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初出20151028

Euphuism


4 トラファルガーのツリーの前で

 革張りのソファーを買ってから、ほんの数日たった頃合いだったと思う。シャーロックは、かなり長いこと下宿を留守にすると言って、それきり出て行ってしまった。彼の旅行かばんは恐ろしいほど軽く、本当に長旅に出るのか怪しいものだったが、結果として三ヶ月は下宿を離れたのでどうにか遣り繰りしたのだろうということが予想される。出発当日にはアイリスもわたしも早起きして、アイリスは特製のブレンド・ティーを、わたしは彼に暇つぶしになればと一冊の本を渡した。そうして彼は揚々と出て行った。
 それから、わたしとアイリスは一週間が過ぎるたび、あの人まだ帰ってこないねという話をした。シャーロックはわたしにもアイリスにも、その旅の期間を詳しくは知らせていなかったのだ。一週間目、二週間目と過ぎ、一ヶ月が経った頃には「あ、本当に長旅に出掛けたんだ」ということが実感を帯びて理解に及びはじめた。
「ホームズくん、今頃どこなのかな……」
 アイリスは曇った窓の外をぼんやり眺める。おそらく、わたしより十歳も若い彼女からしたら、シャーロックのいないここ一ヶ月は恐ろしいほど長かったのだろう。そしておそらく、これほどまでの長い期間をシャーロックと離れるのは、もしかしたら物心がついてからは初めてなのではないだろうか。シャーロックもあれで良識をわきまえた大人なので(たまに耳を疑う発言をするのも、良識を分かったうえでの過ぎた冗談、悪乗りだと思っている。まあ、そういった発言が軽々できる時点でそういう面のタガが外れてしまっているのは否めない)、今まで幼い女の子を下宿に一人置いて長いこと留守にするなんてことをしなかったのではと、わたしは思うのである。
 窓の外は、一日に一回は降る雨のせいで真っ白い世界で覆われている。凍えるように寒いので、極力外へは出ないようにしている。シャーロックの居るところは雨が降っているのだろうか。多分、彼は今イングランドには居ないと思う。

 ハロウィンやガイ・フォークス・デイが終わった途端に世間はすっかりクリスマスの賑わいになっていた。あちこちサンタ・クロースやトナカイのオーナメントが飾られて、プレゼント用の包装紙だとか、クリスマスにぴったりのシャンパンだとかシャンメリーだとか、色んな物が綺羅びやかに売りだされている。
「もしかして、ホームズくんはクリスマスにも帰ってこないつもりなの?」
 いつになくアイリスは子どもっぽく拗ねて、特製の紅茶に砂糖をどばどば入れた。イングランドでは、クリスマスは遠方にいる家族も全員集まってくるくらいの一大イベントなのだけれど、シャーロックは出掛けたきり全く音沙汰が無かった。
「生きてるよね?」
「そうであってほしいけど……」
 わたしは曖昧に返事をして部屋に飾ってあるツリーの具合を見た。露店で買って友人らに運んでもらったはいいものの、ツリーの飾りつけはかなり骨が折れた。アイリスも先ほどまで手伝ってくれていたが、さすがのアイリスも疲れてしまったみたいで一服入れている。本当に今頃何してるんだろう……年頃の女の子が思いを馳せている男の子に宛ててつぶやくみたいな言葉を心の中で唱えながら、内心彼は今この世界に存在しているんだろうか、と少し不安になった。溜息をつきながらも何人目かわからないサンタの飾りを右手にとると、下宿のドアがノックされ、乾いた音とともに「郵便局です」という若い男性の声がした。
「はあい」
 アイリスはしょんぼりとした表情を変えずにドアまで駆け寄った。わたしはうんざりしながらも何個目かわからない星を木に飾り立てると、窓の外を見た。今は雨が止んでいるようだ。買い出しに出掛けるなら、今だろう。
「なまえちゃん!」
 配達員を帰したばかりのアイリスが、先ほどまでの物憂さをどこかに放り出したかのように明朗に、わたしの名前を呼んだ。
 アイリスが手をこまねくままにわたしは彼女に近づいた。アイリスの小さい両手では持ちきれなかったのだろう、大ぶりなサイズの荷物が、玄関口のすぐ傍でロンドンの空気に馴染まないような風貌で無造作に置かれていた。
「どうしたの、これ」
「ホームズくんからなの!」
 アイリスは大喜びで書留を見せてきた。差出人の欄に、走り書きで彼の名前が書かれていて、その字は遠いところからはるばるやってきたからか、所々滲んでいた。
 アイリスはその小包の外壁となる部分を器用に暴いていくと、その包みの中にさらに二つの包みが入っていて、それぞれにわたしの名前とアイリスの名前が記されていた。その名前の横には「メリー・クリスマス」という赤いインクの文字が、飛んでしまったインクの染みとともにしたためられていた。
「クリスマス・プレゼント!」アイリスは目を輝かせた。
「ツリーの下に置こうか」
 わたしはアイリスに提案すると、彼女は快く大きく頷いてみせた。
 わたしは、彼からプレゼントが贈られてきたこと、思わぬ形で生存を確認できたこと、彼のクリスマスに関する価値観やわたしたちへの気持ちに触れて、正直驚きと嬉しさとが入り混じって、半ば気が動転していた。そして、語られはしないものの、今彼がどのような境遇なのか、ということも、細い糸を伝ってくるくらいに些細なものだけれど、想像することができた。
 それからシャーロックのプレゼントはクリスマスを迎えるまで開けられることなく、わたしとアイリスで可愛く飾り立てたツリーの下でしずかに出番を待ち構えていた。

 それから月日は矢のごとく流れ……わたしもアイリスもそれぞれの研究が年末に向けて大詰めだったので時間の経過に鈍感になっていたこともあるが……カレンダーは十二月の半ばまでチェックが付けられていた。各々の用事を取り敢えず終わらせたわたしたちは、二十四日の日にトラファルガーの広場のツリーを見に行った。ロンドンの中で一番大きいツリーがあるのは、他でもないトラファルガー広場なのである。
 アイリスはこの間買ったばかりの、わたしは一昨年から使い古しのコートを羽織って、薄暗いロンドンの街をくっついて歩いた。往来は賑やかで、わたしたちの他にも広場へ足をのばす人々もこの中に少なくないと思われた。アイリスもわたしも無邪気にはしゃいで、聖なる日の前日をめいっぱい楽しんでいた。
 ツリーはガス灯のぼんやりとした明かりに照らされていたが、ツリーの飾りがそれらを鋭く反射して、辺りは他の一帯よりも明るくなっていた。そこかしこに警察がいて、うわついたロンドンの街を戒めているようだった。
「なまえちゃんは、好きな人いる」
 アイリスは唐突に、また、それはそれは無感情に聞いた。わたしは、大慌てで首を振った。
 どうして。わたしは首を振ったあとふと思った。
 どうしてわたしは大慌てになってしまったのだろう……。
「あたしはね、いるよ」
 アイリスは先ほどまでの冷徹さが嘘のように顔を綻ばせ語ったので、わたしは驚いて言葉を発せなくなってしまう。不思議なことなど、何もない。女の子が少しませて成長するのは、今に始まった事ではないのだ。
 でも、一方で、何もわからず大人になってしまったわたしは、今でもなおどうしたらいいのかわからない。本が恋人とでも言わんばかりに、わたしはつねに本とともに在った。本の中の女の子はみんな恋をしていたし、わたしもそれは見ていたのだけれど、どうしてもそれが自分に結びつくとは思えなかった。いつでも他人事だった。
「なまえちゃん」
 名前を呼ばれてわたしはアイリスを見た。白い頬に薄い紅色を乗せて、長い睫毛に新緑の瞳をたたえているそのあどけなさに、わたしは暫し見惚れてしまう。
「なまえちゃんとはずっと一緒に居たいけど……ホームズくんはやめておいたほうがいいと思うの」
「…………え?」
「わかると思うけど、片付けもできないし、デリカシーもないし、料理もできないし……おまけにあの人は、推理は幾らでも言えるくせに、好きな女の子のことは何時迄も待たせる気でいるの。信じられないね」
 アイリスは鼻で笑うように言い放った。長年一緒に居たアイリスだからこそ言えるものの、今のわたしにとってそれに同意するのは少々立場を見誤っているように思えたので、わたしは肯定も否定もせず目を泳がせながらアイリスをただ見つめ続けた。
「でも」
 アイリスは物憂げに微笑んで、リボンのように括られた髪を揺らす。
「なまえちゃんがいいと思ったなら、いいってことなの」
 わたしは沈黙でもって、アイリスのその愚痴とも言える励ましを受け入れた。アイリスはそれ以上、わたしの恋のこと、そして暗にシャーロックの恋のことをも、語ることはなかった。
 きっと、わたしは、このときの星を散りばめたような景色と、体の芯まで染み入る冷たい温度と、寒さと高揚と食べ物の湯気とでまざった冬の匂いと、かわいらしい声で紡がれたアイリスの言葉を、一生忘れることはないだろう。
 シャーロックからのクリスマス・プレゼントは、数冊のフランス語の書物と、硝子細工の埋め込まれた髪飾りだった。