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彼女はとある事件をきっかけに持家を失い、ホームズらと同居を始めることになる。不器用なホームズと控えめな彼女の近いようで遠い距離のもどかしい恋愛。本編全10篇(1クリア推奨) シャーロック・ホームズ / 大逆転裁判 | 名前変換 | 103min | 初出20150913-20160427

Euphuism


1 ルージュと真鍮

 わたしとアイリスの間には、ささやかな秘密があった。それは、シャーロックの古い書棚の中に、青い宝石箱があるのを知っていること。宝石箱を見つけるに至ったのは、ロンドンの短い夏が終わったうんざりするような曇り空の日、シャーロックから届いた一つの電報がきっかけだった。
「暫く篭る。研究室に。古い書棚にある本を持ってきてほしい。D15という背表紙だ。なまえよろしく。悪いが」
 校正もなにもない、簡素なのに相手を一瞬困惑で押し黙らせるような、そんな電信だった。それを受け取ったのはアイリスだったが、アイリスも何の校正も加えずわたしに一語一句違えず伝え、「意味わかんないけど、多分あれのことだと思うの」と彼の古い書棚を指差した。
 しぶしぶ彼の物が散乱している空間に不慣れに侵入をして、わたしは戸棚の扉をそっと開いた。木の軋むような音と共に、埃臭い空気が鼻をつく。少しの時間をおいて、後ろに引っ付いていたアイリスが小さなくしゃみをする。わたしは目を細めながら背表紙を順に指でなぞっていくが、その作業を途中青い箱が邪魔をした。
「ちょっと持ってて」わたしはやや重みのあるその青い箱を、恭しく両手で持ってアイリスに渡した。
 青い箱をどかしてしまうと、すぐに目的の本が顔を出した。わたしは慎重にその本を引き抜いて、表紙の埃を軽く払う。今度は、アイリスのくしゃみは聞こえなかった。
「ねえ、なまえちゃん」アイリスは可愛らしい声でわたしに呼び掛ける。「これ、見てみて」
 わたしが振り返ったときには、アイリスは青い箱を開けてしまっていた。そして、その箱の中身に釘付けになっていた。勝手に開けちゃった、と気まずく思いながらも、わたしはアイリスと共に箱の中を覗き見る。開けさえしなければ無視するつもりだったのに、ひとたび開けてしまうと、割れたお皿が戻らないように、どうしても戻れなくなってしまうものである。
 箱の中は黒地の布が敷いてあって、その上に真紅の宝石が埋め込まれた大ぶりの首飾りが、あまりにも無造作に置いてあった。ランプの光をきらりと跳ね返す宝石の輝きは、間違いなくわたしたち二人の瞳を揺らした。
「ホームズくん、こんな素敵なものを隠していたんだね」アイリスはなおも首飾りに釘付けである。
「アイリス、このこと、シャーロックには内緒だよ」
「わかってるよ、なまえちゃん!」
 アイリスは小さな手でそっと蓋を閉じると、そのままわたしの手に箱を戻した。わたしは元あった場所に箱を置き、シャーロックご要望の書物を鞄に詰め込み、大学の研究室へと向かった。



 シャーロックはわたしの来訪を知ると、かなりの上機嫌で出迎え、今研究している内容を高らかに語ったのち、わたしに紅茶を淹れてくれた。書物を手渡す際に匂った焦げ臭く危険を感じさせる匂いに関して、わたしは努めて知らないふりをした。
「なまえも新学期が始まったのだろう? 文学部だったか、研究はどうだい」
「ストランド・マガジンのおかげでみんな研究どころじゃないよ」
「ははは! それは何よりじゃないか!」
 シャーロック・ホームズは皮肉を知らないのかしら、とわたしは思った。
 文学部の学部生の間では、ストランド・マガジンが他の学生たちに比べ圧倒的に流行していた。研究資料を読むよりも圧倒的に、だ。研究が進まない教え子たちを抱え頭を悩ませる教授でさえも、あの雑誌の魅力には勝てずにいる。
 ストランド・マガジンには、「シャーロック・ホームズの冒険」が殆ど毎号掲載されている。わたしの目の前で優雅に紅茶を啜っているこの男こそ「アノ」シャーロック・ホームズご本人であり、ストランド・マガジンで大好評連載中のミステリー小説の主人公なのである。とはいうものの、執筆しているのは彼ではなく、弱冠十歳のアイリスなのだが、それは世間には知らしめられていない。ちなみに、わたしも執筆業の手伝いをしているので、多少の原稿料を戴いている。だからこそ、ストランド・マガジンの売れ行きがよいのは喜ばしいことなのだが。
「なまえも今度犯行現場に連れて行ってやろう」
「いや、その」
 わたしは、こんなシャーロックにいささか辟易しているのである。

 わたしが下宿に戻ると、アイリスは上の空の様子でわたしにおかえりを言った。「ただいま」とわたしが言うと、ポン、と景気の良い音をたてアイリスの手中にある試験官から淡い黄色の煙が立ち上る。こちらもこちらで危なげな実験が行われているようで、親子でもないのにこんなに似るものかしら、と首をかしげざるを得ない。
「ねえ、ホームズくんに箱のこと聞かれた?」アイリスはゴーグルを押し上げ尋ねた。「あたしとなまえちゃんの秘密なの」
「聞かれてないし、言ってないよ」
 わたしは上着を椅子に掛けて答えた。言ってないどころか、たった今思い出したほどなのだけれど、アイリスにとってあの青い箱は忘れられない大事件となっているようであり、女子同士の秘密という点にも可愛らしいこだわりがあるようなのであった。
 そんなわけで、満足げに笑ったアイリスは、晩ご飯を作ろうと言ってキッチンの陰に消えていった。手持ち無沙汰になったわたしは、箒と雑巾を片手に部屋の一角に吹き溜まった埃を熱心に掬いとった。



 わたしがアイリスとシャーロックと奇妙な共同生活を始めたのは、とある事件がきっかけだった。そもそものシャーロックとの出会いは大学で、わたしは文学部の学部生、シャーロックは気紛れに研究室に篭る既卒者であり探偵であり、わたしにとっては奇人だった。御歳三十四歳である。
 わたしは事件の当事者であった。その事件により身寄りを失ったわたしは、身寄りの持ち家の正当な相続人ではなかったために家を追い出されることとなる。事件に顔見知りとして関与し、そしてその事情を知ったシャーロックは、「なんなら僕の下宿に来ないかい」と提案を持ち出したのだった。わたしは一時的にとその申し出を有り難く頂戴し、ベーカー街の彼の下宿にお邪魔をしたのだが、そのときに出会ったのがアイリスであった。
 ただし、わたしもこのようにずっと世話になろうとは思っていなかったし、シャーロックにしたってずっと居候されるとも考えていないだろう、とこの頃のわたしは思っていた。というより、それは考えるよりも先に行き着く当たり前の結論でもあった。そのためわたしはきちんと出て行き独り立ちをするために、すぐさま不動産屋に相談をしに行き、紹介により大学の近くの部屋を確保してもらったのだった。しかし、結局ベーカー街の下宿を去ることができなかった。なぜなら、あとは敷金を支払い契約書にサインするだけだというところで、あろうことかその契約がわたしの預かり知らぬところで白紙に戻されていたからである。
 不動産屋の責任者に問い詰めると、だってシャーロック・ホームズさんが貴女の代理だと言って来店し契約書を破って行ったんですよ、と言う。
「いやあ、きみがうちの机で熱心に計算をしているところを見てしまってね。数字の桁数や筆算の様子から、まあ、家賃の計算でもしているのだろうと思ったわけでね。ところで、アイリスはきみにとてもよく懐いているみたいだね。今日も明日もきみのご飯が食べたいとか、食べたくないとか」
 わたしは下宿に戻ってシャーロックを問い詰めた。問い詰めざるを得なかった。しかし、適当にはぐらかされ、結局わたしは行き場をなくし、その場に留まるほかなかった。わたしのご飯食べたいの食べたくないのどっちなの、と思ったけれど、小さな女の子には罪の無いことだったし、シャーロックの意図を汲み取りきることも難しかった。
 情緒的に捉えるならば、わたしを引き止めている、ということなのだろうが、はぐらかされている以上聞いてはいけないことのように感じた。

 書斎にて何かに没頭している彼の背中を見た。時折大きすぎる独り言を言うたびわたしは驚くのだけど、アイリスは微動だにしない。そしてそれは近頃のわたしにも言えることで、もはや今の生活が当たり前のようになっていき、わたしはあれから三度程、下宿を出るために不動産屋へ通ったが尽く契約書を破られてしまうため、終いに不動産屋のほうから控えてもらうよう軽い出入り禁止を言い渡されてしまう始末だったので、今更出て行く気持ちにもならなくなっていた。



 シャーロックは何日間とも分からなくなるほど長い外出を終え下宿へ戻ってきた。研究が終わったのか、終わらなく諦めたのか、失敗だったのかなんなのか、全くわからなかったけれど、夕ご飯を食べたのち語らうこともなくすぐに就寝してしまった。それからというもののベッドのみならずソファや床や机に突っ伏すなど至る所で無気力に眠りこけており、いい加減アイリスもわたしも呆れ、放っておくそれ以外に何かしてやろうとも思わなかった。
 わたしが大学の講義を終え帰宅すると、そのときのシャーロックにしては珍しくきちんとソファに腰掛けているのが目に入り、なんだか不思議な光景だった。アイリスは学校に行っていて不在だった。シャーロックは幾分落ち着いた様子でわたしに挨拶をすると、紅茶を淹れてくれたのだった。
「今が永遠に続けばいい」シャーロックが呟いた。
 え、とわたしは反射的に返事をしてしまう。
「と、思ってしまうことはないかい」
 彼はいつもの余裕ある表情で言った。わたしは思い当たる節を一個一個思い浮かべてみたが、彼の意図する明確なところは分からなかった。
「きみもアイリスのように執筆をするのが向いていると思うよ。そうしたら永遠がずっと続けばいいと思わせるような話を書けばいい……そのときは僕も読者になろう」
「文学なんて普段読まないのに?」
「読まないからこそ、きみの話は読む価値がある」
 シャーロックは穏やかに笑った。研究や事件に没頭しているときの彼はあんなにも高揚していて騒がしいはずなのに、どちらが本当かわからないほどに、今の彼はしっくりと優しげな眼をしていた。
「……今が永遠に続けば、きみは僕が何を言わずともそこにいてくれる。そうだろう?」
「永遠に続けばね」
 シャーロックはおもむろに、四角いものをソファの影から持ち出した。見覚えのあるきれいな群青……あの、青い箱だ。わたしは、明らかに目が泳いでしまう。
「なまえはこの中身を知っている。そしてそれは半ば僕のせいである。なぜなら、その箱に触れなければあの本を僕へ持ってこれなかったからだ」
「中身は? 触れたから中身を知ってるっていうのは強引じゃないかな」
「アイリスの様子が最近おかしいんだ。見たに違いないと思っていたのだがね」
 シャーロックは躊躇いもなく青い箱の蓋を開けた。そこには、あの日と変わらない真紅の宝石があった。シャーロックはそれを手にとって、ランプの光を透かして見せた。あれほど大ぶりな宝石は、シャーロックの手の内では驚くほど小さく見え、しかしながら煌々とより一層輝いているように見えた。
「これ、なまえが持っていてくれないか」
「そんな、高価なもの」
「いいんだ」
 シャーロックはわたしの首にそれを掛けた。
「似合う。やっぱり、女性が持っていなくちゃあ、ね」
 …………。
 やっぱり、シャーロックはどこかおかしい。居候の娘にこんな高価なものを預けるだなんて、大物は違うという言葉だけで片付けられるのだろうか? わたしは、決してそうは思わない。けれど、考えても考えても、答えらしいものはひとつも出てこないのだった。
 なんにせよ、これをもってわたしとアイリスの秘密はすっかり失せてしまったし、わたしはなかなか外せない手鎖のようなものを課されてしまった心持ちだった。重たい碇に繋がれて、身動きを封じられるような思いだ。永遠だったらどうしよう。どうか永遠じゃありませんように……。