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その明晰さが狡猾に変わる。変容していく臨也の中に残るやさしさに彼女は恋心を寄せてゆく。小学校から高校までの話
折原臨也 / デュラララ!! | 名前変換 | 61min | 初出20150511・改稿20170322

concentration

 臨也くんはわたしと違って頭がいい。
 それはわたしが小学三年にあがったころから親にずっと言われ続けた言葉である。
 わたしの家の二軒隣りに住む折原臨也くんのことを、わたしの両親は快く思っていた。臨也くんの両親は家を空けがちで、なにかとうちの親が面倒を見ることが多かったせいもあると思う。また、おそらく、両親は男の子が欲しかったのだろう。一人娘のわたしのことを嫌っているわけではなさそうだが、優秀で礼儀正しい臨也くんに理想の息子像を押し付けているような節が、たびたび散見された。
 自分の娘と比べとかく言うことを、世間一般の娘たちは嫌がるのかもしれない。でも、わたしは、臨也くんと比べてそう言われてしまうのは致し方ないくらいに思っていた。だって、臨也くん、だから。臨也くんの通知表はすべて最高評価という噂は、有名すぎるくらいに広まっていた。休み時間は図書室で読書をしているような優等生。もちろん学年一位だし、勉学芸術運動問わずいろんな賞状を何枚も貰っている。たくさん貰って慣れているからか、臨也くんは特に飾ることもせず丸めたまま奥にしまっているらしい。飾ったらいいのに、とうちの親は残念そうに言った。そのたびに、臨也くんは大人受けする謙遜で切り抜けていた。

 臨也くんは最初に話したその瞬間から、周りの誰よりも少しだけ大人びていた。親が仕事で家を空けるため、広い家屋の中で大抵一人で過ごしているみたいだった。双子の妹がいるけれど、幼い彼女らは別の親戚に預けられていると聞いたことがある。そういった事情ゆえに、これほどまで達観しているのかもしれない。そしてその事実はまた、わたしの親含め周囲の大人の胸を強く打った。冷静で論理だって話す姿は取っ付きにくさを感じさせるが、誰に対しても平等で差別をしなかった。軽いいじめみたいな問題が発生したときも、臨也くんはいじめられた子に手を差し伸べていた。そして不思議と、臨也くんは誰からもいじめられることはなかった。
 わたしと臨也くんは親の責任と羨望に巻き込まれて半ば家族同然のようにして育ったが、彼から漂うミステリアスな空気のせいで、わたしは仲良くなれる気がしなかったものだ。晩ご飯もしょっちゅう一緒に摂ったし、わたしが苦手なセロリもこっそり食べてくれていた。宿題も手伝ってくれたし、時には悩みだって聞いてくれた。でも、彼の達観した眼差しは、なぜだかいつもわたしの居心地を悪くさせたように思う。

 高学年になってから、年頃の男女によくあるように、ますます距離を置くようになった。たいした諍いも事件も起こらず、小学校時代は終了した。

 わたしたちは当たり前のように地元の中学校へ入った。入学式のとき、わたしと臨也くんは家の前で並んで写真を撮った。わたしは恥ずかしがったが臨也くんはいつも通りで、年頃の男の子のわりには冷静な振る舞いを見せていた。
 わたし自身は撮りたくないのに、母に命じられてわたしから臨也くんを家まで迎えに行った。臨也くん家のご両親は、臨也くんが成長すればするほど長いこと家を空けるようになっていた。母はそれを気遣って、最近は本当の息子のように写真を撮ったりご飯を作ったりしてやっていたし、何かの送り迎えもよくしてやっていた。そんな心情を十二歳のわたしがわかるはずもなく、写真には制服に着られている無愛想なわたしと、緩やかに笑う臨也くんが写っている。
 そのあと、わたしは小学校からの友だちと待ち合わせて入学式に向かった。臨也くんと行ったらいいのに、と親にも友だちにも言われたが、写真に一緒に写ることすら躊躇するのに一緒に登校できるわけがないと思った。大丈夫、臨也くんわたしよりしっかりしてるし、一人で学校くらい行けるよ。友だちにそう言ったら笑われた。中学校にあがったら、ますます臨也くんとは話さなくなった。でも、夕飯だけはよく一緒に食べた。そのようにして、とても身近であるのにどこか距離のあるわたしたちの構図は完成した。しかし、その構図もいずれ彼によって壊されてしまう。本当は、壊れるも何も、もとからその形だったのかもしれない。わたしたちには、切っても切れないような深い縁があったのだ。それは、本当に妙で、じつはたいした話でもないのだけれど、臨也くんとわたしは誕生日と血液型が同じだった。


・・・


 臨也くんの顔の良さは、中学にあがり背が伸びてきた頃からより顕著になっていった。わたしはしばらくそのことに気づかなかったのだけれど、クラスメイトが騒いでいるのを聞いてやっと知るようになった。また、基本的に彼は周りの人に優しいらしかった。まあ、そうかもしれない。昔から誰かを傷つけることはしてこなかったし、入学式の日の写真での表情を見てもそう思うし、今でも夕飯にセロリがあれば食べてくれる。母に怒られたとき、臨也くんは庇ってくれたりもする。でも、それ以上のことはないように思われた。
 中学に入って初めての期末試験を控えた、蒸した初夏のことだった。相変わらず、母はわたしに小言を漏らした。「なまえもテスト勉強ちゃんとやるのよ。臨也くんもよかったら教えてあげてね」母はいつまでたっても臨也くんの味方らしかった。「なまえだって毎日ちゃんと勉強してますから、大丈夫ですよ」臨也くんは達者な口でそう言う。愛する息子のような存在からの素敵な一言に母は満足げに笑って、キッチンの奥の方へと引っ込んでしまう。
「なまえは大変だね。同性であるお母さんの当たり、強いでしょ」
 珍しく、わたしたちは会話を交わした。臨也くんと交流を持つようになってから、母はずっとこんな感じだったが、臨也くんにこのようなことを言われたのは初めてだった。「やっぱり、そう思う?」と聞くと、彼は同情するような顔で肯いた。
「もしかして、おれがいるせいなのかな」
 臨也くんは、悲しげに肩をすくめてみせる。ちょっとわざとらしいような気もしたが、「そんなことないよ。それに、臨也くんの家は大変なんだから、仕方がないよ」とわたしは言った。「ありがとう」なんて言って、臨也くんはわたしの皿の上で行き場を失っているセロリを食べた。それはとても自然な流れだった。
「ねえ、もしおれがとんでもないことをしでかしても、なまえはおれのこと庇ってくれる?」
 突然すぎる申し出だった。でも、わたしはすぐに「もちろん」と言った。臨也くんには貸しがありすぎたし、ちょっと庇うくらい安いものだと思っていたのだ。彼の言う「とんでもないしでかし」がどういったものかうまく想像できていなかった、ということもある。中学生になりたての子どもが考える範囲は非常に狭いし易しい。せいぜいカンニングするとか、不良と喧嘩するとかが関の山だと思っていた。

 しかし、ことは起こった。途方もないくらいの失敗、彼の言葉を借りれば「とんでもないしでかし」が、現実になってしまった。臨也くんは人を刺し、警察署へ連行されてしまったのだ。
 夏休みが終わる頃合いだった。連絡は、我が家にきた。電話で事実を知らされた母は、しばらく虚ろになって返事をしていた。しかし突然メモを取り出すと、わたしに「一緒に警察署へ行きましょう」と言った。なんで? 怪訝に聞くと、「臨也くんを迎えに行くの」と言って、それきり一言も発さなかった。
 熱を漂わせるアスファルトの上をわたしと母は延々歩き、警察署へ向かった。二十分くらいは歩いたと思う。夕暮れどきだったけれど、その日は今年の中でもかなり暑い日だったから、日が暮れたところで大して涼しくなかった。しかしわたしと母との間では、木枯らしが吹き荒んでいるかのような冬の冷たさが終始横たわっていた。
 警察署、というものを初めて見たけれど、存外普通だった。自分に関係のないことなので、呑気にそんなことを考えていた。受付へ行って母が名乗ると、すんなりと一つの部屋に通された。机と椅子しかない部屋で、臨也くんと警察官ひとりが腰掛けていた。出口にもひとり、警察官がいた。座っているほうの警察官が、机の上にある書類を指差し、難しい説明をし始める。そして、母にサインをさせた。臨也くんは、たまに半袖の裾で目元を拭ったりしていた。彼が泣いているのを、わたしは初めて見た。
 三人でそこを出ると、母は前を行き、わたしたち二人は後ろを歩いた。母は一回も振り返らず、誰かと電話しながら早々と歩いた。
「一体何をしたの?」わたしは聞いた。臨也くんは、「岸谷を刺しちゃったんだ」となんともいえない表情をする。岸谷、が誰なのかよくわからないけれど、人であることはわかった。わたしはにわかに信じられず、「うそ」と呟いた。臨也くんは「事実じゃなかったとしても、世間的にはそうなってるんだよ」と、よくわからないことを言う。
「おれのことがこわい?」
 臨也くんは、距離を開けずに歩き続けるわたしにそう訊ねる。
「それは、まあ、人のこと刺しちゃったわけだし」わたしは曖昧なことを言ってしまう。フォローをしたい気持ちはあるのだけれど、わたしはどうしても嘘をつけないほうだ。
 わたしの包み隠さない本音に対して返ってきたのは、ふうん、というひどく短い相槌のみだった。蝉がうるさく鳴いている。まとわりつく夏の気だるい空気を背負いながら、わたしと臨也くんはひたすら前だけを見て歩いていた。夕飯の時と同じで、それ以上の会話はなかった。
 反省しているようですから、と警察の人は言っていた。わたしは署での話にまったくついてゆけず、よくわからずじまいだったのだけれど、警察の人のその一言だけは鮮明に覚えていた。これが反省している臨也くんか、と、歩みを続ける彼の横顔を盗み見る。顔に出ないのかすっかり立ち直ったのか、そこにはいつも通りの冷静沈着な臨也くんが居た。
 次の日から学校が始まり、臨也くんが岸谷くんを刺したという「噂」が広まった。岸谷くんがしばらく学校を休んでいたことからその噂は真実味をまとって広まったが、夏休み中の出来事だったことや、岸谷くんがその後も臨也くんとの友人関係を解消しなかったことから、噂程度で済んだ。
 臨也くんは、本当に人を刺したのだろうか。
 それはわたしだけでなく、学年中の誰もが思っていることである。そのためか、臨也くんのまわりには変わらず女の子たちが群がっていたし、男子の中で孤立するということもないみたいだった。
 でも、わたしの母だけはそれを重く受け止めていた。自分のせいと思ったのか、一人娘のわたしの身を案じたのかわからないけれど、だんだんと距離をあけていき、臨也くんを夕飯に誘うことはなくなってしまった。わたしはかつての約束を果たそうとして、臨也くんは実は刺してない可能性があることを一応言ってみるものの、頑固な彼女は聞く耳を持たなかった。

 そのようにして、わたしたちの身近なようで遠い距離は、彼によって破壊され始めたのである。セロリを食べて、あまりの苦さにわたしは絶望した。これを今後食べていかなければならないことに対してもそうだったが、ずっとこんな苦いものを彼に食べさせていたことに対しても罪悪を感じた。


・・・


 あれから半年強経って、中学二年にあがった。さすがに半年も経つと、臨也くんとの空きすぎた距離はもう常になりきってしまっていた。思い出しもしなかった。しかし、強制的にまた彼を思い出さなければならない事態に陥る。クラスが偶然一緒になったのである。
 最初、わたしは彼が同じクラスであることに気づきもしなかった。というのも、クラス発表の張り紙を見に行こうとしたとき、自分で見る前に友だちにどこのクラスか教えられてしまったのだ。自分のクラスさえわかれば良かったため、わたしはそのまま友だちと連れ立って教室へ向かった。そして、自己紹介のときに、わりと早めのタイミングで(折原、なので)彼の存在を知るようになる。
「折原臨也です。五月四日生まれ、趣味は人間観察、好きな科目は国語です。よろしくお願いします」
 呆然と、わたしは彼の顔に魅入ってしまっていた。幼さを脱ぎ捨て、鋭さが増しているようだった。いつのまにやら声変わりしていて、その張りのある中低音は妙に耳に優しかった。女の子たちがこそこそと話しているのが見える。内容まではわからないけれど、明らかに色めき立っていた。臨也くんは壇上を去るとき、ちらりとわたしを見た。心なしか、微笑んでいるような気がした。若干の気まずさから、わたしは臨也くんのほうを、今後できるだけ見ないようにして過ごすことを決めた。

 そんな風にして、なんとか接触を避けながらゴールデンウイークまでやってこれた。もうすぐ、十四歳になる。わたしはこの連休中、遊びに行かないどころか家から一歩も出ずだらりと過ごしていた。さすがに気力を持て余して、誕生日の前の日にやっと、少し外に出ることを決意した。カルディに行ってキスチョコレートを買い、近所のコンビニで大きい紙パックのピーチティーを購入し、店員に長いストローを入れるよう頼んだ。これを飲み干すころには日が暮れているだろう。
 もうすぐ家に着くというところまで来ると、家の前に男の子が立っているのが見えた。誰だろうと目を凝らして見ると、その男の子がこちらを向いた。臨也くんだった。
「やあ」
 臨也くんは普通に声をかけてきた。実に長い間身近に居続けた人だったけれど、彼にそんな風に挨拶されたのはほとんど初めてだった。「お、おはよう」わたしは気後れした返事をする。
「宿題は終わったかい?」
 臨也くんは飄々と世間話を始めた。彼の側は躊躇も恐れも伺えない。まるで、あの日のことやそれ以来の関係性はわたししか気にしていないと言っているかのようだった。
「まあ、あとちょっと、残ってるけど」
「ふうん、そう。おれはもう終わったけどね」
 臨也くんって、こんなあからさまな嫌味を言う人だったかな。冗談のつもりで言っているだけかもしれなかったけれど、それを含めてもなんとなく、わたしの知っている臨也くんとは異なっているように思えた。
「なまえ、よかったらお祭りに行かない? ゴールデンウイークだからさ、公園でやってるみたいなんだ」
 臨也くんは、さきほどの嫌味とは打って変わって無邪気に笑って見せた。それをみてわたしは胸をなでおろす。先ほどのあれは冗談だったのだと、確信を得たからである。
 ただ、なぜわたしを誘うのだろうと、その疑問だけは解消されずわたしは首をかしげた。黙ったままのわたしをみて、臨也くんはこう言った
「十三歳最後の思い出、だよ。互いにね」

 わたしは臨也くんに連れられ、池袋西口公園にやってきた。いつもはだだっ広いだけのこの広場にたくさん屋台が出ており、地面が見えないほど人でごった返していた。天気は晴天、日差しは強いけれど、たまに良い風が吹いてくる。清々しすぎる天候に、わたしは臨也くんがいなければ家に終始引きこもっていたであろう自分を呪った。
 ちょうど昼時でお腹が空いていた。何か食べる? という臨也くんの誘いに、ためらいながらも乗って、わたしたちはたこ焼きを一パック買って二人で食べた。たまたま空いていた木陰のベンチに落ち着いて、人混みを遠巻きに眺める。
「たくさん人いるね」
「ああ、そうだね」
「人混みって、嫌いだな」
 わたしは、殆どの人が思っているであろう感想を口にした。旅行に行くにしても、連休を取るタイミングが重なっている日本では、どこもかしこもラッシュだらけである。連休が重なるからこそ、こういったお祭りも出来るのだろうが、賑を楽しむと同時に人混みの圧迫感に嫌気が差していると感じる人は、きっとわたしだけではない。
「おれは、嫌いじゃないけどね」
 臨也くんは朗々と言ってのけた。めずらしいね、とわたしは言う。そうかな、と臨也くんは笑いながらわたしのほうを見た。目が合う。少し、どきりとした。
「あの日のことを覚えてる?」
 臨也くんが再び人混みに目を向け語りだす。「夏休み最後の日、おれは変わったんだ」彼は表情を変えず堂々と言った。何の話をしているのだろう。あの、人を刺してしまった日のことで、合っているのだろうか。何がどう変わったんだろう。何故そんな誇らしげなんだろう。色々と突っ込みたくてたまらなかった。刺された岸谷くんが臨也くんとの友情をなかったことにしなかったのだから、あの事件は悲しんだり悔やんだりするものではなく、確かに彼ら二人の中でよき思い出となっているのだろう。だが、まだあれから一年も経っていない。臨也くんはもっと反省の色を見せてもいいと思う。
「あの日をきっかけに、おれは人混みが好きだといえるようになったと言っても過言ではないね」
「……なんだかよくわからないけど、それならよかったね」
 臨也くんの説明不足なのか出鱈目を言っているだけなのか、辻褄がまったく合っていない話をわたしは一旦飲み込むことにした。
 臨也くんは、人混みに目を向けたまま、急にわたしの肩を自分の方に寄せた。それなりに距離のあったわたしと臨也くんのあいだに倒れ込みそうになったわたしは、あわてて手をついて倒れるのを防ごうとする。たこ焼きのパックが情けない音を立てて落ちた。そのままごみを放置するわけにはいかないのでわたしは拾おうとするが、臨也くんのほうが一枚上手で、気づいたら彼が先に拾ってしまっていた。
「あの、臨也くん」
 臨也くんは何も言わない。右手に二人分のたこ焼きのパック、左手にわたしを抱き寄せている状態で静止していた。「バッグ、ちゃんと手に持ってる?」臨也くんは口端に笑みを縫いつけたままわたしに問う。持ってるけど、と答えると、臨也くんは急に立ち上がりわたしの右手を引いた。引いただけでなく、そのまま一目散に走りだした。
 臨也くんは目の前にいる人を器用に避けて駆けた。臨也くんの脚は速い。弾丸のように通り過ぎるわたしたちを、周囲の人混みは時に咄嗟に避けたり、時にぶつかりそうになりながらも、驚愕した表情でわたしたちが過ぎ去るのを見届けているようだった。わたしは、そんな臨也くんの予測しづらい動きと速さについてゆくのに精一杯だった。
 やがて、人通りの少ない道へとわたしは誘われる。角を曲がってしばらくいったところでふと後ろを振り返ると、数十メートル後ろで複数人の人々がきょろきょろとあたりを見回し、そしてこちらを指差すのが見えた。「次、曲がるから」臨也くんがわたしにだけ聞こえる声の大きさで呼びかける。わたしはすぐに前を向いて、臨也くんの宣告通りふたたび角を曲がる。
 何度かジグザグに角を曲がるといつの間にかわたしたちの通う学校の目の前に来ており、臨也くんはそのまま校内へ足を踏み入れる。体育館裏までくると、わたしの手を離して、膝に手をついて大きい呼吸を繰り返した。わたしも息絶え絶えで、その場に座り込んでしまう。
 彼に聞きたいことが山ほどある。何に追われていたのか、なぜ追われていたのか。きちんと撒けたのか、この先は大丈夫なのか。体力もなく運動部にも所属していないわたしが、殆ど理由を聞かされずによくここまで全力疾走できたものだと思う。今からでも問いかけたいのに、呼吸はいつまでも整わなかった。肩で息をし続け、わたしは喉も心臓も痛めた。
 途端、くつくつとした音がわたしの耳をくすぐった。笑い声、のような、音である。ゆっくり臨也くんの方を確認すると、彼は、今までこらえていたものを爆発させるように、笑っていた。
「まったく、とんだ十三歳最後の思い出だ! 最高な気分だよ」
 わたしは、それをみてさらに最悪な気分に追い込まれた。何をどう捉えて最高なのかが理解できない。変わってしまった彼の声は、遠くまで響くよく通る声だった。そして管楽器やクラクションのような、馬力のある張り方をしていた。近くでそんな風に笑われると、思わず身が竦んでしまいそうになる。身の危険を感じる、というのだろうか。何にせよ懐かしさをはらんだ居心地の悪さを思い起こさせる音だった。
「全然最高じゃない」
 わたしは整い始めた呼吸を壊さないように、掠れた音を吐き出した。やっとの思いで出した声を、臨也くんは妙に興味深そうに聞いた。巻き込まれたわたしがどんな反応を示すか、きっと彼の行動指針に従って「観察」していたのだと思う。今思えばあまり不思議なことではないのだが、当時のわたしにはそのことがわからなかったので、臨也くんのその行動がこわいものでしかなかった。
「とにかく、逃げおおせたことは十三歳最後の大仕事を達成できたということに他ならない」
 臨也くんはまたしても誇らしげに語りだす。逃げ切れたようである。わたしの疑問の一つが解消された。
「こんなことが、したくて、わたしを誘ったの」
 わたしは不機嫌さを隠せないまま、切れ切れに臨也くんに問いかける。臨也くんは、そんなわたしの態度に何の抵抗や疑念も示さず、ただ受け入れてこう答えた。
「まさか。デートしたかっただけさ」
「デート」
「なまえとおれは、運命共同体だからね。なんていったって、明日同時に歳をとる。十四年前、同時に生まれたんだ。これほどの偶然が他にあると思う?」
 運命共同体。字面を頭のなかで思い浮かべて、砂漠の中に急に放り込まれたみたいに身体が火照った。せっかく疾走の熱が引いてきたと思ったのに、また心臓が痛み出してきた。臨也くんは涼しい顔で携帯電話をいじっている。わたしは多分苦々しい顔で全身の苦痛に耐えている。わたしたちは明日、十四歳になる。それがそんなに稀有なことだろうか?
 少なくとも、彼にとっては何かしらの思い入れがあるみたいだった。わたしたちはメールアドレスを交換して、今まで空きすぎた距離をちょっとずつ埋めるようになった。


・・・


「例えばさ、なまえが大事故に遭ったとして、そうしたらおれの血液をわけてやれるでしょ」
 突拍子もなく彼が言ってきたのは、蝉が鳴き喚いている二年の夏休みの初期だったと思う。わたしは臨也くんに誘われるがままに、塾の帰りにコンビニの前に合流してアイスを食べた。彼のその言葉の前にどんな会話をしていたかまったく覚えていない。多分そんなに関係のない話をしていたわけではないはずだが、忘れてしまうくらいに、彼のその言葉は衝撃的だった。
「大事故なんて、いやだよ」
「例えば、だよ」臨也くんは面白そうにくすっと笑った。「O型は他の血液型から血を貰えないんだよ? なまえの両親はAとBだろ。ほら、おれしか居ないじゃないか」
「え、そうなの? もらうと、どうなっちゃうの」
「ひどい苦痛を味わったのち、死ぬ」
 聞くんじゃなかった。わたしは六十九円の青いアイスキャンデーをかじる。高い気温のせいで、下の方はすでに溶け始めている。臨也くんは、三百円する高級なアイスクリームを食べていた。かわいい女優さんがホテルの一室みたいなラグジュアリーな部屋でベッドに飛び込みながら食べている、あのアイスだ。それで、その女優さんに負けず劣らずの楽しそうな笑みを浮かべて、いろいろと考え事をしているみたいだった。
「この間、クルリちゃんとマイルちゃんに、わたしと臨也くんは双子なのって聞かれたよ」
 誕生日が一緒であることを、臨也くんから聞かされていたのだろう。いたいけな二人の少女は、純粋な目をして質問してきた。つい三日前だったと思う。家の前でばったり遭遇した双子の女の子は、臨也くんとはあまり似ていなかった。
「へえ。なんて答えたの」
「違うよ、って」
「退屈な答えだけど、どこまでも真実だから莫迦にはできないね」
 ちかごろの臨也くんは、一言余計である。でも、嫌そうな顔をすると嬉しそうにするので、わたしは反応を示さずアイスキャンデーをかじった。臨也くんもまた、小さなスプーンで上品にアイスを掬って食べた。
「臨也くんが大事故に遭ったら、わたしも血をわけてあげられるね」
 わたしはつば広の帽子をかぶりなおしながら言った。そうしたら、本当の双子になっちゃうかも。臨也くんは楽しそうに笑う。

 臨也くんとわたしは、別に付き合っているわけじゃないらしい。彼はなにかとわたしと彼のあいだの奇妙な繋がりについて語るのだけれど、それ以上のことはなかった。もしかしたら、単に双子に憧れているだけかもしれない。確かに彼の妹たちを見ていると、切っても切れない仲というのはこういうことをいうのだろうと思う。
 わたしたちは人並みにメールを交換し、仲のいい友だち並みにお喋りをした。そして、その内容は取るに足らないくらい、どうでもよいことばかりだった。最近の彼はさらに口が達者になっていて、言っちゃいけないようなことも容易に超えてきてしまう。でも、周りの中学生みたいな安易な軽口は全く言わず、遣う言葉は大人のものだった。
「来年の十五歳のお祝いも一緒にしよう」
 臨也くんは、十四歳のあいだずっとそういう風に言っていた。なので、冬を回ってまた春になったら、わたしたちは臨也くんの家でケーキを囲んで食べた。妹たちも一緒だった。でも、それで満足したのか、そのあとまたなんとなく距離が開いてしまう。周りの友だちはみんな思春期の盛りで、誰と誰が付き合った、別れた、どこまでいった等の話ばかりが耳をついた。なまえと折原くんって今どうなってるの、と度々聞かれたが、どうもなっていないし、そもそも始まってすらいない。わたしと臨也くんのあいだは、いつも彼の主導によって方向性が決まっていった。それこそ最初はうちの母が決めた方向性に沿っていたけれど、あの一件以降はすべて彼の思惑通りだった。わたしはそれに飽きることなく従っていて、特に嫌と思うこともなかった。臨也くんはますます綺麗に成長していった。薔薇みたいに棘だらけだったけれど、それでもいいなんていうもの好きな人はいくらでもいた。でも、わたしは昔の臨也くんにまた逢いたい。セロリを黙って食べてくれている、そのときの臨也くんに、また。

 十六歳の誕生日が間近になってきた。わたしたちはそのまま同じ高校にあがり、わたしは臨也くんを水族館に誘った。
「水族館?」
 誘うために電話したとき、彼はかなり怪訝そうな声をしていた。嫌だったかな、と思うも「まあいいけど」あっさり承諾を得たので、「十時にサンシャインの前でね」と言って勢いよく電話を切った。家が近いのだから一緒に行けばいいものを、気が動転していたのかもしれない。電話を切ったあと、思わず顔が綻んでしまうのをわたしは止めることができなかった。
 当日、待ち合わせ場所に十分前に向かうと、臨也くんはすでにそこにいて携帯電話を弄っていた。全身真っ黒だ。「暑くないの?」と聞く。彼はわたしの格好をみて「なまえこそ、もっとちゃんとした服を着たほうがいいんじゃない」と軽口をたたく。
「ほら、池袋なんて変な輩ばっかりだろ。気をつけなよ」
「わ、わかった。ありがとう」
「特に平和島静雄には近づくなよ」
 誰? わたしが聞く前に、臨也くんは踵を返してしまう。わたしは彼の背中を追いかけて、水族館へと続く道を早足で抜けた。
 水族館は混んでいた。始まったばかりのゴールデンウイークにうきうきした人々が、まるごと詰め込まれたみたいだった。チケットを買うのにも少し並んだが、中に入ってからはもっと身動きが取りづらくなっていった。ガラスと水に囲まれた館内は、薄暗く喧騒に満ちていた。鰯の群れを眺める人々もまた、群れを成していた。
「おれたちが見られているのかもしれないね。魚にさ」臨也くんは涼しい顔でそう言う。
「じゃあ、臨也くんは魚?」
「うまいことを言うね。でも、おれはみんなと同じ人間だよ」
 少し奥の方へいくと、水母のコーナーがあった。証明に照らされゆらゆら回游する水母たちは、透き通っていて、安定感がなくて、綺麗だった。まるで臨也くんみたいだ、なんて、わたしは思ったものである。臨也くんは何も言わず、水母を見ている。多分、水母なんて見ても、彼は何も思わないのだろうと思う。わたしはこっそり臨也くんと手をつないでみた。すこし肩を揺らしてこちらを見た臨也くんのことを、わたしは知らないふりして見なかった。臨也くんは手を振り払わないで、逆にしっかり繋ぎなおした。しっとりとした体温だった。そして、わたしの手をひいて、ゆっくり水母のコーナーを後にした。
 館内すべてを見終わって、お土産コーナーに入る。明るい照明に切り替わり、水族館内にいた生物に係る様々なグッズが並んでいた。わたしたちは特定の場所で立ち止まることなく、魚のようにぐるりと回って商品を見ていた。文房具やぬいぐるみなどがおいてある箇所を超えると、少し値の張るアクセサリーが置いてある場所へ辿り着いた。わたしはとあるネックレスに目を奪われ、止まった。水母をモチーフにしたピンクゴールドのネックレスだった。思わず顔を綻ばせると、臨也くんがどうしたの、と声をかけてくる。
「なんでもない」
 一瞬買おうかどうか迷ったが、レジを見やると長蛇の列が見えたので、笑って諦めた。ああいうのきっと別のところにも売ってるだろうし、などと考えて、わたしはその場を離れる。臨也くんは何も言わず付いてくる。
 出口付近までやってきた。「ご飯でも食べる?」時計を見ながら臨也くんに聞いてみる。もうすぐ十二時になるところだった。もうちょっとしたら、お腹が鳴ってしまいそうだ。しかし臨也くんは「ちょっと、ここで食べたいもの考えながら待ってて」と言って何処かへ行ってしまった。
 数分の時間をおいて、彼が戻ってきた。わたしはその間考えた「ラーメン食べたい」という言葉を真っ先に提案しようと思ったのだが、
「なまえ、ちょっと目閉じてて」
 臨也くんにすぐさまそう言われ、言えなくなってしまった。言われるがまま目をつむると、首元に彼の手が触れどきりと身体が跳ねてしまう。すぐに、手ではなく冷たい感触が鎖骨をなで、わたしは「開けていい」と言われる前に目を開けてしまった。臨也くんの顔が目の前にあって心臓が口から出るかと思ってしまった。臨也くんもわたしが目を開けたことで、少し顔を逸らしながらわたしの首の後ろで指を動かす。触感から予想はついていたけれど、彼はわたしにネックレスをつけてくれていた。
「あげる」
 臨也くんは困ったように笑った。わたしは天使に出会ったような気持ちになり、近くにあったガラスに薄く自分の姿を映してそのネックレスを見た。水母のかたちをしたきらきらの光が、ゆらゆら揺れている。ありがとう、とわたしは臨也くんに言った。臨也くんは、今まで見たことのないくらい優しげな笑顔を浮かべ、再びわたしの手をひいた。
「何食べたい?」
「パスタ、かなあ」
 わたしは無理やり提案を変えた。このタイミングで、ラーメンはないな、と思ったからである。


・・・


 あのときの臨也くんは、幻だったのかもしれない。十六歳。手も繋いだし、とても素敵な雰囲気になったのに、わたしたちはそれきり何事もなかったかのように自分だけの日常に戻ってしまった。
 十四歳のときはひっきりなしに連絡を取っていたが、それももう一年以上前のことだ。歳を重ねていくごとに、なぜだか彼は淡白になっていった。わたしから話しかけてみようかな、そう思ったことは何度かあったものの、彼の纏う黒い噂を耳に挟むようになりついに行動に移せなかった。臨也くんとは、クラスが別だった。話さないどころか、姿すら見かけない日々が続いた。
「きみって折原くんと仲良いの?」
 高校一年の九月の席替えのとき、たまたま隣になった男の子にそう聞かれる。眼鏡をかけた、利発そうな男の子である。不良みたいな臨也くんと並べたら合成写真に見える程度に、臨也くんとは不釣合いのすごく真面目そうな人だった。わたしが言えたものではないかもしれない。
 わたしは折原くんと仲が良いのか。なんと言えばいいものか言い淀んでいると、「ごめん、試すようなことを聞いて。みょうじさんのこと臨也からよく聞くものだから、きっとそうなんだろうなと思ってさ。ぼくたちってきっと、友だちの友だちってやつだよね」と彼は続けた。
 この人は誰なんだろう。クラスはずっと同じだったわけだから、恐らく名前くらいは聞いたことがあると思う。でも、点と点が結びつかないのと同じで、どの名前がこの男の子に当てはまるのか検討がつかなかった。わたしは人の名前を覚えるのが極限的に苦手だった。臨也くんの名前すらも、ずっと「いずみ」「いずや」「おきはら」と間違えていたし、漢字の「臨也」となると今でも読めるか危うい。
「岸谷。岸谷新羅」
 眼鏡の彼は瞬発的な判断でわたしにそう告げた。臨也くんに似て、すごく頭のいい人なのだな、と思った。「岸谷くん」わたしは反射的につぶやき、悪寒をおぼえる。旧い記憶が、堰を切ったように溢れ出した。蝉。湿った空気。涙を袖で拭く。前を歩く母。隣をあるく臨也くん。おれのことがこわい?
「で、こっちが平和島静雄。って、みょうじさんもさすがに知ってるか」
 岸谷くんの前の席、わたしの斜め前に座るのが平和島くんという人のようだった。何処かで聞いたことある名前だけれど、高い身長と金髪が目立つので、岸谷くんが指摘する通り存在は知っていた。ただ、名前と顔が今まで一致しなかったけれど。
「あいつの名前を出すんじゃねえ」
 平和島くんは一瞬だけ振り向いたけど、それだけ言うと前を向いてしまった。

 それからその席は学年の最後まで続いた。この高校は少し荒れ気味だったのだけれど、わたしたちのクラスは比較的ましだった。問題の起きにくい席にそれぞれ問題視されていた生徒が奇跡的に綺麗に収まったことが大きかったのだそうだ。その話は教員から生徒へ漏れ、一種の笑い話のようにして広まった。かくして、わたしたちのクラスは大して席が変わらず、わたしは岸谷くんと平和島くんとよく連むようになったのである。
 平和島くんの前で臨也くんの名前を出すのはタブーだった。とても仲が悪いらしい。わたしは見たことがないけれど、ふたりは放課後の遅い時間よく追いかけっこをしているらしい。追いかけっこ、というのは岸谷くんなりの優しい表現で、他の人たちは死闘・戦争・災害という言葉で揶揄していたし、そういう人たちは大抵その災害とやらを楽しく見物しているようだった。臨也くんは相変わらず誰かに追いかけられているのだな、とわたしは密かに呆れてしまう。それと同時に、知らなかった(または、見たくなかった)彼の一面が垣間見え、動揺もした。
 そういう事情があるため、臨也くんの話を岸谷くんとするときは平和島くんが席を外しているときか、側にいても固有名詞を出さないかたちでおこなっていた。知り合って間もないころ、わたしたちの間には臨也くんという共通話題しかなかったため、臨也くんは伏字にされながらも度々引き合いに出され語られた。
「ぼくたち中学で知り合ったんだよ。部活動が同じでね。というか、一緒に立ち上げたんだ、生物部をね」
 岸谷くんは色んなことを教えてくれた。生物部では食虫植物を観察したりしていたが、お互い主な目的は特にそれではなかったこと。臨也くんのおこなう悪事は年々ひどさを増していて、今や引き戻すことも難しいこと。人間が大好きであるということ。平和島くんと犬猿の仲であること。友だち同士が喧嘩をするのはつらいと岸谷くんは最後に零した。
 岸谷くんから聞く情報は、わたしの想う臨也くんとは違うような印象ばかりだった。でも、確かに臨也くんって、岸谷くんがいうような姿を見せるときがある。特に十四歳のときはそれが顕著で、捌け口がわたししかないみたいに、色んなことを喋っていたような気がする。「運命ってあると思う?」「みんな自分の人生を決めるとき何を重要視して決めるものなのかな」「おれは、やっぱり感情なのかなって思うけどね」そのどれも、わたしには理解が追いつかないものだったけれど。だって、臨也くんは頭がいい。それはもうわたしの中では別次元の彼の話で、わたしの中の彼はいつでも優しく笑っていた。でも、それが現実の彼とどのくらい乖離した情報なのかも、心が痛む程度には承知していた。
 わかったうえで、わたしは岸谷くんにも臨也くんの情報を渡す。昔から頭が良かったこと。ずっと家で一人で過ごしていたこと。晩ご飯はわたしの家で食べていたこと。苦手なセロリをいつも食べてくれていたこと。岸谷くんを刺して警察に出頭したときには、わたしも迎えにいったこと。そこから少しずつ、彼がおかしくなっていったこと。それでもこの間、一緒に水族館に行ってくれて、優しく笑ってくれたこと。誕生日と血液型が一緒で、彼はわたしとのその繋がりをとても大切にしているということ。
「みょうじさん、い……あいつとの思い出がいっぱいだね」
 平和島くんが席に戻ってきたので、岸谷くんは慌てて伏字にする。
「ありがとう。でも、もう忘れたほうがいいって思うの」
 わたしはそう言って、胸元を押さえた。そこにはまだ、水母が揺れている。彼のことは忘れても、これは暫く捨てられないだろうなあと思う。
「そうかもしれないね。だってあいつ、色んな人を騙すのが生きがいみたいになってるし、付き合ってる女の子すくなくとも十人はいるっていうから」岸谷くんは、何に臆することなく言ってのける。「でも、みょうじさんの話を聞くと、臨也は心までは売っていなさそうだなって思ったよ。なんだかんだ、誰よりも人間らしいところあるからね、臨也って」
 そんなに女の子と関係を持っているのか。わたしは岸谷くんの衝撃的なカミングアウトに時間差で落ち込んだ。無言で落ち込むわたしに気づかない岸谷くんは、無邪気に笑う。
「なんとなくだけど、そろそろ連絡のひとつでも寄越してくるんじゃないかな? というか、ぼくからそう言っておくよ。なんだか知らないけど、ぼくと静雄とみょうじさんの席が近いこと、どこから聞いたのかあいつ知ってたくらいだし、ちょっとは気にしてるんだと思うよ」
 岸谷くんの賢いフォローにわたしは肯いた。名前を出された平和島くんは「呼んだか」と振り返る。呼んでないよ、と岸谷くんは軽く返した。

 岸谷くんの努力も虚しく、あれから臨也くんが連絡を寄越すという奇跡は起こらなかった。でも、戦争だけは昼間にも勃発するようになっていた。臨也くんはわたしのクラスの前までやってきて、「シーズちゃん」と嫌味ったらしく平和島くんに呼びかける。平和島くんが振り返ると、顔に向かってコップに入った水をかけたりした。嘲笑。憤怒。そういう風にして災害は発生した。
「もう本当、ぼくの身にもなってほしいよね」
 岸谷くんは大きなため息をついた。いつもこの災害の後の二人の手当てをするのは岸谷くんの役目らしかった。「大変だね」と声をかけると、「みょうじさんも手伝ってよ」と言う。わたしは顔を強張らせてしまう。
「臨也のほうはぼくやるからさ。静雄は、あんまり手当てしなくても治っちゃうんだけど、消毒だけしてあげて。骨折れてたら呼んで」
 骨が折れてることが、果たして素人のわたしにわかるものなのだろうか。わけがわからないままだったが、こんな地鳴りのする状態でも授業は通常通り始まった。化学の授業だったが、よく耳に入ってこない。生徒も先生も気がそぞろだった。当たり前だ、災害なのだから。しかし授業は通常通り、まるで暴れている二人を無視するかのように、淡々と行われ、そして終わった。岸谷くんの電話が鳴る。
 岸谷くんは、一通りの相槌を打ち尽くしてから電話を切ると、「終わったみたい」と朗らかに言った。
「まあ、今が昼休みでちょうどよかったよね。多分静雄は体育館の裏あたりにいると思う、いつもそこなんだ。ぼくは屋上に行ってくるから。何かあったら電話してね」消毒液とガーゼを渡し、岸谷くんは去って行ってしまった。わたしは置き土産を両手に持って、教室を後にした。
 体育館の裏へ行った。平和島くんは、体育館へと続く石階段のところに反り返って座っていた。もしくは、寝転がっていた。わたしが近づくと、土と少量の血のついた体を捻ってわたしのほうへ向いた。目の中は先ほどまで炎がともっていたようだったが、今では燃え尽き濁った灰のようだった。
「何しにきた? 授業には今日は戻らねえぞ」
 こんな見た目だからな、と言わんばかりに体を広げてみせる。「骨は? 折れてない?」わたしの問いかけに、「折れてはいない」とはっきり答えた。わたしは、岸谷くんに頼まれてここまで来たことを言う。そうすると平和島くんは何とも言えない表情をして、「巻き込んで悪かったな。自分でやるから、それは置いていけ」と消毒液を指差した。
「わかった」わたしは彼の隣に消毒液を置く。「でも、暫くここに居てもいい?」
「ああ?」
「あの、心配で」
 平和島くんは数秒押し黙ってしまったが、顔に一筋垂れて来た血を手の甲で拭うと、「いいけどよ」と素っ気なく言った。
 平和島くんの身体は、細長い切り込みがたくさん入っていた。彼は消毒液をじゃばじゃばと掛け、その度に痛いと口にする。その傷どうしたの、と聞くと、あいつ遂にナイフを持ち出してきやがった、と苦々しげに答えてくれた。ナイフ……。わたしは心の中で絶望的に呟いた。犯罪のかおりしか、しない。
「みょうじは、あいつと昔馴染みなのか」
 消毒液がなくなり、容器をぐしゃりと潰してポケットに突っ込んだ平和島くんは、言いづらそうにわたしに問いかけた。あいつ、の部分だけ妙に憎悪の念が込められていたから、間違いなく臨也くんのことを言っているのだろう。肯くと、彼はまた問いかけた。「あー。恋人か何かか?」わたしは首を振った。平和島くんは、ずっと何ともいえない表情を保っている。
「好きなのか?」
 わたしは、何の反応も示せなくなってしまう。
「おれは、あいつと一緒にいるの、やめたほうがいいと思うぜ」
「どうして?」殆ど反射的に聞き返してしまう。
「勝手なやつだからだ」
 平和島くんの言葉はかなり的を射ていた。
「頭おかしいしね」
「わかってんじゃねえか」
 でも、頭で分かることと心で受け入れることはまったく別物である。


・・・


 十七歳の誕生日を迎えた。
 ゴールデンウイークの中日、高校に入ってからできた友達が、池袋のスイーツ店で十七歳になったことを祝ってくれた。おめでとう、と皆口々に言い、小さな箱のプレゼントボックスをそれぞれ渡してくれた。ささやかな誕生会は夕方頃に穏やかに終わり、サンシャイン前で解散する。次はユリカの番だからね、と六月生まれの女の子の肩を叩いて、わたしたちは帰路についた。
 池袋からがんばれば徒歩で帰れるわたしは、家の方にむかって歩き出した。雑踏からどんどん離れ、周りの風景が段々と住宅街じみてくる。少し広めの公園が見え、わたしは少しほっとする。ここまで来たらもう家が近い。わたしは公園へ足を踏み入れた。この公園を横切ったほうが、単純に家が近いからだった。
「やあ」
 不意に、声をかけられる。聞き覚えのある音だ。驚きながら、その音のした方へ向く。そこには、すべり台に寄っかかっている臨也くんがいた。
「い、ざやくん」
「本当に久しぶり。クラスはまた別になっちゃったしね。元気?」
 弄っていた携帯をポケットにしまい、臨也くんは近づいてくる。随分見ないうちに、背が高くなっていた。声ももっと落ち着いていた。何より、優しく笑いかけてくれている。わたしは、自分でもどうかと思うくらいに、目の前にいる臨也くんがどうしようもないくらい尊く感じていた。
「お誕生日おめでとう、臨也くん」
「なまえこそ。帰り? 一緒に帰ろう」
 うん、と言ってわたしは彼と肩を並べた。ゆったりとした歩幅に、春の風は優しく付いてくる。臨也くんは、その長い指でわたしの手に触れた。冷たい手だった。わたしは彼の手を温めるように握り返した。
「なまえの手は小さいね」
 存在を確かめるように、臨也くんの指は開いたり閉じたりした。わたしの手の大きさは、さして昔から変わってはいない。臨也くんの手が大きくなったのだということに、聡い彼は気づいていると思う。そのくらいわたしたちの間に流れていた時間は長かった、ということにも。
「良かったらさ」臨也くんが言う。「またこうして会ってくれない?」
 雲ひとつない空のような穏やかさで、彼は笑った。わたしはその笑顔にやられて、こくんと頷いた。

 大人になった、ということなのだろうか。わたしも、臨也くんも、過去のことはさっぱり忘れてしまったみたいだ。臨也くんは、わたしの前ではふんわりとした笑顔を見せてくれていた。でも、平和島くんとは決していい仲ではなく、一回殴られれば二回殴り返すようなことをお互い繰り返していた。戦争が起きて、お互い傷が癒えるまで冷戦があって、また戦いは勃発した。あざだらけの臨也くんと会った時、わたしは流石に失神しそうになった。
「大丈夫だよ、このくらい」なんて言って、臨也くんは平気そうなふりをしていた。
「喧嘩なんてやめようよ」
 わたしは再三仲裁をしようとした。もちろん、二人が顔を合わせていない時に、それぞれに言ったのだけれど。居合わせた岸谷くんもそれに強く同意してくれた。でも、臨也くんも平和島くんも全然聞き入れようとしなかった。それほど、お互いをきらっていたのである。

「ねえ、そもそも、どうしてなまえはあの怪力馬鹿の治療なんかするの」
 これは、二年に上がって何回目かわからない戦争の後で、臨也くんがわたしに向かって放った言葉である。臨也くんは、今回の件で骨折をしてしまった。右手を白い包帯に引っ掛けて、顔にも絆創膏をつけた出で立ちだった。そしてそれは、病院での措置ではなく、殆ど岸谷くんが施した治療のようだった。
 わたしは岸谷くんと妙な団結力を持って(というよりかは、半ば強引に巻き込まれて)二人が喧嘩をしたときは、その手当てを分担して行っていた。臨也くんは、治癒力が人並みで病院にも行きたがらないから、だいたい岸谷くんが治療に向かっていた。余った平和島くんは、強制的にわたしが担当することになった。といっても、平和島くんはわたしに治療をさせてはくれなかった。消毒液やガーゼや絆創膏を持って行き、彼が浴びるように消毒液を振りかけるのを側で見ているだけだ。絆創膏くらいは貼ってあげられたが、それも二、三回程度だった。
 臨也くんはそれをあまり信じなかった。
「あいつと一体何喋って笑うわけ」
 臨也くんの目は鋭くわたしを見つめた。見てたんだ。わたしは言う。見えたんだよ、と臨也くんは言い返す。度重なる治療のせいでそれとなく仲良くなったわたしと平和島くんは、ごく平凡な話題で盛り上がることが多かった。地理の先生の物真似とか、コメディドラマのワンシーンのこととか、本当にどうでもいいことばかりで取るに足らない。そして、そのどれもが臨也くんとの間では語られない話題でもあった。
 つまるところ臨也くんは、どうせ世話を焼くなら自分にして、とでも思っていたのだろう。だいきらいなシズちゃんのことは新羅に任せて、俺のところへ来ればいいのに、と。言いはしなかったけれど、そういうことだと思う。でも、無理のある言い分だ。臨也くんの怪我は消毒液を豪快に被せておけば治るような生易しいものではなく、針の穴に糸を通すようなデリケートな治療が必要なのだから。これは岸谷くんが言っていた言葉をそっくりそのまま借りて言っている。
 わたしと臨也くんはそのまま一緒に帰った。彼はずっと機嫌が悪くて、でも骨折していないほうの手でわたしの手を引き剥がせないほどしっかりと握って歩いていた。怪訝な横顔に浮かぶ擦り傷、白い布に垂れ下げるしかない折れた腕、見えないけれど痣だらけの脚、あまりにも痛々しい彼の姿に、わたしはそっと背伸びをして、頭を撫でてやった。恥ずかしさや照れくささはなかった。そうせざるを得ないほど彼は弱っていた。愛情表現をしたというよりかは、看護師が患者の点滴を取り替える行為に近かった。
「おれの血が足りなくなったら、なまえが分けてくれるんでしょ」
 ふと、頭を撫でられながら彼は呟いた。わたしは手を止めてしまう。体の一切の動きをやめてしまう。反応に困ってしまったのだ。だって、血を分け合う、なんて話、もう三年も前にしたきりだったから。
「ねえ、おれたちって、同じ運命を歩むのかな」
 その問いかけは急だった。でも、耳に新しい問いではなかった。同じ運命を歩む、何故なら同じ日に生まれたから。今までも折々で尋ねられた、または彼が一方的に朗々と語った説である。わたしはいつでもそれにまともな返事をしたことがなかった。何を意図しているのかが馬鹿な頭で理解できなかったこともあるけれど、どちらかというと、彼はわたしに「はい」と言わせることで、わたしに決めさせようとしてくるところに違和を覚えたからかもしれない。
 ひとたびその違和の正体がわかってしまうと、途端苛々してきた。わたしは彼に触れるのをやめた。臨也くんは少し儚げな表情をしてわたしの手を掴み直した。冷たい手だった。わたしは手を振りほどいた。
「どうして」
「わたしと臨也くんは、違う」
「そうだね。違いすぎる」臨也くんは、白い布に包まれた壊れた腕をさすった。痛むのだろうか、それとも、固定されすぎていて何の感覚もないのだろうか。彼の表情からはその是非が伺えない。伺えるのは、少し寂しそうという点くらいだ。
「でも、違うからこそいいんじゃないか」
 言い聞かせるように、彼はわたしの発言の逆手をとった。
「それは、同じ道をたどる理由になるの」
 我ながら、ひどいことを言っているような気がした。もしかしたら、臨也くんは婉曲的な言い方でもって、至極純粋な気持ちをただわたしに伝えたかっただけかもしれない。そうだとしたら、もう何年も前から彼の気持ちは変わっていないのだ。
 でも、わたしのほうは。
 わたしの気持ちのほうは、長い時間をかけてぐるぐるとねじ曲がってしまっているように思えた。臨也くんとは、もっとずっと仲良くなりたかった。優しい彼の側に、もっと居てみたかった。しかし、もう遅かった。わたしは、振り上げた武器を下ろせなかった。
「わたし、セロリをこっそり食べてくれていたころの臨也くんのほうが好きだった」
 わたしが彼に好意をおぼえたのは彼が我が家に来なくなって久しいころからだったというのに、薄情にもわたしの口はそんな出鱈目を吐き出した。しかし、あながち嘘でもなかった。わたしはいつでも、その器用に隠された彼の優しさを追いかけていたのだから。
 意気地なしのわたしは傷だらけの患者を置いて走り去ってしまった。

 しばらく、学校で臨也くんのことを見かけなくなった。もともとサボりがちではあるようだったが(クラスが違うのでよく分からないが)、臨也くんと平和島くんの死に物狂いの追いかけっこを見ない日々が続いたのだ。それでも治安の悪い校内ではあったが、その中でも最も目立った彼らの行いがないだけでも、ここ数日の間は平和が訪れたようだった。
「みょうじさん、臨也になにか言った?」
 休み時間にわたしが宿題をこなしていると、岸谷くんがわざわざわたしの席までやってきて小声で話しかけてきた。思い当たる節はあるが、詳細は答えずに「どうしたの?」とだけ言った。
「いや、もうすぐ中間試験じゃないか。臨也がさ、ノート貸してくれって言うから、早めに返してねって言って貸したんだけど、まず学校に来ない」
 相槌をつきながらわたしは聞く。岸谷くんは、不服そうな顔をして話し続けた。
「メールや電話の返事もまちまち。なんか家にはいるっぽいんだけど……なにかやってて忙しいというより、心ここに在らず、みたいな感じでさ」
 岸谷くんは間を置いて、わたしのほうをじいっと見つめた。そして、
「ぼく、思ったんだ」
 攻め立てるわけでも、諭すわけでもなく、ただひとつの可能性を述べる。
「みょうじさんが臨也の心を抉るような何かを言ったんじゃないかってね」
 わたしは少しの罪悪感をおぼえていた。なにが原因だったかはさておき、誰かを傷つけてしまったのだから、それはごく自然なことである。
「そうかも」わたしは反省も含めたつもりで小さな声でそう呟くが、「すごいじゃないか! 臨也をそこまで追い込める人、そういないよ」と岸谷くんになぜか感心されてしまう。わたしは少し面食らう。
「だけど、ぼくは今、困ってる」
「なんとかして、って?」
「うん、なんとかして」
 岸谷くんに懇願され、さすがのわたしも折れる。「わかった。今日家まで行ってみるよ」
 その数秒後だっただろうか、校庭のほうで大きな地響きがあった。噴火でもしたかのようなその轟に教室内がざわめき、皆窓際に寄って騒ぎを見ている。わたしと岸谷くんも慌てて駆け寄ると、校庭には平和島くんと倒れた電柱があり、そこから逃げるように、臨也くんが校舎内に駆け込むのが見えた。おい、こっちに来たぞとクラスメートが声を上げる。わたしと岸谷くんは罰悪く顔を合わせた。
 廊下を通るかと思いわたしも岸谷くんも廊下を見ていたが、臨也くんは一度もそこを通らなかった。しばらくして平和島くんが現れたので、岸谷くんは怖がりもせず話しかける。
「やあ静雄! また臨也に何かされたかい?」
「いや、されてねえけどむかつくからぶん殴る。邪魔すんな新羅」
 特に何かされたわけではないからか、いつもより平和島くんは冷静だった。
「そう。残念だけどここは通らなかったよ」岸谷くんの言葉に平和島くんは舌打ちをうつと、再び標的を探すべく走り去ってしまった。
「珍しいな。臨也がちょっかい出さないなんて」
 岸谷くんは不可解だと言わんばかりに肩をすくめつぶやく。わたしはまたしても思い当たる節があったが、言わないことにした。結局のところ、岸谷くんはその後普通に授業を受けていた臨也くんからノートを返してもらったらしい。ぼくの杞憂だったね、と何の疑いもなしに岸谷くんは朗らかに笑った。


・・・


 果たして、わたしは彼の心を抉ることができたのだろうか。わたしと臨也くんのあいだで、いつの間にかあのときのことはなかったことのようになっていた。臨也くんは平和島くんに電柱を投げられた日から学校にきちんと登校し、廊下ですれ違うたびに挨拶もしてくれる。いつも通りだった。
 ただ、日常と化していた平和島くんと臨也くんの喧嘩は、ぱったり見なくなっていた。どちらも登校はしているので廊下で鉢合わせになっても良さそうなものだが、それすらもないと平和島くんは言う。何ヶ月か経った最近では、姿をちらりと見ても、前ほどの怒りは抱かなくなったそうである。
「平和でなによりじゃないか」
 岸谷くんは言う。それはそうなのだが、なんだか少し不気味な様子だとわたしは思った。わたしはお手洗いに席をたつついでに、臨也くんのいる隣のクラスを覗いてみた。複数人の女の子に声を掛けられているところに遭遇する。やはり何歳になっても何処にいてもわたしの知らないところで彼はもて続けるのだなと少しやるせない気持ちになった。帰路、また臨也くんのことを盗み見た。今度は、彼は誰にも囲まれず、ぼうっと窓の外を見ていた。

 なまえちゃん聞いてよ、イザ兄最近すっごくおとなしいんだよ! 枯れ葉の舞う頃、わたしが家の外の落ち葉を箒で掃いていると、そばを通りかかったマイルちゃんたちに話しかけられた。ずいぶん見ないうちに、二人は背が高くなっていた。
 そこで、彼女たちは先ず兄の最近の動向をわたしに報告してきたのである。
「マイルちゃんたちの知らないところで、色々やっているかもしれないよ」
「じゃあ、学校では結構色々やってるの?」
「いや、今は学校でもおとなしいみたいだけど」
 ふうん、と二人は顔を見合わせる。「おとなしいって、ずっと家に居たりとか、そういうこと?」わたしは彼女らに問いかけてみる。
「ううん。よく出かけてるんだけど、図書館行くって。勉強とか本読むので忙しいから、クルリとマイルはゲームでもして遊んでなさいって言うの」
「遊んでくれないの……」
 寂しそうに二人は言う。果たして、臨也くんが妹たちと遊んであげたことが一回でもあるのかどうか怪しいところだが、二人は「お兄ちゃんは変わっちゃった」と言わんばかりの寂寞さを漂わせていた。
「あ、イザ兄」
 眉を下げていたマイルちゃんが、口を丸く開けてわたしの後ろを指さした。遠くからマフラーを巻いた臨也くんがゆっくり歩いてくるのが見えた。クルリちゃんとマイルちゃんが大手を振って兄を迎えると、彼は少し困ったように右手を上げてそれに応えた。
「おかえり!」
「ただいま」
 臨也くんは妹たちに声をかけると、わたしの顔を見て「話し相手になってやってたの?」とにこやかに問う。わたしが答えるより前に、マイルちゃんが「だって最近イザ兄おかしいんだもん!」と頬を膨らませて言った。
「はいはい。それより遊びに行くんだろ? 暗くなる前に帰ってきなよ」
「わかってるよ! いこ、クル姉」
「うん……」
 べーっと舌を出してマイルちゃんたちは駆け出してしまった。残されたわたしたちは暫く二人の走るさまを見送り、角を曲がって見えなくなったところで臨也くんが口を開いた。
「なまえ、少し散歩でもしない」
 わたしは臨也くんの顔をじっと見た。箒の柄を手袋越しにぎゅっと握りしめる。そんなに驚かなくても、と臨也くんは笑う。臨也くんは今、わたしだけを見ている。なんだか怖いような恥ずかしいような切ないような、そんな気分になってしまう。決めかねていると、臨也くんはわたしから箒を取って、わたしの家の庭の塀に立てかけてしまう。押しに押されて、わたしは臨也くん連れられて近所の公園まで来てしまっていた。以前臨也くんと十七歳の誕生日を祝いあった、あの公園だ。木枯らしが冬の訪れを告げるように時折吹いていたが、公園内には小学生が、薄手の服で走り回っていた。
 おれ、よく考えたんだけど。ベンチに腰掛けながら臨也くんは言う。わたしもためらいがちに隣に座ると、臨也くんは少し座りなおしてわたしと向き合うかたちをとった。
「やっぱり、戻れないと思う。でも、諦めるつもりもないんだ」
 ひときわ強い風が吹いた。風は、わたしと臨也くんの髪や頬をなでわたしたちのあいだを通り抜けてゆく。
「自分でもどうかと思うけど、なまえのことを考えるとおかしくなりそうなんだ。同じ日に生まれて、出会って、こんなにも苦しくて、これが偶然だとはとても思えない」
 切に訴える。演技ではなさそうなその叫びに、わたしは心が掻き乱されそうになる。臨也は誰よりも人間だからね、という岸谷くんの言葉が、こんな場面でも再生された。
「ねえ、なまえはなんともないの?」
「なんともなくない。臨也くんのせいで、今、心がぐちゃぐちゃになりそうだよ」
 わたしが返事をしたことにより、彼は少し前のめりになっていた身体を正常な位置に戻した。はだかの手が、寒そうに握りしめられる。
 同じ生年月日、血液型の人間に出会うのは相当確率の低いことだということはわかっていた。でも、単純計算で同じ日に生まれた人間は日本だけでも何千人もいるという。同じ運命をたどるというのは、どのように考えても無理な話である。
「それでも、おれはなまえと一緒にいたいから、そう思うことにするよ」
 臨也くんはわたしの手袋を外して、そっと手をつないだ。臨也くんの手は冷たくて、乾燥に耐えかね少しだけかさついていた。臨也くんは、わたしの手を確かめるようにしっかり握ると、わたしの目を見て優しげに笑った。
 わたしは、きっと、その顔をずっと見たかったんだ。
 あたりは暗くなって、街灯が次々についてゆく。日の暮れかかる青紫色の空には少しずつ星が見えかけていた。そろそろ帰ろうか、臨也くんは言う。うん、と返事をして、わたしは臨也くんに手を引かれて、そっとベンチを後にした。