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初出20151201

Euphuism


5 バイブルがわりのフィクション

 冬がこくりこくりと深まったころ、シャーロックはフラリと帰ってきた。わたしはそのとき丁度下宿を留守にしていたが、原稿の締め切りに追われるアイリスがシャーロックの帰還を出迎えた。
 彼は出掛けるときにトランクを持って行ったはずだったが、一体どこへ置いてきたのやら、トランクを持たず身軽な格好で帰ってきた。また、見たことのないコートを羽織っていて、髭もかなり伸びていたらしい。アイリスは変わり果てたシャーロックの姿を見て、変な人が家に入ってきてしまったと勘違いし、アイリスお手製の様々な薬品の混じった銃を一発、彼にお見舞いしてしまったそうである。わたしが帰ったときには昔懐かしいあのシャーロックの見た目で革張りのソファに仰向けになっていたので、不審な姿を一目も見れず残念の極みであった。
「おかえりなさい」
「た! ……た、ただいま」
 わたしが挨拶をすると、シャーロックは飛び跳ねるように起きて、少し狼狽えながらわたしにそう言った。わたしはあまりに単純なその動揺に思わず微笑んでしまってから、彼の隣に座った。彼はグルリと一周目を泳がせたのち、背筋をのばしていつも通り格好つけ始めた。
 ところで、わたしはひとり決心したことがある。それは、わたしのシャーロックへの気持ちを見て見ぬ振りをしようということである。
 クリスマスのときにアイリスに見破られた恋心のようなものを、わたしはわりとすぐに受け入れることが出来ていた。といっても、クリスマスはもう二ヶ月弱も前のことだから、受け入れるには十分過ぎる時間があったわけなのだけれど。とにかくわたしは、自分は彼に恋をしていると認めたのである。
 受容することだけはとにかく簡単だった。でも、自分の気持ちを知った上でそれをどう扱うのが幸いなのか、ということを判断するのは難しかった。身勝手に彼に迫って、彼を幻滅させてしまったら? 彼を苦しめてしまったら? それを思うと、自分の気持ちを伝えようなんて無謀な決心はできない。
 それに、わたしの憧憬は、彼が背の高い二枚目だから抱いているようなものの気さえしてくる。どちらにせよ、わたしは今の環境が崩れてしまうくらいなら、大人しくしていよう思ったのである。
 いろんな言い訳が口をついて出てくるものの、結局のところ、わたしは自分に自信が持てなかったのだ。自分や周りが傷つくくらいならやめよう、と言い訳がましく臆病になってしまったのだ。でもそんな葛藤も、二ヶ月という時間が払拭してくれた。わたしはシャーロックの友人だ。胸を張って言える。
「コーヒーでも飲む?」
 わたしはシャーロックに訊ねた。「それじゃあ、お願い、しようかな」と彼はたどたどしく言った。

 丁度このときくらいだったと思う、二人の日本人や若いブロンドの女の子がこの下宿にやってくるようになったのは。
 初めて彼らがやってきたとき、わたしは下宿に居た。そして、果ての見えない課題に向かって四杯目のコーヒーをあおぐところであった。ケトルに水を入れながら、玄関の外ががやがや騒がしくなっているのを不審に思っていると、シャーロックが沢山の人を引き連れて221Bのドアを開けたのである。
 シャーロックが大勢の人々を下宿に通すのは初めてではなかった。それらの多くはシャーロックへの依頼人であったので、はじめはまた依頼人を連れてきたんだな程度に思っていた。それにしても今度は東洋人か……と、多少の違和感を覚えなくはなかったけれど。
「なまえ!」
 シャーロックはわたしに呼び掛けた。わたしは咄嗟に辞書並みに分厚い資料をまとめ、素早く立ち上がった。
「大丈夫、すぐ席を外すよ」
「いや、そういう意味じゃないんだ。きみに紹介したい人がいる」
 シャーロックはそう言って、背景のように後ろに群がる人々を右手で仰いだ。右から順に、真っ黒いのがミスター・ナルホドー、可憐なマドモアゼルがミス・スサト、そしてスリのミス・ジーナだ、と、偏りのある紹介をシャーロックがする。間髪入れずアイリスが「ジーナちゃんは、スリはスリでも良いスリなの!」と効果のなさそうなフォローを入れた。
 シャーロックの手は、今度はわたしに向けられる、
「そしてこちらのレディがなまえだ」
 わたしはぺこりとお辞儀をした。

 それから、わたし含め六人でディナーを一緒に取ることになった。棚に置いてあったセットの食器には限界があり、それぞれにちぐはぐな皿を渡して始まった会であったが、それはそれで盛会だった。昔、親戚一同で集まったクリスマス・パーティのことを、わたしは思い出してしまう。訳もなく、悲しくなった。
 わたしのすぐ隣には、ナルホドーという青年が座った。英語が上手く、よく食べる男だった。幼い顔立ちのためわたしよりも年下だと思っていたが、それとなく年齢を聞いてみると、三つも上であることがわかった。
「なまえさんは学生ですか?」
「ええ、文学部生です」
「そうだったんですね。実は僕も大学生です」
 彼は留学のために海を越え幾多の夜を越え、はるばるロンドンまで来たとのことだった。シャーロックとは道中の船で出会ったという。それを聞いて初めて、彼はそんな遠いところに行っていたのかと思い知らされる。
 会も盛り上がった中盤ほどに、ナルホドーは無邪気な質問を口にした。
「なまえさんはどうしてホームズさんの下宿に?」
 それはまた憎いくらいに流暢な英語だった。わたしは軽く経緯を説明した。事件の渦中にいたこと、シャーロックが居合わせたこと、厚意で下宿に置いてもらっていること……。出て行こうとしたのに理由も言わず引き止められたことは打ち明けなかったので、おそらくナルホドーの目にはシャーロックがとんでもなく良い人に映っているに違いない。
「彼らはこれから下宿の屋根裏を使ってもらうことになっているんだ」
 シャーロックが言う。そのとき、アイリスがジーナの手を引くも、ジーナは「わたしは違うからね」と慌てて振りほどいた。わたしは、同じく居候の身として、思わずどこか安心してしまう。その安心感が何を示すかろくにわからないうちに、食事会はお開きとなった。



 いつの間にか春になろうとしている。わたしがここに住み始めてから、もうじき一周してしまいそうだ。あのときも、今くらいの寒さだっただろうか。上手に思い出すことができない。懐かしいのは暖炉の焦げた匂いと、事件簿の古びた息遣い、散乱したシャーロックの書斎、アイリスのハーブ・ティーの香り、数冊のバイブル代わりのフィクション、それが全てだと思う。
 異なるのは屋根裏の住人だ。毎朝規則正しく起床し、リビングで一緒に朝食を摂る。普段はわたしかアイリスが自分ついでに食事を用意することが多いのだけれど、この間はスサトが日本料理を振舞ってくれた。とはいうものの、材料はあちらとこちらではあまりにも違いすぎて、大したものは作れませんでしたがと彼女は苦笑いをする羽目になる。キャベツの浅漬け、焼き魚を出してくれた。
「今、日本では牛鍋が流行っているんだ」
 魚をフォークで突っつきながらナルホドーが言う。
「ビーフ? イングランドでも大人気なの。ロースト・ビーフにビーフ・シチュー!」
 アイリスは目をらんらんと輝かせた。
「牛鍋も食べてみたいな」
「牛鍋は、お醤油やみりんが必要でございますから、ロンドンで食べるには少々難しいかと存じます」
 スサトはアイリスにやさしく微笑みかける。オショーユとミリン? アイリスは目を瞬かせた。スサトが味の説明をしてやると、彼女は感嘆しうっとりするような瞳で悩ましげにため息をついた。
「いつか日本に行ってみたいなあ」
 わたしも、見たことのない東洋の国に、思いを馳せた。
 彼らはコートを羽織りまだ雪の残るロンドンの街へ繰り出して行ってしまう。アイリスも学会ぐるみの付き合いで昼前には出かけて行った。わたしはカチコチと古めかしい音を立てる時計を聴きながら仕方なしにハムレットを読んでいる。時計の音ばかりが大きく聴こえていたころ、急にそれよりも大きい音が鼓膜を揺らした。何事かと思い音のした方を見ると、シャーロックが目をこすりこすり寝室から出てきて、そのとき初めて彼がこの下宿にいたことに気がついた。
「おはよう」
「え! おはよう……。ナンダなまえ、いたのか……時計の音しか聴こえなかったよ。随分おとなしくしていたんだね」
「あなたこそ、いるとは思わなかったよ」
 シャーロックは水差しからコップに半分水を注ぐと、それをグイッと飲み干した。タタンタタンと窓の外から久々に音がする。馬車でも通っているのだろう。
「あー、 なまえ。手は空いてる?」
「うん、暇だよ」
「薪を調達しにいかないか。もうなくなる」
「いいよ」
 わたしはソファから跳ね上がって、すぐにコートを羽織りマフラーを巻き帽子をかぶって手袋をした。シャーロックも寒さに備え重装備すると、大きく伸びをする。
 薪は、近所に売っているところがあるので、そこで調達をする。まとめて買うため、二人で持ったとしても何回か往復する必要がある。歩くうちに暑くなってくるので、最終的には今の恰好より三割ほど軽装になる見込みだ。
 薪は結構重く、重い重いと言いながらシャーロックの後ろを歩いていると、シャーロックは歩幅をあわせて頑張れ頑張れと言って別にわたしの分を一部持ってくれるとかそういうことはなかった。三回目の復路ではわたしの持つ分量が明らかに多く、それに対して文句を言うもまたもや頑張れ頑張れと機械のように言うだけだったので、ついにわたしはその薪をシャーロックへ投げつけた。
「痛い! 結構痛い!」
「それくらい重いって証拠だよ!」
 わたしの投げた薪はころんと彼のそばに転がった。彼は持っていた薪をすぐそばに置いて、ふざけてわたしに雪を投げてきた。意図的なのか本気なのかわからないが、明後日の方向に飛んで行った白い塊を見て、わたしもシャーロックに雪を投げた。何度かそんな攻防をするうちに、ついにわたしの一撃がシャーロックに命中する。わたしが声をあげて笑うと、シャーロックは「降参だ」と行って歩み寄ってきた。
「猟師にでもなったほうが良いんじゃないか?」
「シャーロックしか仕留められないんじゃ、しょうがないよ」
 わたしは悪びれもなくそう言うと、彼は少し居心地悪そうに「まあ、そうかもしれないが」と目を泳がせてしまう。
 足元の雪に無造作に埋まった薪を拾おうとした。もちろん、軽い方を。すると、わたしは氷のようになっている地面にうっかり足をとられ、ずるっと滑ってしまう。思わず後ろに手をつこうとするも、機敏に反応したシャーロックがわたしの手を逆に引いて、結局わたしたちは引っ張り合いながら横向きに倒れこんだ。
 雪の絨毯のおかげで、大した衝撃もなく済んだ。掴まれた腕の先にはシャーロックが、ディア・ストーカーが半分落ちかけている状態で顔をしかめていた。わたしは先に起き上がり、頭についた雪を払う。
「怪我ない?」
「ああ。……ちょっとふざけすぎたな」
「楽しかったけどね」
 シャーロックは起き上がる気配もなく、わたしの腕を強く握りこんでいる。今更強く握ったって、転倒を防ぐことはできないのに、強く強く握っている。
「ねえ」
 わたしは彼に声を掛けると、かぶせるようにシャーロックはわたしの腕を引いてわたしを彼の真上に引き倒した。
 わたしの目の前には、すぐ彼の顔があった。高い鼻は寒さですこし赤らんでいて、翡翠のような双眼はまっすぐにわたしを見ていた。白い肌に、煙のような髪が乱れている。そんな目に毒な目の前の景色をわたしは瞬時に受け取って、胸が高鳴るのを待つ暇もなくすぐに後ずさろうとする。でも、手が繋がれているためにそんなに遠くへは行くことができなかった。
「シャーロック」
「雪のせいかな」
「え?」
「いつもよりきみが綺麗だったものだからね」
 時折シャーロックが見せる、このポテンシャルの高さは何なのだろう。それだけさらっと褒めることができて、どうして肝心なところで不器用なのか。シャーロックは笑った。わたしは途方に暮れてしまう。遠い昔に置いてきたはずの想いをいとも簡単に呼び起こしてしまうなんて、そんなのフィクションの中だけだと思っていたのに。