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初出20151018

Euphuism


3 多幸感

 穏やかな冬の入りだった。幾ばくかの金貨と地図を手に、去年編み上げたマフラーを首もとに巻いて、わたしはロンドンの街をふらふらと彷徨っていた。地図を読むのがにがてなわたしは、自信を持って曲がったはずの道で迷ってしまい、元来た道を戻るのにも少し時間がかかり、結局、目的地についたのは集合時間を二十分過ぎた頃合いだった。待ち合わせの相手であるシャーロックは、ディアストーカーを目深に被り、寒そうに身を縮こまらせながらそこにいた。
「ごめん」わたしは素直に謝った。
「僕も今来たところさ」鼻をすすってシャーロックは言う。どうして彼は、こんなにも嘘が下手なのだろう。
 わたしたちは今、家具屋の目の前にいる。この間、シャーロックが謎の液体を溢したせいで来客用のソファが焦げて駄目になってしまったので、新しく調達しようとしてはるばる此処までやってきた。アイリスと来ればいいのに、シャーロックは大体なんでもわたしを誘い合わせてくる。わたしが成人しているからなのか、それとも新たな同居人に対し気を遣ってくれているのか。いずれにしても、彼の意図が見えずなんとも言えない気分である。
 マフラーの下には、未だにあの首飾りがわたしの首をしめつけている。物理的にも重くて、前に比べ少し首が凝ってしまったように思う。彼は、外出などで出突っ張りにならない限り、一日に一度はわたしの首もとに一瞥をやっては、安堵をするように優しげに笑った。わたしは、それ以上の彼の感情を知らない。また、知る手段も持ち得ていない。
 黒い革張りのモダンなソファを選ぶのに、そう時間は掛からなかった。これにしよう、とシャーロックが機嫌よく呟くと、わたしたちは愛想のいい店員に促され、奥の机へ案内された。ウエッジ・ウッドのカップに注がれたアールグレイを戴くと、シャーロックの目の前に契約書とペンが差し出された。彼はそれに器用にサインをする。わたしは契約書を彼に幾度となく破られて以来、それを見るとサインではなく破ることが脳裏を過るようになった。刷り込みとは一種の呪いであると、わたしは時に思う。彼は、本当に罪深いひとだ。わたしの記憶の何割かは、こうやってシャーロックのことで埋められていっている。
 たまに、わたしはそのことについて、切なさにたまらなく身悶えそうになる。

 家具屋を後にすると、シャーロックは両手をすり合わせ白い息を吐いた。わたしもあわせて、曇り硝子のようにぼんやりとした息を吐く。息遣いに色が出てくる、もうそんな時節だったことに、わたしは改めて気づかされる。なにしろ、今年の冬は足音を立てずにやってきたものだから、首飾りを覆うようにあてがったマフラーだって、今朝急いで旅行鞄の底から取り出したくらいだった。
 シャーロックは、せっかくだからお茶でもしていこう、とわたしに言った。その後は、出版社へ一人立派に仕事に行っているアイリスを迎えて、三人で下宿へ戻る予定だった。わたしたち三人の中で最も稼いでいるのは、三十四歳の探偵でも、二十過ぎのしがない大学生でもなく、弱冠十歳の医学博士兼伝記作家の女の子なのだから、驚きである。わたしもいい加減、進路を定めないといけないな、と思う。
 店へ入り席に着くと、わたしもシャーロックもミルクティーを注文した。暫くすると、紅茶とともに、頼んだ覚えのないケーキまでテーブルに運ばれてきた。
「アイリスには内緒で」
 シャーロックは軽くウインクをしてミルクティーに砂糖を入れた。
 わたしはその気障なウインクに心を乱されたことを隠すように、銀色のスプーンを手にとってカップの中をかき回してみる。やさしいミルクの香りが鼻を抜けて体に染み入る様は、他で味わうことのできないくらい多幸感に満ち溢れることだった。
「シアン化カリウムはその致死量の低さから殺人に使われるようになったそうだけど、飲み物に入っていればかき混ぜた時スプーンがきれいに輝くから直ぐに見分けがつくようだよ」
 シャーロックはくるくるとスプーンを取り扱いながら、軽々と言ってのけた。
「……青酸カリのこと?」
「その通り。まあ砂糖を入れると解毒されてしまうから、誰かとお茶する時はとにかく砂糖を入れておくことをお勧めするね」
 わたしはミルクティーを掬い上げていた小さなティー・スプーンに目をやった。濁った様子で鈍くキャラメル色を纏っているから、当たり前だけど、シャーロックに毒を盛られてはいないようである。
 わたしは複雑な気持ちで、ケーキと、ミルクティーと、そしてペリドットの輝きを持つシャーロックの瞳を見た。わたしのささやかな幸福感は、目の前にいる無神経な名探偵によって儚く散った。なにもこんなときに青酸カリの話をしなくても、と思うけれど、話の筋からしたら、紅茶をスプーンで混ぜている今こそが豆知識を披露するタイミングだったのだろう、とも思う。どちらにせよレディにする話ではないし、その見分けがつかないのだとしたら、シャーロックは女性にもてない本当に残念な二枚目だと思う。
 ミルクティーを渋い面持ちで口に含むと、シャーロックはわたしの首もとを見て、何度目かわからない安堵の表情を浮かべた。首にかけてから数ヶ月、この首飾りを預けた意味を、結局わたしは彼に聞けずにいる。聞いたら最期、という気さえする。それがなぜかは分からないのだけれど、自分であれこれ考える余地を自分の手で潰すことになるから、かもしれない。余地があるということは、自分に都合のいいように捉えることができる余地がある、ということに他ならない。わたしは自分を守るためにも、その権利をしっかり持っていなくてはならない。
 出版社へ赴き、アイリスを連れて帰った。夜通し書き上げたアイリスの原稿は、難なく編集担当の目を通り抜け、無事校了となった。わたしはアイリスに、帰ったらクリーム・シチューを作ってあげる、と約束した。アイリスは年相応の無邪気な笑顔で、嬉しそうに声を上げた。

 その翌々日のことである。わたしたちの下宿へ革張りのソファーがやってきた。設置まで配達員にお願いし施して貰うと、新しい革の質感が部屋の中央で違和感を浮かべて佇んだ。
「どこかハード・ボイルド」わたしは呟く。
「アメリカンだね。紅茶よりコーヒーが似合うの」アイリスも深く頷いて、新品の革の匂いを勢いよく吸い込んだ。
 わたしとアイリスは、ソファーに深く腰掛けてみた。イメージに寄せて、コーヒーを机に用意してみた。
「ねえ」アイリスがわたしを見つめる。
「なまえちゃんは、何処にも行かないよね?」
 ふと、わたしもアイリスを見つめた。
「何処にも行けないよ。逆に、ここに居ていいのかなって、思うくらいだよ」
「居ていいの。ずっと居て欲しいの」
 アイリスは革張りのソファーに手をついて、わたしのすぐ隣までやってきた。そうして、わたしのことを小さな腕でぎゅっと抱き締めた。わたしは、ほぼ反射的に、アイリスの頭を優しく撫でた。
 なんとなくだけど、異性であるシャーロックに、アイリスは今までこんな風に甘えたりすることができなくなっていたのではないだろうか、と思う。二人を見ていると、どうしてもシャーロックのほうが子供みたいな時もあるし……。でもそれは、シャーロックとアイリスなりの距離の置き方なのかも、しれない。うまく同居していくために、そういう気遣いが必要なときもあるのだろう。
 考え事にふけながらアイリスを暫くあやしていると、コーヒーを飲んだにも関わらず彼女はすうっと寝入ってしまった。わたしは自分の身体をすり抜いて、彼女に毛布を掛けてあげて、対岸のソファーへと移動した。少しぬるくなったコーヒーを啜る。暖炉の火が暖かい。
 シャーロックはわたしのことをどう思っているのかな。それは、もう何カ月も前から考えていることである。
 でも、やっぱり知らないほうがいいよね。そう思って、わたしは食事の準備を始めた。
 今日は、シャーロックは帰ってこない。