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優しくて気の弱かった士郎は、重い現実を乗り越え強くなって幼馴染の彼女と再会し、遠くへ行こうと手を差し伸べる 吹雪士郎 / イナズマイレブン | 名前変換 | 28min | 初出20140122

きみと遠くへ

 わたしが五歳のころ、引っ越しをした。都会に住んでいたが、父が地方の支店長を任されることになり、北の方へ移ることになったのだそうだ。引っ越しをするから準備してちょうだい、と母に言われたのはいつごろだっただろうか。当時幼稚園生だったわたしに大した荷物はなく、ペンギンのぬいぐるみと落書き帳と色鉛筆を黄色のリュックに入れて、それでおしまいだった。あんまり早く準備が済んだものなので、母に「引っ越し今日?」と毎日尋ねては頭を撫でられていたような気がする。一方、兄は色々と物入りだった。野球選手のサイン入り色紙だとか、バットだとかボールだとか、ゲームだとか勉強道具だとか、よく着る服をダンボールに詰めていた。野球をする兄だったので、親しんだ草野球チームと離れるのをいやがった。家具などは業者の人がうまくやってくれるということで、何日か前から業者が出入りしていた。わたしは家の中を知らない人がたくさん歩いているのが落ち着かなくて、セミダブルのベッドの上で体育座りをして飼い猫を抱いていた。
 引越し当日は十月終わりのことだった。車に乗って、高速道路で新居へ向かった。七時間かかり、わたしはほとんど退屈をしたが、途中お菓子を買ってもらったり長めに休憩をとり歩きまわったりして少し楽しんだ。兄は、十一月一日からの編入となった。兄が「友達できるかなぁ」と不安げに言うのを、両親は大丈夫と言って励ました。わたしも新しい友だちが欲しい、と思ったので「わたしは? ようちえんは?」と尋ねると、今から園に編入しても一年もいられないまま小学生に上がらねばならなかったので、両親の熟考の末、編入は取りやめにしたとそのとき初めて告げられた。わたしの幼稚園生活は気づかないうちに幕を閉じられていたのだ。幼稚園中退、である。子どもながらに衝撃を受けたことを今でも覚えている。
「でもなまえ、だいじょうぶ。しばらくは、士郎くんが遊び相手になってくれるよ」
 母が言った。しろうってだれ。即座に思ったが、「士郎くんはママのお世話になった人の息子さん」とすぐ教えてもらえた。しばらく預かるのだそうだ。兄はもう知っていたみたいで、知らないのはわたしだけだった。士郎くんが来たのは、わたしたちが越してきた一週間くらいあとだった。大きめの黒い車に乗って、彼とダンボールが二つやってきた。よろしくお願いしますね、こちらこそ、と大人たちが言葉を交わしているすきに、わたしは士郎くんを盗み見た。銀色の髪に真っ白な肌だ。目が合う前に、わたしは奥へ引っ込んだ。

 わたしの新しい家は、兎角大きかった。士郎くんを入れても部屋が余るほどである。大きな家は子どもには嬉しかった。自由に動き回れて、退屈しないのである。少し古いが、手入れがきれいなのでアンティーク風な家だった。中庭があり、そこで洗濯物を干す母の足を追ってくっついた。手が届かないので、手伝いをすることはなかった。二階からもその中庭が見えた。ちょっとしたベランダになっているところがあり、わたしはそこで陽にあたるのが好きだった。猫もそこが好きだったから、よく一緒に寝転がっていた。
 士郎くんは二つほど年が上で小学二年生だった。兄がその三つ上なので、小学五年生である。兄は授業が多いことや寄り道しているため帰りが遅かったが、士郎くんは二時ごろ帰ってきた。士郎くんはよくわたしを構ってくれた。帰宅一番にわたしが引っ付いて回るから、構わざるを得なかったのかもしれない。「きょうはなにする?」ランドセルを自室に置いてくると士郎くんは居間にやってくる。二人でブロックを積んで家を作って遊ぶのも楽しかったが、わたしは士郎くんがテレビゲームをやっているのを傍で見ているのが一番楽しかった。自分ではうまく操作できないので、いつも士郎くんが帰宅してくるまで決して自分ではやらないのだった。謎解きもあるアクションゲームでは、二人で謎解きを考えたものだった。一時間ほどすると、母がりんごやらなしやら剥いてくれるので、それを機にゲームは終わりにする。そのあと士郎くんは宿題をしたり友達と遊びに出てしまうが、わたしは昼寝をする時間にしていた。
 わたしが小学校に上がると、士郎くんは暫く実家に戻ったが、また秋口に入って戻ってきた。士郎くんの実家は我が家からそこそこ近く、学区内のため転校することはない。たまに校舎内で見かけたり、お兄ちゃんに連れられて家に遊びに来ることもあった。士郎くんの両親はあちこちを転々とする仕事らしく、家を長期間空けてしまうときは士郎くんを預かることになっていた。わたしは学校に行くようになってから、さらに口が達者になった。よく士郎くんを困らせては母に叱られていた。
 わたしは一年前の士郎くんと同じく、二時には家についていた。暇だったので、書斎へ入って都会散歩本やグルメ本などを読みあさっていた。これは、都会に住んでいるときに親が読んでいたものである。気に入る記述があるのか思い出の品なのか判然としないが、親が越してくる際捨てなかった品たちだ。読んでいるうちに三時になり、士郎くんが帰ってきた。士郎くんは「ただいま」と言うとランドセルを自室に置いてわたしを探しに書斎に来た。帰宅後の士郎くんの予定は、ほぼわたしの御守りで定着している。
「なに、読んでるの?」
 士郎くんは物珍しそうにわたしの手元を覗いた。ちょうどわたしは、スイーツの頁を眺めていた。おやつを食べたい気分だったのだ。
「これ、わたしがあっちに居たときの本」
「ああ、そうなんだ。おいしそうだね」
 ペラペラと不思議そうに士郎くんは頁を捲った。「しろくん雑誌あまり読まないの」「うん、読まないよ。だって、もっと大きくなってから読むものだからね」いつしか、口では士郎くんのことをしろくんと呼ぶようになっていた。
「いつか、東京へ行きたいなあ」
「しろくんは行ったことないの?」
「うん、ぼくは、ずっとここで育ってきたから。なまえちゃんから見ても、やっぱり田舎でしょ、ここって」
 士郎くんが言うように、ここのあたりは田んぼや畑であふれていた。お隣さん、と言っても、あの地みたいにぎゅうぎゅうに住宅が隣接していたりはしなかった。のどかで、夜になると名前も知らない虫がしきりに鳴いていた。何処へいくにも、母が車を出してくれた。
 今度行こうよしろくん。わたしは無邪気に言った。そんな簡単には行けないよ、と士郎くんは眉をさげた。なんですぐに諦めるの行こうと思えば行けるもん。わたしは意固地になって言った。士郎くんは、「うん……」と眉をさげたままだった。本当にわたしは気が強くて言葉も尖っていて、士郎くんを困らせてばかりだったと今では思うが、当時は何の気無しに思ったことを全部言ってのけた。怖いもの知らずだったのだ。
 母が、居間から「買い物行くけどどうするー?」と声を張り上げた。どうする、とは、着いてくるのかこないのかどうする、という意味である。いくいく、わたしはすぐに立ち上がった。士郎くんも、ぼくも、と普段上げないような大きな声で返事をした。「じゃあ早くこっちへいらっしゃい」母が言うので、二人して意気揚々と玄関まで向かった。先のことなどわたしはとうに忘れていたし、士郎くんの眉も元通りになっていた。

 わたしが小学校に上がってから初めての花火大会の日がやってきた。この日は市民プールに行ってから花火大会に臨む予定になっていたので、子ども全員でこの日を楽しみにしていた。市民プールは、家から車で二十分ほどの場所にある室内プールだ。家族で市民プールに行くのはこれが初なので、母は水着やらタオルやらゴーグルやら着替えやら、わたわたと準備をしていた。わたしは外で待っていようと思いサンダルをはきかけると、ちょっと待ってと士郎くんに腕を掴まれた。振り返ると、士郎くんが日焼け止めを持って困った顔をしていた。わたしは日焼けすると湿疹が出て痒いので、いつも家を出る前に母に念入りにそれを塗りたくられる。母は別件で忙しいため、今回は士郎くんがその役を務めるというわけである。わたしは日焼け止めがきらいだったので逃げようとしたが、士郎くんにヒョイと腕を掴まれてしまった。
「すぐ終わるから、ちょっとだけがまんして!」
 ぺたぺたと日焼け止めを塗られる。なまえちゃんは肌がよわいんだから。士郎くんが母の口調を真似て言う。すっかり母気取りなのである。わたしの分が終わると、士郎くんは自分にも塗り始めた。わたしは外に出て庭先を歩きまわっていると、じきに兄が来、士郎くんと母が玄関から出てきた。母が車の鍵を開け、兄から順に車に乗り込む。車の中はとても熱くてたまらなかった。
 市民プールに着くと、士郎くんはわたしにカンカン帽を被せ、わたしの手を引いて歩いた。受付で料金を支払い、更衣室へ向かった。プールの更衣室は初めて見る光景だったが、温泉の脱衣所と似ていると思った。市民プールは建物の最上階にあり、大きなガラスで囲まれていて、空の中にいるようだった。水面がガラスに反射して空が波打っていた。しずかで、水の音とかすかな話し声だけがわずかにこだまする不思議な場所だった。わたしはトラックのはじっこの、遊泳専用の場所で、士郎くんと水中でじゃんけんをしたりおいかけっこをしたりしてあそんだ。
 プールを出る時間になりわたしは水から上がったが、からだの重さを久しぶりに感じて驚いた。また、思った以上にからだがだるかった。結局わたしは花火大会には行かず、家の二階からかすかに見える花火をまれに眺めながら眠った。
 士郎くんは、なにかと世話やきだった。きらいなものを残せば食べるように促すし、宿題を毎日見てくれた。でも、わたしの口の達者さ(殆ど屁理屈)には一切対応できない一面もあった。兎角やさしい人なのだ。そんな士郎くんは、わたしが二年生にあがる前には我が家を去った。詳しい事情は知らないが、家族で暮らせるようになったらしい。それからというもの、士郎くんには一度も会っていない。

 わたしは私立の女の子しかいない中学校へ通うことになった。近所の中学はなかなか評判が悪く、安心して通えるような学校では無かったからである。六年生になって、受験勉強に励むために塾へ通った。ちょっとやればすぐに結果が出るのが面白くて、勉強が好きになった。中学受験は実に容易いものだった。入学をしてみると、わたしより口の立つ女の子は何人も居た。ひどいことを平気で言う女の子たちが怖かったので、わたしはなるべくおとなしそうな女の子と友だちになった。
 中学にあがってから、もう母の買い物について行かなくなった。同級生の敵になるのがいやで、達者な口は閉じてしまうことにもしていた。むかしはあんなにも大きなことを言ってみせたりしたものだが、環境の変化とは恐ろしいものである。しろくんなにしてるかなあ、とわたしは一週間に一回くらいは考えた。年換算すると約五十二回、それが七年だ。三百六十四回。意外に、一年にも満たないくらい少なかった。
 兄は野球で甲子園に行った。わたしが十三歳のときである。十八歳の兄は坊主頭にしていて、とくに眉毛を整えることもなく彼女を作ることもなく、純朴な男だった。家ではわたしが口煩かったから、兄はバランスを取ろうとしてこうなったのかもしれない。兄はチームのキャプテンを務めるキャッチャーだった。わたしが中学二年生に上がると、兄は家を出て行った。地方の大学ではあるが、野球推薦で入学し一人暮らしをするらしい。十三、四そこそこのわたしは、一人で暮らす、という想像が全くつかなかった。というより、無理だと思った。十五になって進路を決めるとき、クラス内はそのまま付属の高校に上がる組と他校を受験する組とで大きく分かれたが、わたしは他校を受験することにした。付属の高校であれば大して勉強せずとも行けるため、勉強に励む方とそうでない方とで大きな亀裂が入り、教室内は一年間へんな空気だった。半分が校外へ出るのだからそういう風にクラスを編成してもいいようなものだが、そのまま付属の高校に上がってほしいというのが学校の本心なのだろうなと思った。わたしはたまたま受験組の友達と席が近かったので、休み時間は大概一緒に勉強をしたりそういった話をしたりした。教室の隅っこにはきゃっきゃと笑うにぎやかな女の子たちもいたが、一方でそれを嫌う女の子たちもいて多少の派閥があった。わたしはこれから抜け出したくて尚更勉強した。結果的には、無事、第一志望の高校に合格することができ、晴れて今までの制服を脱ぐことができた。

 その一年後である。士郎くんは、急に我が家に帰ってきた。帰ってきた、という言い方は語弊があるかも分からないが、何にせよ士郎くんは幼少期を過ごした懐かしい我が家でまた暫く暮らすことになったのである。事前に士郎くんから電話で連絡が入ったときは、夏休み入ってすぐの夕立土砂降りの日だった。母はいつもの調子で、ワンオクターブ高い声色で電話に出たが、すぐに深刻な顔をして「いつでもいいから、いらっしゃい」と電話を切った。電話の最中テレビの音を最小にしていたわたしは、リモコン片手に音量を上げながら「どうしたのー?」と間抜けに尋ねた。母は「士郎くんね、暫く家で預かることになったよ」と冷静に言うが、とても動揺していたのを覚えている。その動揺は、わたしにも移った。
 士郎くんは、一週間後に、今回は一人でやってきた。この日に来るのはわかっていたから、ベルが鳴ってすぐわたしは玄関へ向かった。ドアを開けると、古着のジーンズに無地のシャツ一枚を着た背の高い男性が立っていて、思わず固まった。その男性は軽くお辞儀をすると、「吹雪です。もしかして、なまえちゃんかな」と眉を下げて言った。正真正銘、士郎くんだと確信した。次いでわたしの後ろから母が「まあまあまあまあよく来たねえ」と騒がしく出てきた。
「ごめんなさい、またお世話になります」
「いいのいいの、遠慮せず上がってくださいな」
 母につられて、わたしもヒョイと道を空ける。母はエプロンで手を拭きながら、「なまえ、士郎くんの部屋、案内してあげて」と言って足早に台所へ戻ってしまった。昔から、客が来ると母は色々晩ご飯をこしらえるので、その準備で忙しいのだと思った。
「案内します」振り返って士郎くんに告げると、彼はにっこり微笑んで「お願いします」と言った。いつ声変わりをしたのか、士郎くんの声はわたしの記憶の中の士郎くんと大分違った。もちろん、違ったのは声だけではなかったけれども。
 士郎くんの部屋は以前より二階にあったが、士郎くんが居ない間、そこは物置と化した。わたしと母は一週間かけて、溢れる物を捨てるなりもう一つの物置に運ぶなりしてそこを片付けた。段ボールをよけた床はきれいで、士郎くんがいたときの、ワックスを掛けたばかりの床、という感じがした。二階へ士郎くんを案内すると、「懐かしいなあ」と士郎くんは階段の手すりから廊下の窓まであちこち見たり触ったりした。案内する、と言っても、士郎くんの部屋への行き方は士郎くんが一番よく知っているから、いまさらわたしができることは部屋の電気を付けてやることくらいだった。士郎くんの部屋の電気は古いままで、点くのに若干時間がかかる。士郎くんはリュックと大きな旅行用のバッグを持ってきていて、部屋に入るとそれらを隅の方にそっと置いた。わたしも士郎くんも、そこで一瞬動きが止まった。わたしはドア付近で立ったままであったが、一泊置いて士郎くんが「入っておいでよ」と床をたんたんと叩いた。座れという意味だろう。わたしはおずおずと士郎くんに近づき、床に座り込む。
「急に押しかけてしまって、ごめんね。驚いたでしょ」
 士郎くんは申し訳無さそうに言った。そんなことないよ、驚いたけど、ここ士郎くんの部屋だし。士郎くんの様子に、焦って咄嗟に答える。
「実はね……おばさんにはもう話したんだけど、僕の両親が離婚することになって」
「えっ」
「うん、本当のところ、僕がなまえちゃん家から戻ったときにはもう、仲が悪かったんだ。随分前からそうで……ついに、って感じ」
 士郎くんが困ったような顔で言う。その表情には、ごめんねこんな話をして、といった言葉も含められているような気がした。
「両親の離婚が決まったとき……僕は、真っ先になまえちゃん家を思い浮かべたんだ。またいつでも来ていいんだよって、そんな言葉を最後皆さんがくれたから……それを信じて、電話したんだ」
 掛ける言葉がなかった。想像しようのない遣る瀬無さを士郎くんは抱えているのだと思った。士郎くんはうつむきながらも口元に笑みを絶やさなかったが、その緩やかなカーブは相手への思いやりでしかない。わたしもうつむいて、唇を軽く噛んだ。
 後から母に聞いた話ではあるが、母は相当前から吹雪家の夫婦仲の異変に気づいていたらしく、度々士郎くんに対して「また遊びにおいでね」等の言葉を掛けていたらしかった。わたしは士郎くんが去ってから帰ってくるまで一回も会うことがなかったが、母は節目節目に会いに行っていたようである。後から聞いたわたしは、母に対して少し「ずるい」という気持ちを覚えた。そういえば士郎くんをはじめて預かることになったときも、わたしだけ知らなかったのだっけ。いつでもわたしは少しだけ蚊帳の外だ。

 それから士郎くんと暮らす生活が再び始まった。夏休みであったが、士郎くんにとって夏休みも二学期も関係のないことだった。高校を卒業して、アルバイトをしていたからだ。ほんとうは浪人生なのだが、参考書を買ったり模試を受けたり入学後一人暮らしをする予定でお金が必要なことと、日がな一日勉強していると寝付けなくなるそうなので、士郎くんは一日四時間週五日、資金調達兼運動に出掛けていく。駅前の花屋さんで働いているらしかった。
 大学も夏休みで、兄が帰ってきた。兄は大学四年生になり就職活動も特に難なく終わらせていたが、都会に行くわけでも野球を続けるでもなく、実家から通える程度の小さな会社に務めることになった。そのことを母に報告すると「あら、じゃあ実家から通勤するの?」と聞かれたが、兄はそれでも一人暮らしをしたいらしく、やや揉めている(最終的には、兄が引き続き一人暮らしをする、で決になりそうである)。わたしは二年生で受験を控えているものの、まだ他人事に思えたので、なかなかのんびり過ごした。
 士郎くんと一緒に住み始めたが、あまり一緒に居ることはない。ご飯の時は全員で顔を合わせるが、それ以外はお互いが自分のことで忙しいし、昔みたいにいつでも一緒に何かをするということには勿論ならなかった。士郎くんはバイトと受験勉強、わたしは宿題とか趣味とか趣味とか、である。わたしの部屋は一階で玄関はいってすぐのところなので、二階の士郎くんの部屋は遠かった。わたしの部屋から居間への導線は短く、お茶やお菓子がすぐに調達できる便利な部屋であった。あと、トイレも近い上に外に出やすい。でも唯一、二階だけは遠かった。
 八月の二十日頃、わたしは部屋で端切れを集めて小物入れを作っていた。要らない服を切ったり組み合わせているうちに、眠れなくて仕方なくやっている作業なのにこの作業に夢中になりすぎて余計眠れなくなるのだった。宵っ張りを続けていると、とんとんと部屋の外から音がした。これは誰かが階段を降りる音だ。気になってそっと部屋の戸を数センチ開けてみた。すると、士郎くんが玄関から出て行くのが見えた。こんな遅い時間にどこへ行くのだろう、と思ったが、ふと時計を見ると短針はもう五時を回っている。朝だ。カーテンの隙間から青と白のまざった空が見えた。わたしはひたひたと床板を裸足で鳴らしながら玄関の戸までいき、そこを恐る恐る開けた。士郎くんは庭にあるベンチに座っていた。わたしは、あ、と思った。夏に庭のベンチに座ると高確率で蚊に刺されるのを士郎くんに言っていなかった。士郎くんはわたしに気づいて顔を上げた。蚊に刺されることを一大事と思っていたわたしは、実際に「あっ」と口に出してしまったようである。
「あ、なまえちゃん。おはよう、早起きだね」
 ラジオ体操にでも行くの、と士郎くんは悠長にわたしに話し掛けた。実はこれから眠るところ、だなんて言えなくなる。
「士郎くんこそ、早起きなんだね」
「僕は始発に乗る用事があるから、今起きたところ」
「え、どこ行くの?」
「東京だよ」
 士郎くんはなんでもないことのようにぐっと背伸びをした。士郎くんが今日東京へ行くなんて知らなかった。東京はかなり遠い認識がある。片道で五時間はかかるからだ。なぜ行くのか尋ねたら、大学の下見に行くとのことだった。
 士郎くんは朝の光がさす花壇を見やった。大学では植物の研究をしたいのだと、以前言っていたのを思い出す。わたしは士郎くんに並んでベンチに座った。
「なまえちゃんも行く?」
 不意に、士郎くんに誘惑された。こうして二人で話すこと自体が中々ないからか、どきっとした。勿論、冗談だということも承知していた。昔、一緒に東京行こうよって言ってくれたよね、と士郎くんは言う。言われてはじめてそういえばそんなことも言ったなと思い出した。
「東京って遠いよね」
「うん、そうだね。僕は酔うから電車の中だと何も捗らないし、退屈しそうだな」
 士郎くんって電車で酔うんだ。初めて知ったけれどあまりにしっくりくるので少し笑ってしまった。士郎くんの肌は朝焼けも相俟って余計に白くきれいだった。もし士郎くんが大学に合格したら、東京の良い施設で研究ができるのだろう。大きなビニールハウスの中でさまざまな植物に囲まれる士郎くんを想像すると、植物王子という言葉がふっと頭に浮かび上がる。ぼうっと考え込んでいると「なまえちゃんは上京したいとは思わない?」と士郎くんに尋ねられた。
「わたしは、いい」
「そう?」
「うん」
 特に理由はなかった。ただ、小さい頃は何処にでも行けると思っていたわたしと正反対の士郎くんが、十年たったいま真逆になっていることに少しおどろいていた。これが成長っていうやつか、などと、勝手に納得していた。
 特に理由はないけれど、やはり東京に行くのはこわいと思った。まして、ひとりで行こうとする士郎くんは無謀すぎるとさえ思い危惧した。わたしはこんなにもこわい思いをするのに、士郎くんの心配ごとは「電車の中ですることがない」ことである。そんなことが不安なら、わたしのアイポッドを貸してあげるのに。そう言ったら、なまえちゃんはたくさんアイデアを持っていてすごいと褒められた。

 つらいことの分だけ人はつよくなるのだろうか、とふと考えた。隣のクラスの仲のいい女の子が打ち明けてくれたのだが、昨年父親の会社が倒産し借金を抱えているなか、母が重病で亡くなってしまったらしい。暫く学校に来ずたいへんそうであったが、きちんと復帰して生活を送っている。国立大学を目指しているらしく、並の学力だったのが半年で学年五位以内に入ってしまった。つい最近彼氏が出来たと報告をくれたので、本当によかったと、幸せになってねと返信をした。結婚報告を受けたくらいの喜びがあったが、苦労してきた彼女なので本当に幸せになってほしいと思ったものだ。
 ふと、士郎くんとその友だちが重なったのである。そして、自分が甘ったれに思えてきた。どこからどこまでが甘えなのかはわからないが、そんなことを自覚した。
 士郎くんは大学に合格した。奨学金をもらいながら勉強していくそうである。都内でも安めの部屋を借りて、また花屋のアルバイトをするらしい。兄も春から継続して一人暮らしをして、この広い家にいる子どもはわたし一人だけになった。
 わたしはまた受験生になった。がんばるぞ、とまず世界史の参考書を買った。家で勉強することはほとんどなく、普段は全く行くことのなかった図書館へよく行くようになった。六月ごろになると日差しがつよいので、日焼け止めを塗ってカンカン帽を被って行く。肌が弱いよりも、日焼けがいやで自分で塗るようになっていた。図書館は光がよく入る明るくてきれいなところだった。二年前に新しくできたらしかった。壁側が全部窓になっていて、机につくと窓の外を見ながら勉強できるのだった。外には植木で隠れてよく見えないが、テニスコートがある。そのコートと図書館の間に、立派な花壇があった。名前はわからないが色んな花が咲いていて、勉強につかれるとよく花を眺めた。士郎くんもよくこの図書館に足を運んでいたらしい。こうやって花を眺めてたりもしていたのかな、と一個上の士郎くんのことを最近よく考える。そういえば昨年士郎くんが東京に行くと言い出したとき、ビニールハウスの中で植物に囲まれている士郎くんを思い浮かべたことがあったが、士郎くんは今そんな感じで大学生活を過ごしているのだろうか。士郎くんが東京に出たのは三月だったが、それから三ヶ月間連絡をとっていない。新生活でとても忙しいのだろうと思った。ふと、わたしも士郎くんのいる大学に受験して、合格して、一緒に並木道を歩いているのを想像してしまった。そんなことになる確率は極めてひくいのに想像せずにはいられない。わたしは、士郎くんのことが好きなのかもしれなかった。

 結局わたしは地元の国立大学の法学部を受験し、合格をした。学費が安いのと近いのと入りやすいのが決め手だった。高校の友だちも同じ大学に多く進学したが、高校を出て就職する友だちも少なくなかった。大学は、はじめの頃は必修が多く授業の自由がきかなかったが、だんだん自分の都合で決められるのが楽しくもあった。法学部の授業は六法だったり買わなければいけない教科書が多かったり荷物が増えるのが嫌だったけれど、サークルに所属せずまっすぐ帰っていたのであまり負担にはならなかった。アルバイトは、友だちに誘われてコンビニで働いたりした。何人かの男性と付き合ったけれど、あまり長続きしなかった。なんとなく日々が過ぎていった気がした。

 二年の夏休みになって、士郎くんから手紙が届いたと母が喜んでわたしに見せてきた。そんなに前のことではないのに士郎くんのことをすっかり忘れていたわたしは、懐かしく思って手紙を手にとった。士郎くんの両親はきちんと離婚をし、今では別々に暮らしている。仕事柄、父親はあちこちを転々としているが、母親は今も実家で暮らしていて、士郎くんは今夏帰省するという。士郎くんの文字は達筆ではあるがはらいが長めの特徴的な文字であった。我が家にも寄ってくれるらしかった。
 それから、士郎くんは休暇のたびにこちらへ帰省するようになり、節目節目に会うようになった。携帯の連絡先も交換し、たまにメールを交換した。二年の十二月半ば頃、士郎くんは早めにこちらに帰ってきて、わたしに連絡を寄越した。駅前で会わないか、ということだった。わたしにもそれなりに経験があるので薄々感じてはいたが、その日、駅前の地元ではお洒落なほうの店で、士郎くんから正式にお付き合いの申し込みを受けたのだった。花言葉は覚えきれなかったが、愛を込めた花束を渡してくれた。ゆめみたいで、にわかに信じ難かったが、わたしはその言葉を受け止めた。
「なまえも東京においでよ」
「そんな簡単には行けないよ」
「心配しなくて大丈夫。一緒に方法を考えよう」
 導くように連れ出すように、士郎くんはわたしの手を引いた。外は連日雪が降っていて、若干イルミネーションが瞬いていて、士郎くんの瞳はそれらの光をよく映していてきれいだった。