと思って」と華奢な首飾りを贈って寄越したのである。わたしは驚愕した。
「う、受け取れません」
「そんなこと言わないで。僕が贈りたいと思って贈っているだけなのです。いやなら、捨てるなり譲るなり売りさばくなりしていただいて構いませんから」
 その人の好い言葉にわたしはさらに困ってしまった。そんなことを言われたら、受け取って大切に保管する以外に選択肢がないじゃないか。さすがに、なんとも思っていない男からの贈り物を身につけることは躊躇われた。それに、わたしの首元はすでにシャーロックからの預かり物で埋まっているのだ。
「なまえさんのその首飾り、美しいしもちろん似合っているのだけど、ちょっと仰々しい気もするな」彼は寂しげに笑った。わたしだって、つけたくてつけているのではない。これはある種枷なのだ。でも、なかなか勘が良いと思った。仰々しい、はシャーロックならではという感じがする。
 結局、この男子生徒には、お付き合いを考えている、というところまで言われてしまった。わたしの表情は、無事彼の目にも困惑しているように見えただろうか。そうであってほしいものだ。

 なんとなくそのまま下宿へ帰りづらくて、わたしは図書館にて少女文学を数冊借りて、そのまま構内をふらふらよたよたと彷徨い続けていたが、夕陽のあたる道を優先して歩いていたら自然とシャーロックがよく篭っている研究室の前まで来てしまったので、わたしは思わず足を止めた。いる、かな。わたしは大してためらいもせずそのドアを開けた。ぎい、と蝶番が古めかしい音をたて、わたしは中へ立ち入った。煙たい。これは、シャーロックがよくふかしているパイプの匂いだ。
「なまえじゃないか、めずらしいな、きみからここへ来るなんて」
 シャーロックは少なからず驚いていた。目をこすりながらわたしに椅子を出す。やや目が充血しているところを見ると、また寝ていないんだろうなということが容易に想像できた。
「今、グレグソン警部から依頼があって、科学的実験をしていたのさ」
 というものの、実験道具は全部机の端へ寄せてしまった。わたしへの配慮だろうか。めずらしい。そうだったら、嬉しいなと思った。
 改めて向き合って彼の顔を眺めると、やっぱりきれいな顔立ちをしていて、格好良かった。すこしたれ目がちの目元、シャープな眉、縦に長いおとなびた輪郭、すべてが精悍だった。なかでもわたしは、その淡い髪の色が好きだった。きっと、こんなことを告げる機会なんて、ないのだろうけど。
「なまえ? なにか悩みでもあるのかい」
「ううん、すこし疲れただけ」
 シャーロックはパイプをも片付けてしまった。そうして、わたしにクッキーを一枚くれた。甘いものは心が元気になるんだ、知ってたかい? なんて一言を添えて。なんだか今日のシャーロックは狼狽えないな、どうしたんだろう。
「それはそうと、今度の土曜日は、空いてる?」
「土曜日? うん、空いてるけど。でも、その日はアイリスの学会があったよね?」
「そう、それなんだけど、ミスター・ナルホドーが送り迎えを引き受けてくれると言ってくれてね。よかったら、オペラに一緒についてきてくれないか?」
 え、とわたしは言った。つい、シャーロックに誘われると、一瞬ためらう(ふりをする)癖ができてしまった。本当はちょっと嬉しい。先刻の男子生徒のくだりも忘れたいし、今日は快く受けようか、そう思っていたのだが。
「まあ、そのクッキーの借りを返すのだと思って、付き合ってくれよ」
「えっ」
 返事をする前にもう一枚クッキーを持たされ、わたしは研究室から放り出された。思った以上に、シャーロックは忙しいのかもしれない。思えば、わたし、シャーロックのこと、なにも知らないな。普段なにを考えて事件に臨んでいて、なにに絶望して何日も横たわっているのか、とか。なにも、知らない。



 土曜日、わたしは持っているなかで一番いい服を着て、シャーロックとともに下宿を出た。シャーロックは出かけるまで、ずっとソファに座って思案を巡らせているか、はたまた眠りこけているようで、一言で言うと、これからオペラを聴きに行くような人間には見えなかった。わたしと下宿を出た後も、まるで仕事に行くかのようにすこし勇み足で御者に声をかけて馬車に乗ったのだった。
「最近……」
「ん?」
「忙しいの?」
 思わずわたしは聞いてしまってから、口元をレースの手袋で覆われた指先で抑えた。途端、恥ずかしくなったのである。シャーロックは、深い考え事に沈み込むように「まあ……」と言った。それきりだった。
 劇場に着くと、シャーロックは代金を支払って馬車を降りた。降りる際にわたしの手をとってくれた。ロンドンの男性なら誰でもこういうことをするが、シャーロックが例に漏れずやってくれることを知ってすこし驚いたのも事実だ。わたしは一日中シャーロックが上の空だったということもあって、つまらなくなってその手をずっと離さないでいた。するとシャーロックは困ったように空いた手で額を抱え、ぼそりとわたしの名前をつぶやいた。
「僕の心をかき乱さないでくれないか。きみは……そんな可愛い顔をしていて、その自覚がないんだな」
「な、なに言ってるの」
「とにかく! 楽しいオペラだ、行こう。掴むなら、手でなく、腕を」
 誘導されるがままわたしの左手は彼の腕へたどり着いた。彼がなにをためらっているのかわからないけど、このままだといけない、自分のいいように解釈してしまって現実と思惑がずいぶんと乖離してしまう。たぶん、腕がいいと言ったのはシャーロックの趣味だと思うから置いておくとして。紛れもなく、今、可愛いって言い放ったわけだし。ああ、でも、可愛いと好きはイコールではないかもしれないな。でも、薪を運んだときにも綺麗だと、言ってくれていたし……ああもう。引っかかることも多少ある。首飾りを渡したときの心境とか、契約書を破り捨てたときのこととか。そのわりにオーケストラに誘ってきたときはなんだか奥手で、今回のオペラはやけにスムーズだったこともすこし引っかかっている。基本的には格好つけなのに、最近ボロが出やすくなっていて、でもここ一週間のシャーロックはずっと背筋を伸ばしたままだということも。考えれば考えるほどわからない。結局わたしはそのことを延々ぐるぐると考える羽目になり、せっかくのオペラがただただ上の空だった。ふと隣のシャーロックのいる席を見やると、そこには何の人影もなく、わたしは思わず二度見した。いない。空席だ。え? 何故。
 席の上にはひとつ紙切れが乗っていた。「終演後、劇場前にミスター・ナルホドーとアイリスが待っているから、一緒に馬車に乗って帰りなさい。代金は僕宛につけておいて」
 ちょっと、にわかには信じられない。彼はどこへいったのだろうか。いつからいなかったのだろうか。もしかして最初からこういうつもりだったのだろうか。そう思ってすこし合点がいった。たぶん、彼は事件の捜査のために、この劇場へ忍び込んだのだ。怪しまれないよう、女性をつれて。ああ、しまった、やられた!
 しかも、帰りなさい、ってなんなの。わたしは心のなかで悪態をついた。いきなり保護者のふりなんて、しないでよ。

 わたしは終演後、言いつけを守ってアイリスとナルホドーと落ち合った。彼らは大きな木の前で待っていた。
「その様子をみると、なにも聞かされてなかったんだね」
 聡いアイリスはわたしの表情を見て瞬時に悟った。ナルホドーもわたし以上にかなしげな顔をしている。おそらくそうさせているのはわたしのこの落胆した空気のせいだ。
「なまえちゃん、元気出して。ホームズくん、なまえちゃんに言い出す勇気がなかったんだよ。まあ、ぜんぶホームズくんが悪いんだけど……」
「なまえさん、帰ったら美味しいディナーとお酒をいただきましょう! スサトさんが作って待ってくれていますよ」
 二人が一様に励ましてくれる。この二人は事前に聞かされていたのか。でも、そうでなければ、劇場前まで来ないものなと思う。
 わたしは恋のどきどきとちょっとした裏切りとがまぜこぜになって、気づけば涙が止まらなくなっていた。二人はおろおろしつつも、それぞれハンカチをだしてわたしに握らせた。ホームズくんって本当格好つけてばっかり。早く言葉で伝えてあげたらいいのに! アイリスが言いながら背中を撫でてくれた。ナルホドーはちょっと気まずそうにしていた。