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初出20150922

Euphuism


2 古びた朝がやってくる

「講義が終わったら、研究室まで来てくれないか」
 今朝、下宿を出る前に、シャーロックに言われた言葉である。わたしはそれを律儀に守り、無事、シャーロックの研究室まで足を運んでいた。シャーロックの、というと、かなり語弊がある。もっと真をつく言い方をするならば、「よくシャーロックが居座っている研究室」というものが最も相応しいだろう。
「やあ来てくれたのか。お昼は食べたかい? まだならこれを分けてあげよう」
「食べたし、それ、今朝わたしが作ったサンドイッチじゃない」
 シャーロックは笑顔を貼り付けたまま一瞬黙ると、そのままサンドイッチを口にした。呼び出されてきたものの、シャーロックはわたしをよそに無言でもくもくとサンドイッチを頬張り続けた。わたしはそれを見たり見なかったりして暇をつぶす。およそ五分くらい、そうしていたかもしれない。シャーロックは意外と、ちゃんと噛んで食べる。
「今日も寒いね」
 沈黙に堪え兼ね話しかけるわたしに対し、シャーロックはムグだとかモグだとか言葉にならない音を発した。わたしは溜め息をついて捲ったシャツの袖を直した。動くと暑くて止まると寒いので、袖を捲ったり戻したり、一日に何度もこの動作をしていた。無意識的か意識的かは問わない。
「すまない。本題に入るとしよう」
 シャーロックは手拭きで指や口元を拭うと、紅茶を少し啜った。
「時になまえ、オーケストラに興味はないかい?」
「オーケストラ? 好きだよ。でも、お高いからあまり聴きに行ったことはないかな」
「そうかあ! そうかそうか……」わたしの答えに、シャーロックはにわかに嬉しそうにした。「実は、ここに、オーケストラのペア・チケットがある」
 シャーロックは何処からともなくチケットを取り出し、ピラリとわたしに見せてきた。
「ラプソディー・イン・ブルー……」
「ピアノ・コンチェルトだ。明後日の夜なんだが……」
 明後日の夜……金曜日の夜である。
「あ……! いけない……」
「え? と、それはどういう」
 金曜日はクラス内で中間研究発表会があり、そのあとはみっちり講評および研究内容の見直し、という予定になっている。切り上げようと思えば、切り上げられないこともない。しかし、グループで行っている研究のため、わたし個人の都合で切り上げるわけにもいかないのだった。わたしは事情を説明し、「ごめんなさい。別の人を誘ったほうがいいかと」と両手を合わせシャーロックに告げた。彼は歯切れ悪く「あー……そうか。うん、そうだな」と言った。
「アイリスはどう?」
「アイリスは、寝ちゃうからな」
 シャーロックはパイプを手に取り吸い始めた。なにか考え事をしているとき、彼はいつも煙草を吸う。
「まあ、都合がつきそうだったら来てくれよ。ところで、今日はもう講義はお終いかい?」
「講義はもうないけど、少し図書館へ寄らないといけないんだ」
「熱心だな。頑張れよ。僕は、先に下宿へ戻るとするよ。たまには夕飯でも作ろうかな」
「それなら、ハンバーグがいいな」
「本当かい? 腕によりをかけて作るよ!」
 シャーロックは先ほどの曇った表情をぬぎすて、張り切って言った。わたしは彼のその表情に一安心して、心置きなく彼にさよならを言い、図書館へ向かう。シャーロックの料理なんて今まで食べたことないなあ。わたしは少しだけ賑やかな昼間の図書館でぼんやり思った。研究も卒なくこなすし頭も良いから、料理もきっと得意なのだろう。ちょっぴり変なところもあるけれど、彼ももういい大人だし。何も知らないわたしは、そんないい加減な期待を、呑気に胸に抱いていた。

 わたしが図書館で作業を終え帰宅したのは夕方の五時頃だった。下宿の扉を開けると、たまらなく焦げ臭いかおりがわたしを襲う。何事か、とわたしは思わず顔をしかめてしまう。「おかえりなさい」と言いながら、アイリスが不安げな表情で歩み寄ってきた。
「ホームズくん、珍しくすごく張り切ってキッチンに立ったはいいけど……やっぱりいつものホームズくんなの」
「え、あの、まさか、料理、苦手なの?」
「苦手っていうか、全部強火でやっちゃうの。火が通ればいいんだろうって、ホームズくんって料理に関してはかなり雑で……だから、なるべくキッチンに立たせないようにしたかったんだけど、なまえのリクエストだからってホームズくんきかなくって。あらかじめ言っておかなくてごめんね、なまえちゃん、まさかこんなことになるとは思わなかったから……」
「いや、わたしもそれを知っていれば……」
「なまえ! おかえり!」
 奥から、大事件の渦中のシャーロックが顔を出した。真っ黒な物体を白い皿に乗せて……。
「なまえが食べたいといっていたハンバーグだ! 少し色が濃いが……まあシルエットは同じだろう?」
 色が濃いって。シルエットは同じだって。アイリスもわたしも小さい声で突っ込んだ。机の上に三つ並んだハンバーグはどれも等しく焦げていて、付け合せの野菜……だったものも、あまりいい色をしていない。
 いただきます。シャーロック以外沈んだ声で食事を開始した。わたしは精一杯、たまらない苦味に顔をしかめないようにした。アイリスも、同じく努めていた。こんなシロモノを生み出してしまうシャーロックも、味覚は正常だ。食べはじめた瞬間に「あ、これは美味しくない」と分かったらしい。おしゃべりだった彼も次第に口数が減っていって、最終的には花がしおれるみたいに元気がなくなってしまった。アイリスが空気を読んで「きょうがっこうであったおもしろいこと」を無邪気に語り始めた。アイリスは本当に大人だなあと思う。
 そんな夜だったため、次の日の朝のシャーロックは悲しげな調べをヴァイオリンで延々と弾き続ける無気力な機械のようになってしまった。わたしもアイリスも朝食を済ませると、足早に下宿を出てそれぞれの学校へ向かった。



 本日は講義だらけで息つく間もなかった。ふとしばらく開いていなかった手帖を見ると、レポートの提出が来週水曜日まで差し迫っている。何のレポートだったか……わたしは二、三秒考え込んで、先週二千字位書いて余裕余裕と思っていた古典文学の評論だ、ということをようやく思い出したのだった。あと三千字もあるうえに、もう書きたいことも特にない。
 明日以降はまたグループの研究で慌ただしくなる……わたしは真っ青になってすぐさま下宿へ帰ってきた。図書館でやっていきたかったが、外はあっという間に暗くなってしまうので、早目に帰らなければならなかった。
 下宿にはすでにアイリスが居て、ミネストローネを作ってくれていた。いい匂いに心を躍らせながら、しかしやらなければいけない課題をふと思い出し、わたしはコーヒーを淹れて机に齧り付く他なかった。
 二時間ほど粘ると、シャーロックが帰ってきて夕食を摂ることになった。帰宅したシャーロックはアイリスから命を受けたのかわたしを呼びに来た。冷めきったコーヒーと机の上にばら撒かれた紙、紙、紙、開きっぱなしで重ね置きされている書物、などを見てシャーロックは「大変そうだ」と言った。
「しつこく聞くようだが……明日は早く終わりそうにないか?」
 わたしは紙の束に釘付けだった目を上にあげた。シャーロックは居心地悪そうにそこに立っていた。椅子に座っているわたしにとって、シャーロックの身の丈はかなり高く感じた。そんな大きな男が、気まずそうに立っているのである。
「そうだね。今のところ……」わたしは目を泳がせながら答えた。
 シャーロックは仕方なく笑って「そうか」と言った。
「アイリスが夕飯だと呼んでいるよ。お腹も空いたことだし、食べに行こう」
 はい、と返事をしてわたしは椅子から腰を上げた。長く座っていたその椅子から立ち上がるとき、とても久々にその椅子から体を離したような、そんな気がした。リビングへ足を運ぶと、昨日とは打って変わった食欲をそそる香りがそこら中に広がっていた。シャーロックの様子は、昨日のことをもう気にしていないような様子である。今朝方あんなに悲しそうであったのに、今ではそんな感じがあまりしなかった。



 翌朝、わたしが起床しリビングへ足を運ぶと、そこには誰も居なかった。シャーロックはもう出掛けたらしいことが、机の上の走り書きのメモに残されていた。
 わたしは網の上にトーストを置き、隣のフライパンで卵とベーコンを焼いて、焼目のついたトーストの上に乗せた。ケトルで湯を沸かし、紅茶とミルクをカップに入れ、机の上に置いた。そうこうしているうちにアイリスが起きだしてきて、眠そうにふわふわあくびをしながら机についた。
「アイリス、良かったらそれ、食べちゃっていいよ」
 わたしは自分用にと思っていたトーストをアイリスにあげた。アイリスは閉じっぱなしだった目を開けて嬉しそうにそのトーストを食べ始めてくれたので、わたしは自分の分をまた作ることにした。
「ミルクティーも?」
「もちろん」
「やった!」
 アイリスは大喜びで砂糖を入れ、口元でやけどしないようそうっとカップを傾けた。わたしはものの二、三分で自分のを作り終えると、アイリスの隣に腰掛け、新しいティー・カップに紅茶を注いでミルクを入れた。アイリスは脇にあった新聞を手に取り、しげしげと眺めている。わたしでさえ新聞は一面を読めば良い方なのに、アイリスはよく新聞を読むのだった。因みに、シャーロックは今の首相を知らないくらいには新聞を読まない。
「そういえばさ」アイリスは新聞を読みながら口を開いた。「なまえちゃん、今日の夜は忙しいの?」
 わたしはそのときはじめて、アイリスに研究会のことを言っていなかった、ということを理解した。アイリスはシャーロックから聞いたのだろう。よく考えると、今日の夕飯はどうするんだ、という話をしておかなければいけなかった。今日は、それぞれ適当に済ませるしかないだろう。しかし、そのことを持ち出してみると、アイリスは「えっと……? それは、まあ確かにそうだよね。了解」と、納得しながらも首を傾げてしまう。
「あたしが気になってたのはね、全然別のことで、ホームズくんが昨日の夜、オーケストラに行くんだってあたしに教えてくれたの。結構並んでチケット取ったんだって。そこまでして誰と行くのって聞いたら、できればなまえと行きたいが、忙しくって行けるかわからないって言ってて。でね、もう自分からは誘えないとかなんとか言ってて、よくわかんないけどじゃあ明日あたしから言っておくよって約束したの。それでもホームズくん、微妙な顔したままだったけどね」
 わたしはトーストをかじるのを止めた。言葉を失い黙ったままでいると、アイリスは「十八時、劇場の前だって。ホームズくんったら、ほんと不器用」と呆れたように言った。

 だいじな発表会だというのに、わたしの心はシャーロックへの申し訳なさで満ち満ちていた。それでも、発表会は特に波乱などもなく、無事に終わった。十八時、劇場の前。どこで抜けようか、そもそも抜けられる雰囲気なのか、わたしは不安を募らせる。オーケストラを聴きに行きたいのでは、ない。シャーロックの気持ちを、ただふいにしたくないだけだった。
 考えあぐねていると、仲間の一人が「すまない、ちょっと今日用事があって」と言い出した。わたしはすかさず、それに乗じて手を挙げた。リーダーは「まあ金曜日だしな……今日はもうお開きにしよう」と解散命令を出した。わたしは鞄を引っ掴み、走って大学の廊下、玄関、ロータリーを抜けた。時刻は十七時三十分を指していた。劇場へは、走れば間に合わないこともない。
 走りに走って、息切れ切れに劇場前へたどり着くと、噴水の縁に腰掛けるようにしてシャーロックの姿が見えた。パイプを口に加え、項垂れるように懐中時計を見ている。わたしはコツコツと足音を立ててシャーロックの目の前へ行った。シャーロックは顔を上げて、今までに見たことがないほど目を丸くした。
「まだ席は空いている……?」
 わたしは整わない息をそのままに話し掛けた。
「勿論、きみを待っていたんだよ」
 シャーロックはチケットの片割れをわたしに手渡す。シャキッと立ち上がり、いつもの格好つけのシャーロックに、いとも簡単に戻ってしまった。
 演奏を聴き終わったら飲みに行こう。シャーロックは言った。ラム・チョップと赤ワインと、カルボナーラも捨てがたい。ぺらぺらと話しだすシャーロックの言葉に、わたしはただ安堵して肯いた。