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「#エロ」のBL小説を読む
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初出20160831-20170609

ブラン・ニュー・デイ


4 Fourside

 ぼくとなまえはスリークを後にして、砂漠へと足を伸ばしていた。渋滞は意外にも早く途切れを見せ、真っ直ぐな道をたまに車が通っては熱風が吹いた。ぼくたちは車道を歩くわけにもいかないので、車道わきの道なき道を行く。じりじりとした熱が、空から降り注いで、砂に跳ね返って、ぼくらを四方八方から包囲した。逃げ場のない猛暑に、ぼくとなまえはへろへろになる。
 砂漠には、夏などという概念はなかった。イーグル・ランドは夏真っ盛りだけれど、この砂漠は夏だろうが冬だろうが関係なく、訪れる人間に対して平等に熱風を浴びせ続ける。ぼくは、以前もここを徒歩で横断した。そして、日射病を患ったあとに、熱射病になった。ぬれタオルを買って首元に当てるけど、あまり意味がなかったように思う。ジェフなんかは何かの布をぐるぐるに頭に巻きつけていて、暑くないのと聞くと、熱を反射しているから幾分かマシだと言った。とはいえ、真似したいと思うスタイルではなかったから、ぼくは帽子でなんとか耐える。ポーラは髪型をアップ・スタイルにして、黒い傘を差していた。効果があるのかは謎だった。

 しばらく歩いていると、ぼくたちの目の前にアイスクリーム・ワゴンが現れる。そこのお姉さんは金色の髪を肩ではねらせ、青い瞳に濃いマスカラをのせて、赤いルージュの笑みを口元に浮かべていた。なにかのイラストのようだった。
「はあい、ぼうやたち。アイスクリームはいかが?」
 ぼくたちは顔を見合わせた。深く頷いて、ぼくはリュックから財布を出す。ジャラジャラと小銭を渡し、アイスを二つ購入した。三段重ねのアイス、5ドル。チョコミントとバニラとストロベリーが、すでに陽射しによる熱で溶けて混ざり合っている。光に当たるたび、キラキラと氷の破片が輝いていた。
「ミート・マイ・アイスクリーム」
 なまえが呟いた。何それと訊くと、昔読んだ絵本だと言う。
 本という単語を聞いて、ぼくは宿題のことを思い出してしまった。ハッピーハッピー村を最後に、全く進んでいない。でも、なんだかもうどうでもいいという気がした。ラクダみたいな睫毛のお姉さんに訊く気にもなれないし、第一、あれは意味のない意地悪な宿題だと思うのだ。
 …………。
 良心の呵責があるぼくは、一応お姉さんに訊いてみた。
「え? 蝶々? それはもう、蝶々を売ったお金でアイスが欲しかったからよお!」
 ジャラジャラ。お金を数えながら、お姉さんは言った。砂とお金と同じ色の金髪を、太陽のようにまぶしく燃え上がらせながら。

「この先の方で、バッファローの大群が道路を横断してるらしい。これじゃ進めないよなぁ」
「おいら、後ろのやつらにゃ悪いけど、クルマほっぽりだして歩いてっちゃおうかって思ってるわけよ。イライラするぜー!」
「渋滞のケツへヨーコソ!」

 ぼくたちはまた歩き出した。長く真っ直ぐな道だった。真っ直ぐな道ほど人を疲れさせるものはない、と以前誰かが言っていたけれど、それは本当だと思った。どこまでも遠く伸びていて、陽炎でゆらゆら、揺らいでいる。ゆらゆら、ゆらゆら。目の前が真っ白になりそうである。
 一方、なまえはなんでもないように微笑んでいた。ぼくはその彼女の様子が逆におかしいと思って、遠慮もせず彼女のおでこに手をあてる。前髪を掻き分け触れたそれは、驚くほど冷んやりとしていて、ぼくは背筋に氷を滑らされたような感覚になった。
「わたし、病気を治してから、暑い場所が平気になったの」
 なまえは穏やかに言った。
「本当は苦手だったんだけど、立ち向かう内に丈夫になって、今では何より得意なのよ」
 ぼくは目の前が揺らぎで止まらなくなった。彼女の笑顔が、不気味に揺れる。ゆらりゆらゆら、熱風がまた吹いた。いくら吹いたところで、体感温度はちっとも下がらなかった。
 なまえはぼくに顔を近づける。ぼくは焦った。キスされるのではないかと思ったのだ。しかし彼女は、ぼくにそのままおでこをくっつけるだけだった。帽子のつばを上に引き上げて、こつん、と小気味いい音が鳴る。
 ぼくの熱はそれですっかり引いた。
 その冷ややかさは、どこか少し懐かしい気がした。海のような、氷のような……例えばそう、ポーラが使っていたPKフリーズとか……ぼくはそこまで考え、まさか、と驚嘆する。まさか、彼女も超能力が使えてしまうのではないか、と。でも、本当のところは何も判らない。女の子はみんな魔法が使えると言われても、きっとぼくは信じてしまうと思う。なぜなら、女の子はいつだって、ぼくの知らないうちに遠くまでいってしまう不思議な生き物なんだ。

(このドンドコ砂漠でコンタクトレンズを落としました。おばあさんの形見で、とても大切にしていたものなので、見つけて届けてくださったらお礼をします。フォーサイド、パン屋の2階ペテネラ・ジョバンニ)

「海にシーモンキーがいるように……砂漠にはデザートモンキーがいるわけだ。デザートって言っても食後のおかしじゃないぞ。砂漠って意味だ。
 砂漠で生き物に会うとちょいとほっとするよな。お互いに、な」

「クッククック(ようこそここへ)キッキキッキ(そこの穴の下はぼくらの楽園)クックキッキ……(偉大でやさしいタライ・ジャブ様が……)キッキクック……(何でも知ってるタライ・ジャブ様が……)キッククッキ(ぼくらのために作ってくれた地下室なのです)」
「キャッキャキャ、キャッキャッ(タライ・ジャブ様はただいま断食と)キャキャキャキャキャ(無言の行と禁酒禁煙を)キャピキャピ(なさっておられる。邪魔をなさいませんように)」

 ぼくたちはひたすら歩く。無言で歩く。なまえは辛抱強く付いてきてくれる。時々振り返ると、彼女はリボンを揺らしてやわらかく笑いかけてくれた。
 歩いていると、ぼくはこの景色に見覚えがあることに気づく。砂漠の景色なんてどこをとっても同じに思えるが、ここはおそらく、猿の穴の近くだと思う。倒れるまでテレポートの練習をした日々が、自然と思い出されるのだ。何度やってもうまくいかないぼくに、ジェフも干からびそうになりながらついてきてくれた。走って、失敗して、また走って、また失敗する。繰り返しだ。ついに成功したときは、あまりに嬉しすぎたので、ぼくもジェフも疲労を忘れて駆け回って喜んだ。そういう時が、あったのだ。ぼくが一世一代の旅をしている、ちょうど真ん中あたりのことだ。
 テレポートを教えてくれたのは、タライ・ジャブの弟子の猿だった。その猿はホイキッキ、ホイキッキとよく言ったので、ぼくとジェフはそいつのことを陰ながらホイキッキと呼んでいた。呼び名がつくくらい、そのテレポートの修行は長いこと行われたのだ。ぼくの習得が遅かっただけなのだが……。
 タライ・ジャブは、すごかった。どうすごいかって、言葉ではうまく説明ができないのだが、世界の行く末や己の無力さなどもすべてを知った上で、穏やかに堂々と構えているところが、ぼくにとっては軽いショックだった。彼の選ぶことばは、ひとつひとつが粒立っていて、ぼくはそれを今でも一語一句違えずに言うことができる。意味もさながら、流れるように紡ぎ出されたことばは、覚えやすく心地がよかったのである。

「宇宙の真理は、粒のように波のように宇宙を駆け巡り、人という宇宙に語りかけているものじゃ。あなた方がここに来ること、私がここで待つこと……すべて、定められた真理。ネス、ポーラ、ジェフ、そしてプー。四つの力が出会うとき、ねじれようとしている宇宙は……安らかな呼吸を取り戻す。わかるかね。わからんでもよい。あなた方の好きなように歩んでゆけば、それでよい。宝箱を開けて、自由に宝を持っていきなさい。もしかすると、これを探しにきたのかな。……うっかり者が穴に落としていきよったが」

 ぐるめとうふマシンは、メイドのエツコさんに渡して事無きを得た。

 ぼくとなまえの目の前に、海越しのフォーサイドの街が現れた。少し先にはトンネルがある。海を横断する巨大な陸橋があるのだ。ここまでくればあと少し。潮風が吹いて、段々と周囲の熱も弱まるようだった。
 ぼくたちはそのとき、テレパシーのような不思議な力で心と心が通い合っていたのかもしれない。ふたり同時にはしゃいで、「わあっ」という無邪気な歓声とともに、目の前の大都会に向かって走り出した。ぼくたちは内側から溢れ出る力に突き動かされ、無我夢中に駆けた。
 靴が地面の熱を吸い込んで、全部エネルギーに変えているみたいだ!
 太陽の熱は容赦ない。それでも、さわやかな潮風が、ぼくたちの足を浚うようにして流れ、癒してくれる。止まらない。止められない、いつまでも。ハイになって走るぼくたちに、こわいものは何一つない。



 ぼくはあのメロディーのことが未だに好きになれない。あのメロディーというのは、ぼくとぼくの大事な友だちとで命をかけて集めた音の欠片のことだ。ぼくだけの場所は、ぼくしか知らない懐かしい音をぼくの心に語りかけるように注ぎ、ぼくの魂の奥にある力を揺り起こしてくれる……あのきれいな明け方の時、ブンブーンはそう言って息を引き取った。ぼくはそのとき、心が空っぽになった。何も考えられなくなった。ゲームのプログラムの最果てに辿り着いたみたいに、その先は誰も知らないし誰も行ってはいけない。落ちたら最後、デバッグルームに落ちて一生そこから出られなくなる。あのメロディーは、まさにそんなぎりぎりのバランスでぼくに力を与え続けていた。供給量に対してぼくの器量が少しでもわるかったら、受け止めきれなかっただろう。だからぼくは一度だけ、トリップしてしまったのだ。熱い溶岩が滴るファイアスプリングで、どこか遠い記憶の片隅に。

 ぼくがあのメロディーを好きになれない理由は、もう一つある。石が鳴らす音の階調があまり正確ではないように思われたのだ。ぼくは絶対音感があるわけではないが、それは何故か耳に心地いい音楽ではなかった。人を少し不安にさせる音色だった、ように思う。なんとも思わない人もいるだろう。もしくは、ぼく以上に嫌悪を覚える人もいると思う。メロディのほうもぎりぎりのバランスで形を保っているように思われた。もちろんこれは良し悪しの話ではない。好みの話だ。

 つまり、ぼくの旅は非常にアンバランスなものだった。そういうものを無理やり進めると、どこかに負荷がかかる。負荷がかかった場所は、いつか折れてしまう。そういう場所にぼくは居た。事実、誕生日を終えてすぐ、ぼくは嘔吐が止まらなくなる辛い時期があった。病院に通って薬をもらい、律儀に服用を続けた結果体は回復した。気分が優れない日は続いた。
 また、眠れない日々があった。これはぼくが憂鬱に負けたからではない。ぼくは旅の過程で、あまりにも体力をつけすぎてしまったのである。持て余された力は体の中で消化されないまま残る。すると、不思議と疲れないのだ。疲れないから、眠れない。眠れないから、気持ちが塞いでいく。悪循環だ。
 でも、ここで能力を放出するわけにはいかなかった。体力を削る以外にはまず無意味だし、危ない。それに、力を使い続けていけばまた力がついてしまう。インフレーションしていくだけだ。そういうことを繰り返していったら、一体ぼくはどうなってしまうのだろう? 自我が崩壊して、あくまのマシンがないと生きていけない体になってしまうのではないか? そしてそれは、その存在は、銀河宇宙最大の破壊主となってしまうのではないだろうか。ぼくは漠然とした不安を抱いた。

「わしはカブト虫、ではない! 10年後の未来からやってきたもの、じゃ! 未来はもうさんさんたるありさま……じゃ! ギーグという銀河宇宙最大の破壊主が、何もかもを地獄の暗闇にたたきこんでしまったのじゃ!」

 だからぼくは能力を使わないことを自分に誓った。力を抑えつけることは、溢れ出る好奇心や探究心を抑えつけるのと同じことだ。つまり容易ではなかった。そしてそのことを、大事な友人たちには言わなかった。ポーラは多くの女の子がそうであるように器用だから能力の扱いには困っていないし、プーは修行の成果である高い精神力でもってうまくコントロールしている。ジェフはPSIがないが、その代わり持って生まれたとても素晴らしい才能を惜しみなく使うことができる。ぼくは、ぼくの悩みを判ってくれる人にだけ打ち明けたかったのだ。
 そんなわけでぼくは手紙の返事をしなかった。まあ、ポーラが怒るのも無理はない。

 夕暮れ時、ぼくとなまえはフォーサイドに到着した。青々とした芝生を踏みしめた途端薫った瑞々しい風に、ぼくたちは息を呑む。イーグルランド屈指の大都会。夕闇包まれ始めた空と陰る緑の芝生と、灰色の背の高いビル。ぼくたちは顔を見合わせた。なまえはわくわくを隠しきれない様子で、その瞳に大都会の景色を映している。ぼくも、多分同じような感じでなまえに見えていると思う。
 ぼくたちは真っ直ぐ歩んだ。目に入ってきた魅力的な建物や人々に向かって、まるでその都会の一部になったみたいに遠慮をしなかった。ぼくのいつかの旅路でもそうだったように、すれ違ってゆく人々は実に様々だ。目を合わせて「ハロー」と笑う人もいれば、「田舎の子どもが何の用だ」と睨む人もいる。何の恨みがあるのか分からない、初対面のぼくらに対してだ。なまえはやはり、なんだかんだみんな優しい田舎のオネットとは違う空気を怖がった。怖いと口にすることはなかったが、彼女の素ぶりは恐怖を感じた人のそれそのものだった。彼女の手を、ぼくは恥を捨て強く握った。当たり前のことだ。世界はあらゆる人々で構成されている。そういうものだ。そしてそれをそばに居た女の子が怖がるなら、ぼくは守ってあげないといけないんだ。ぼくは世界の縮図みたいな人の波を縫って、笑って、時には気丈に振る舞った。なまえはきょとんとしながら、ぼくの通った道を駆け足で追いかけた。

「ハロー、ベビーフェイス。モノトリービルに何のご用?」
「モノトリーがオーナーになって、このデパートは変なことが多くなったねぇ」
「停電のあいだ、何してました? おれ、怖くてずっとここにしゃがんでましたよ」
「やぁねぇ、こんなところで死んでるなんて」
「おお、いやだいやだ。あんな目に会いたくないね。自分じゃなくてよかったよ」
「まったく都会はぶっそうだよね」

 ぼくたちはホテルの部屋を確保したあと、また外へ繰り出した。街は夜の賑わいを見せ始めていて、大人ばかりだ。同い年くらいの子どもは、ある子はスケボーを片手に、ある子はコーラを飲みながら、またある子は至って真面目に歩き、通りから去っていった。子どもは、家に帰る時間だ。
 ぼくは、フォーサイドに来たら行きたかったところがあった。トポロ劇場が運営しているクラブだ。冒険しているときは、とてもじゃないけど寄る余裕がなかった。この余裕というのは時間的、精神的余裕という意味合いではない。地球の危機が迫っている中で遊んでいる場合ではないだろうという、制約的な余裕がなかったのだ。でも、ぼくはこのクラブには何か感じていた。それは、扉の向こう側から漏れ聴こえた音楽が「オール・ザット・アイ・ニーディド・ワズ・ユー」だったからだろう。
「ねえ、なまえ、特に行きたいところなければ、クラブでも行かない?」
「クラブ? あの、ワルがたくさんいる……?」
「オネットの東ダウンタウンではね。ぼくが行きたいところはトポロ劇場併設のところで、入ったことはないけど子どもでも入場できるくらいのカジュアルなところらしいんだ」
 ぼくの説明になまえは一度だけ頷いて、そのあと深く黙り込んだ。ぼくは窓の外の夕焼けを見ながら、街をそっと見下ろした。豊かな往来が様々な方向へひっきりなしに続いている。昨日までもそうだったし、きっと明日もそうなのだろう。最悪の存在に脅かされることがない限り、この流れは止めどなく続くのだ。そして一度だけ訪れたその危機をくい止めたのは、他ならぬ自分だった。ぼくは今まで自分のやったことに言い表せない虚空を感じていたが、それを、突然、誇りに思った。
「ねえ、ネス、似合うかな?」
 不意に投げかけられた問いに振り返ると、ぼくは驚かざるを得なくなった。なまえはその艶のある髪を結んで、シニヨンヘアに変えていた。ぼくは呆気にとられ言葉を飲み込んだ。するとなまえは不安そうに「やっぱりちょっと変かな?」と言う。ぼくは慌てて否定した。
「クラブに出掛けるんだよね?」なまえは言った。「だから、ちょっと大人っぽくしたいと思って」
 なるほど、なまえの意図はよくわかった。「そしたら、ぼくも帽子は取って行くよ。ジャケットも着ていく」温度調節のために持ってきたジャケットをこういう理由で使うとは思わなかった。フォーサイドの夜は潮風が強いため、夏でも少し寒いのだ。
 ぼくは、彼女から目を離せないでいた。彼女も、はにかみながらぼくを見つめていた。ぼくは心を落ち着かせて「とても素敵だよ。綺麗だ」と言った。彼女は目を一瞬丸くして、そのあと太陽みたいに笑った。
 そんな風にして、ぼくたちはホテルを後にした。

「この穴掘りをずうっと見てるんだけど……なんか出るのかしらねぇ」
「仕事がたまってるんだけど、ここが気がかりで動けないんだよ。困ったもんだ」
「テレビ中継でもしてくれたら寝ころんで見てられるのにね」

「ダイヤが出てもねぇ……しょうがないんだよねぇ……」

オー、ベイビーベイビーベイビー!
おれをそんなに泣かせないでくれよん。
キュートでセクシーでノスタルジックな君に
男達はもうイチコロさ!
ベイビー、おれのために歌って!
ベイビー、ビー、ビー……ビーナス! ビーナス!
歌って殺して!! 抱きしめたい! ビーナス!!
!!!!!!!!!!

 トポロ劇場に着いた頃にはすでに陽は落ちていて、夜の活気と昼間の熱が複雑に混ざり合いライトがそれを照らしていた。たくさんの声と笑顔があたりに散りばめられている。それこそ、星の数を思わせるほどたくさんだ。ジャケットに半ズボンのぼくとブルーのリボンでシニヨンをくくったなまえは、受付でクラブのチケットを買った。ふくよかな体型の髭のおじさんは、21時までには出るようにとぼくたちに強く言った。ぼくらがはっきりとOKを言うと、次は「楽しんできな」と粋に笑った。
 ゲート脇の係員にチケットをもぎってもらい、ぼくたちは中に入った。中は暗すぎず明るすぎず、不思議な感じだった。いろんな光が飛び交っているように見るのに、ギラギラとした感じはほとんどない。意外と広くて、テーブル席で談笑している人もいれば踊っている人もいる。
 なまえはぼくの手を引っ張って、後れ毛を揺らしぼくの目の前に弾むようにして現れた。
「ねえ! 踊ろう! わたしここすごく好き!」
 気後れしてしまうぼくを連れ、彼女は音と人の海の中へ飛び込んだ。ダンスフロアの真ん中に辿り着いて、ぼくとなまえはお互いを遠心力で引き寄せあいながら回った。そして手を離しては繋ぎ、くるっと回っては跳ね、音楽にあわせて機嫌よく足音を鳴らした。まわりの年上の人々は、そんなぼくたちのことを好意的に見てくれていた。きっとここのダンスフロアは余裕のある人たちで構成されているんだ。ぼくは舞い上がる頭の片隅で冷静にそんなことを思った。
 しばらくそうしてはしゃいでいた。ぼくとなまえは次第に息切れをして、それでも冷めやらない気持ちを爆発させるように、大笑いしながらテラスへと足を動かしていた。ホットになっていて、体をすこし冷やしたかったのだと思う。なにがそんなにぼくを笑わせたのか、今では本当に思い出すことができない。あのダンスフロアは未熟なぼくたちにとって刺激が大きすぎたのかもしれない。または、ダンスフロアじゃなくて、隣で踊っている女の子が可愛すぎたのかもしれない。
 ぼくは喉を潤すためにカウンターまで飲み物を取りに行くことにした。なまえはテラスで待たせておいて、彼女の分のチケットも持ってカウンターへ向かった。チケットを渡し、オレンジジュースとスタンプの押されたチケットを出される。ぼくは両手でそれらを器用に持ってテラスへ戻った。
 すっかり暗くなった空を見上げて、ぼくたちはすっかりクールダウンしていた。グラスの中の氷が涼しげな音を鳴らし、ゆっくりとだが確実に解けている。なまえも、解けゆく氷と同じくらいの速度と着実さで口を開いた。
「わたし、オネットから引っ越すと思うの」
 その言葉の後には、しばし静寂が訪れた。氷の音さえ鳴らなかった。ぼくは「お母さんについていくの?」と当てずっぽうに訊いた。彼女は一度だけ深く頷いた。
「わたし……どうしたらいいのか、わからないわ。気分は晴れているの。でも、この先のことは、何もわからない」
 ぼくたちの間に何トンでもありそうな重い空気が横たわった。ぼくは、その鬱屈とした雰囲気が堪らなく嫌だった。彼女のせいではない。彼女を取り巻く状況のせいでもない。こんなときに人ひとり救ってやれないのに、地球を救った気になっている自分はなんて気の利かないやつなんだろう、とぼく自身に腹が立ったのだ。……というのも、時間が経った自分にはわかるが当時の自分にわかるはずもなく、ぼくは持ち前の直感力だけで「リボンを引くんだ」と自分に命令した。
 リボンを引くんだ。いいから、うまくいくから。
 ぼくは左手で彼女のシニヨンヘアを保っていたブルーのリボンを引いた。彼女の髪はばらばらと崩れ、いつも通りの姿に戻った。
「きみは、このままのほうが……ありのままのほうがいいよ」ぼくは、自分が何を言っているのか殆どわかっていなかった。「素直でいるんだ。自分に嘘はつかないで。直感を信じていけば、きっと幸せのほうからきみを迎えにやってくる」
 彼女は「本当に?」と言った。泣かなかったし、不安な表情もなかった。強い意思で、ただぼくの言葉を心の中で反芻しただけだった。
 ぼくは、彼女のリボンを握りしめて頷いた。

ウェルカム、トゥザ、トンズララストライブ、イントポロ!
おしっこがちびっちゃようなノリノリのステージを……
入り口近くにいるチビスケ達のために!

 そのあとぼくたちは数えきれないほどステップを踏んで、笑って、歌って、踊り倒した。20時半にはそこを出て、軽くジャンクフードを食べて、ホテルに戻ってすぐ眠った。そして次の日の早朝、バスに乗って帰った。ぼくはオネットに着いて、嫌な顔をしながら止むを得ずテレポーテーションをしてフォーサイドに戻った。
「ネス! 来てくれると思ってたわ」
 合流するなりポーラはぼくを輪の中に引き入れた。ジェフはびっくりするほど背が高くなっていて、プーはもっと大人びていた。二人とも外見こそ変わっているが、中身はあのときとそれほど変わりなく、ぼくのことを快く受け入れてくれた。すごく懐かしい感じがする。そうだ、ぼくたちはかつて仲間だった。時間が経つにつれ薄れてしまった気持ちが蘇ってくるみたいだ。
「元気だったか?」
 ジェフに訊ねられる。「まあね」と返事すると、「まあ、お互い色々あるよな。せっかく会えたんだから、楽しくいこうぜ」と肩を二回叩かれた。
「随分連絡もしていなかったし、ネスの最近のこと、聞かせてくれよ」
 プーは、おとなのような落ち着きを持ってそう言った。ぼくはみんなと顔を見合わせて、照れ笑いなんかをしたあと、「ゆっくり話すよ」と言った。みんなはぼくのその言葉を聞き届けてから、くるりと背を向けて「どこかでご飯でも食べようか?」と店を探し始める。
 ぼくはみんなの逞しい背中を見つめながら、後ろを歩いた。みんな色々ある。そうかもしれない。だけどそうだったとして、それは乗り越える価値のある色々なのだろうか?
 あのダンスフロアのかがやきが今も頭から離れない。