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倫敦行きの船で頭を打った一真は一命を取り留めるが日本に強制送還される(1クリア推奨) 亜双義一真 / 大逆転裁判 | 名前変換 | 25min | 初出20150923-20160504・改稿20171005

願はずにはゐられない


1

 まだ寒さの弛まない一月末のこと。倫敦へ旅立ったはずの一真が、目的地である倫敦にも立ち寄らず急遽帰ってくることとなった。何をどうしてそうなってしまったのか、詳しい経緯は聞かされていないのだが、ざっくり把握した内容だと行きの船の中で頭をぶつけてしまった、ということである。なんとか一命を取り留めたものの、意識がしばらく戻らず本国へ強制送還される運びとなり、その旨は速やかに御琴羽家に伝えられ、わたしの耳にも届いたのだった。というのが、元旦を迎えたころの話である。御琴羽さん家のお父様とお祖母様は、この電報により冷水を被せられたように背筋が凍ったという。

 そして一月末、送還された一真が船を降り、東京の大学病院に搬送される予定の日がやってきた。わたしは一真と懇意にしていたこともあり、御琴羽さんらと連れ立って一緒に面会にやってきていた。医師の話だと、日本行きの船の中で意識を取り戻しはしたらしいのだが、どうにも錯乱してしまっていてあまり元気がない、というのが経過の様子だった。
 そわそわと全員その場で一真の帰りを待っていると、奥の外へ通じる扉がギイと重々しく開き、二、三名の看護師だかが一真を抱えてやってきた。御琴羽さんらは早速一真に駆け寄り、一様に優しげな言葉を掛けていた。そのまま病室へ入っていくと、なまえさんもおいでなさいなとお祖母様が声をかけてくれたが、わたしはまずはお二人でどうぞと言って遠慮をした。暫くすると二人ともが病室から出てきて、そのまま主治医と思われる白衣の男性について行く。これから私たちは説明を受けるから、一真くんを宜しく、と言われ、わたしはようやくその病室に足を踏み入れることができた。
「久しぶり」
 わたしは一真のいるベッドまで寄ってそう声を掛けた。一真は日本を出発した時と同じ学生服を着ていたが、赤い鉢巻は白い包帯に取って代わられた。挨拶の常套文句として、元気、と聞きたかったけれど、どう見ても元気と言える状態ではなかったので、やめた。
「きみは……」
 一真は苦しそうに顔を歪めた。そのまま言い淀み、黙ってしまう。「なまえだよ。斜め向かいで定食屋をやってる」わたしが自ら名乗ってみせると、一真はウッ……と唸って眉を寄せ、
「なんとなく、そんな気はした……」
 と、力なく答えた。
 その後一真は辿々しくも何があってこうなっているか、ということを、教えてくれた。といっても、彼も彼で突然目が覚めたらこのような状態だった、というわけなので、その話の殆どは彼自身も周りから聞かされた内容ということになる。まず、船室を訪ねてきたレディに突然突き飛ばされてしまい、意識を失ってしまったこと。次に、目が覚めたら見たことのない部屋に居て「きみは頭をぶつけて何日も意識がなく、今日本行きの船に乗っているんだよ」という衝撃の事実を伝えられたこと。最後に、その辺りのことは覚えているのだけれど、意識を失う前後や一部の記憶がすっかり抜け落ちてしまっていて、どうにもこうにもフワフワとした心持ちでいること、などを教えて貰った。
「ご飯はちゃんと食べれてるの?」
 一真の見掛けは最後見たときより随分痩せ細ってしまっているようだった。
「まあ……それなり、にだな」
 あまり食欲があるわけではなさそうだった。
「もう、何が何だか自分でもサッパリで」
「そうだよね……あ、そうだ、あの人に会ってみたら? ほら、大学で仲の良かった……成歩堂さん」
「なるほどう」
「わたし、呼んできてあげる。明日にでも大学へ行ってみて、一真のこと知らせるよ」
「なるほどう……」
 また、考え込んでしまった。まさか成歩堂さんのことも記憶が曖昧なのだろうか……わたしは、思わず変わってしまった一真の身を案じた。成歩堂さんは、よくうちの定食屋へきてくれていた人だった。飽きることなく一真と延々と語り合い、二十時に店を閉めた後はわたしも混ざって三人で麦酒を飲むこともあった。一真が留学へ行く前は、容疑者として逮捕されてしまった成歩堂さんを一真が弁護したんだっけ……。
 そう昔のことでもないことを、わたしはしみじみと思い返した。とても前のことのようにも思えるし、最近のことにも思えるから、年を重ねるとは恐ろしい。
「成歩堂なら、呼びようがない」
 ずっと黙っていた一真が、自らの創りだした重たい沈黙を振り払うように口を開いた。え、と返事をすると、重々しい様子で「電報に成歩堂のことはなかったのか……?」とわたしに問いただした。どうして留学とは無関係の彼のことが電報に書かれなければならないのだろう、とわたしは思った。
 すると、一真は思い詰めた表情でこう言った。
「成歩堂は……オレと一緒に船に乗ったのだ。倫敦行きの船に……コッソリと。それでそのまま大英帝国へ」
「まさか! 仮にそうだとしても、一真がこんなことになったら留学は中止なんじゃないの?」
「……それも、そうだ……」
 冴えない一真がいよいよ心配になってきたが、ずっと眠ったままだったのだから状況がわからず狼狽えるのも仕方がない。しかし、留学が中止にならなかったのはとても奇妙なことである。留学生無しで留学が続行するものだろうか。結局、次の日わたしは大学へ行って成歩堂さんを呼び出すことにした。学生部に問い合わせ、亜双義一真の面会にくるよう言付けを頼んだのである。しかし、彼は大学の講義に出席していないどころかしばらく下宿にも戻ってきていないという。下宿の奥さんには「岩手の親戚の家にしばらく行く」と伝え去っていたようである。
「それは……! 倫敦へ連れて行くときにオレが言わせた言い訳だ」
「それは覚えてるんだ」
 わたしは一真に林檎を剥いてあげた。新鮮で瑞々しい林檎である。奇しくも岩手産だった。
「成歩堂が倫敦へ向かっているということは、御琴羽法務助士もそのまま向かっているのだろうな」
「みことばほうむじょし……?」
「御琴羽さん家のお嬢さんだ……す……寿沙都さん、だっただろうか」
 一真の話によると、留学は一真と寿沙都さんの二人で行くものだった、らしい。つまり、成歩堂さんがまだ日本へ戻ってきていないとなると、寿沙都さんも一緒について行かざるを得ないのでは、ということである。
「へえ……そもそも、なんで中止にしなかったんだろう」
「問題は、そこだ。もしかするとオレは、成歩堂たちに死んだと思われているのかもしれない。なまえ、オレの狩魔はどこにあると思う」
「ああ、あの、一真の刀か。そういえば……何処に行っちゃったんだろうね」
「おそらく、成歩堂が持って行ったんだろう。親友の形見とばかりに、オレの信念を引き継ぐとでも言わんばかりに」
 一真のここまでの推理を聞いて、わたしは思わず笑ってしまった。「やい、ユーレイ」と言うと、「なまえ、茶化すんじゃない」と額を小突かれる。言う割に、一真も顔が笑っている。もう、ここまできたら笑うしか無い、というように。
 ついでに、弁護士の腕章も、ちゃっかり成歩堂さんに持って行かれてしまっているようだった。

 一真はほどなくして退院した。怪我も完治しており、問題なのは多少の記憶の混乱があるということだが、それ以外は問題がなかった。日付はもう二月の半ばであるが、まだまだ寒く春の訪れは遠い。
「なんとかして成歩堂にオレの生存を伝えたいのだが」
 一真は思案を巡らすが、電信や手紙を送ろうにも、彼らが倫敦のどこへいるのか全く見当が付かない。
「というか、日本に帰ってきて、死んだと思ってた友達が生きてたら、すごくびっくりするだろうね」
「驚きすぎて、今度はアイツが頭をぶつけるかも知らん」
 わたしは一真に餅を焼いてあげた。醤油をつけて、海苔を巻いて。何しろ、一真は今年の正月をちゃんと迎えていなかったのだ。一真は餅を頬張り、伸ばしながらも一生懸命に食べた。
 生きていただけでいいものの、一真としてはとても無念極まりないのではないかなとわたしはフト思う。倫敦へ行って成したいことは山程あったはずである。そして、一真のよろしくない企みに乗った成歩堂さんも、密航という許されざる罪を冒してしまったことにはかわりなく、日本に無事戻ってきたとしてタダで済まされるとも思えないのであった。もしかしたら、罪から逃れるために、英国にまで行ってしまったのかもしれない。
 でも、それはないか。わたしは思い直した。なぜなら、法務助士である寿沙都さんもご一緒なのだから。
 一真はすっくと立ち上がり、出かけてくると行って上着を羽織った。何処に、と問うと、御琴羽教授の元へ、とのことだった。倫敦にいるはずの寿沙都さんから手紙か電信が届いていないか、訊ねに行くようである。意気揚々と立ち上がったはいいものの、よろけて柱に頭をぶつけそうになったので、心配してわたしもついて行った。

 それから三日程経っただろうか。一真はわたしに「成歩堂に手紙を書こう」と言って便箋を持ち寄ってきた。
「一真、今忙しいんだけど」
 わたしはいつもの席に座る一真の鉢巻(いつの間にか包帯から鉢巻に変わっていた。どんなときでもコレがないと彼は駄目らしい)を引っ張って、勝手に座らないでくださいとお願いする。
 今日は、この町の冬祭りなのである。うちの定食屋含め商店街も賑わっているし、神社の周りには出店も多くあった。一真はそれを知らないのだろうか? ちなみに、うちではカレーライスにカツを乗せたカツカレーを祭り限定のメニューとして売り出しており、今でもお客さんで賑わっていた。
「すまなかった。オレもそのカツカレーとやらを食べてみたい」
「わかった。でも、今混んでるから、そこの席じゃなくてこっちに座ってくれる?」
 一真は子どものように素直に席を移動した。わたしは次から次へと入ってくるお客さんを案内し、勘定を済ませたお客さんを見送り、机を拭いて、またお客さんを案内し、注文をとった。注文といっても、大体カツカレーなのだけれど。
 厨房からあがってきたカツカレーを一真のいるところへ運んで行く。一真は目を見開いてしげしげと料理を眺めたのち、戴きますと両手を合わせ食べ始めた。
 わたしは一真が食べている間、忙しなく給仕を続けた。一真が食べ終わって少ししてからも、止まらない客足に手を焼いていた。
「下げるね」
 わたしは一真の目の前にある食器を持ち上げた。下げる以上は、勘定をして出て行ってもらわなければならない。飽く迄も一真は一人のお客さんである。
 すると厨房からわたしの妹がヒョッコリ顔を出した。お姉ちゃんコッチと手をこまねいているので、わたしはそのまま食器を持って奥へ下がる。
「なあにマツ、帰ってきてたの?」
「うん。ほらこれお土産」
 妹・マツは瓶に入った珈琲牛乳を誇らしげにわたしに見せてくる。妹は午前中から友達と祭りに遊びに出かけていたのだった。
「神社の横の出店だよ。お姉ちゃん珈琲好きでしょう。行って来なよう」
「無邪気に言うけどね、今うちすごく混んでて大変なんだから」
「あたしがお姉ちゃんの代わりするから行って来なよ」
「できるの?」
「できるよ!」
 マツは押し問答にも引かなかった。ろくに店番などしたことのないこの子に任せるのも気がひけるが、今日は特別祭りということもあるので、子どもの給仕も場が和むかもしれなかった。念の為母に許しを請うと、
「さっきからあなた一真さん待たせてるんでしょう、早く行きなさい」
 と逆に叱られ、わたしは渋々部屋に戻って普段着へと着替え、店に再度戻った。一真はお金を机の上に並べながらジッとしていた。
「一真、お祭行く?」
「祭り」
「神社のとこに珈琲牛乳売ってるの」
「珈琲牛乳」
「……行くの? 行かないの?」
 一真は恐らく、早くお代を払いたいのと、当初の目的である成歩堂さんへの手紙を書くのを達成させたかったのであろうが、そのどちらにも不可欠なわたしが戻ってきた途端に祭りだの神社だの珈琲牛乳だの言ってくるので、暫し思考が停止したのだろうと思われる。
「なまえが行きたいというのなら、ついて行くが……」
「お代だよね、はい丁度戴きました。手紙は、ここだと邪魔になるから別のところで書きましょう」
 わたしの言葉に一真は納得したように肯き、ガラリと音をたてて椅子を引き立ち上がった。

 わたしたちの家から神社まではそう遠くはなかった。毎年、正月に家の前で挨拶を済ませた後、一真と二人で初詣しに行ったっけ、とわたしは思い返す。子どもだけでも行けるような近所だったし、周囲の大人はみんな顔見知りというような雰囲気だったので、問題がなかったのだ。よもや正月から子どもを攫おうなどという輩も幸いこの辺りには居ないようであったし。
 神社に辿り着くと、そこは去年と変わらない盛況ぶりであった。まさか今年も来られるとはな、とは一真である。もし事故に巻き込まれていなかったら……今頃倫敦のお祭にでも参加しているかもしれない。
「それは、ないな」
 一真は白い息を吐きながらカッカと笑った。
 わたしと一真は神社横の屋台で珈琲牛乳を購入した。外気によりキンキンに冷えた其れは外で飲むのに相応しくないので、仕方なく持ち帰ることにする。境内の階段に腰掛けて、わたしたちはようやく便箋を広げ万年筆を手に取った。
「筆を取ったはいいが、何から書こう……」
「オレ、生きてました」
「唐突すぎるだろ」
 一真に強めに小突かれる。
「拝啓 成歩堂龍ノ介殿……突然の便りでさぞ驚かれたことかと存るが、私亜双義一真は存命し日本でしづかに暮らしております……」
「静かかなぁ」
「今頃貴様は倫敦で何を学んでいることでしょう」
「いきなりキサマときた」
「なまえ煩い」
 一真はそれからもさらさらと達筆に手紙を書いていく。もし自分の代わりに留学を続けていてくれているのならば成歩堂さんのほうが弁護士に向いていると思うから御琴羽さんと一緒にがんばってください云々こちらでは例年通り冬祭りが行われカツカレーを食べました云々早く刀と腕章を返して欲しいんだけど等々。積もり積もったことを徒然なるままに綴っていく。
「いや、こんなの届いたら成歩堂さんびっくりしちゃうね」
「驚きすぎて、今度はアイツが頭をぶつけるかも知らん」
 一通り文字を書き、一真は筆を置いた。しばらく読み返し、まあこんなものでいいだろう、と一人納得する。わたしは、成歩堂さんの幸運を祈って代わりにおみくじを引いてあげようと言った。そうすると一真は面白そうに頷いて「追伸 貴様の代わりにおみくじを引いてやった。幸運を祈る」と一筆添えて立ち上がった。
 巫女さんのそばに近寄りおみくじを引いた。引くのは、わたしに任せてくれた。えいやと筒を振ると「三十二」との番号札が出てきて、巫女さんはそれを見て「三十二」の引き出しより薄い紙を一枚取り出し此方に寄越した。その小さな紙を二人でまじまじと覗くと、そこには「末吉」との文字があった。
 微妙だね。微妙だな。わたしたちはそれを折り畳んで封筒へ入れた。
 お近くの郵便局へ足を運び、窓口で手続と支払いを行った。
「船で届けるから、結構掛かる?」
「やはり五十日は掛かるのではないか? 定期便が出る時々にも依るだろうが……」
 一真もわたしもウーンと唸った。五十日余も掛かってしまう。やはり、あまりにも途方の暮れるような距離に、今成歩堂さんは居るのだ。また、絶対届くという保証も難しい。長い船旅に、何が起こりうるかは分かったものではない。
「桜の咲く頃には、届くといいね」
「……そうだな」
 一真はふうと溜息をつき、次には、吹っ切った表情で前を向いた。短い冬の日の日暮れは早く、町にはすでにガス燈の明かりがちらほらつき初めている。飲み屋などでは、祭りはまだまだこれからだと言わんばかりに、あたりにはおでんの匂いなども立ち込めている。
 今年も一真と桜が見られるんだな。わたしは少し嬉しく思った。できれば来年も再来年も、ずっとそこに居てくれたらいいのに。わたしは、願わずにはいられないのである。
 一真はふとわたしを見遣って、優しげに笑った。


2

 初春。今年も、春がやってきた。わたしは、相変わらず家業の定食屋で常連客と世間話をしたり、新しい料理を考えたり、そんな日々を送っていた。それは季節が移ろいでも変わらない。いつもどおりの日常で、違いがあるとすれば、ただ外が寒いか寒くないか、くらいのものである。それでも、春の訪れはやっぱり嬉しいものである。羽織ものの心配をしなくてもいい開放感は、秋や冬にはないものだからだ。
 空の高い心地よい日の昼のことだった。店の扉ががらがらと開いて、一真が入ってきた。そのとき店内には誰もいなくて、わたしは居心地の良い席で季刊の雑誌を読んでいたのだが、一真はそれを見つけるなりわたしの席の向かい側へ座った。その滑らかな動作は、まるで、家かのようだった。最近、彼がこうしてふと訪れることは、そう珍しいことではなくなっていた。
 彼はまだ肌寒い気候に耐えかねるのか、赤いセーターを一枚着た出で立ちだった。「おはよう」「おはよう」と挨拶をする。わたしはきりのいいところで雑誌を読むのをやめ、ぱたんと閉じた。一真が、あ、という顔をする。
「邪魔して悪かった。オレのことは気にせず、読んでくれてて構わない」
「いいよ。せっかく来てくれたんだから、雑誌なんて読んでたら勿体無い」
 わたしはそうして、珈琲でも飲む、と聞いた。彼は頬を人差し指で軽くかいて、こくんと頷いた。珈琲なんてメニュー、定食屋のうちにはないのだけど、一真も客のつもりで来ていないので、よいのだ。幸い他に客はいない。
 珈琲を一真に出してやると、細く開けた窓の向こうから、チチチチ、と鳥の鳴く声がした。
「暖かくなったな」
「ずいぶんね」
「桜もすっかり咲いてしまったしな」
 くるくると角砂糖をスプーンで溶かす。一真は一回だけそのまま飲んで、やっぱり砂糖とミルクを入れた。
「いちごを、御琴羽さん家からもらってきたのだが……今度食べに来ないか」
「あら、とっておいてくれてるの?」
 わたしは、ふふ、と笑った。「今から行った方がいい?」
「いや、明日がいい。これから病院に行かねばならん」
 あ、そうだったんだ。わたしは少し驚いた。こんなところで珈琲飲んでていいのかしら、と思いつつ、いいから来てるんだろうと思って、特に聞きはしなかった。
 一真は、一月に頭をぶつけ入院した(本当は、入院どころの騒ぎではなかったけれど……割愛する)。退院したものの、その傷と後遺症の治療のために病院には通わないといけないらしい。通っている大学も、運良くそのまま春休みという長期休暇に入ったため、一真は強制的に養生に専念しなければならなくなった。そういう事情があって、彼は本当に暇な毎日を過ごしていたのだろう、こうやってよくわたしのもとへ訪れては、世間話をしていくのだった。
 一真が珈琲をぐっと飲み干したとき。彼が鉢巻きをしていなかったことに、わたしは初めて気が付いた。病院に行くから流石に外したのだろう、とそのときはそう思ったが、それだけでは解決できない違和をわたしは胸の奥で感じていて、そしてそれは結果的に的中していた。彼はとても参っていて、夜も眠れぬほど思い詰めていたのだ。わたしが思うよりも、ずっと、深く。底知れぬ哀しみの奥に、あらゆることを置いてきてしまったかのように。

 わたしは翌日一真の家へお邪魔した。店番は同じく春休みの妹に任せた。彼女は多少の小言を言ったものの、最終的にはケロッとしてわたしの背中をぐいぐい押し、わたしを店から追い出してくれた。
 一真の家にあがるのは、いつぶりだろう。かれこれ、五、六年ぶりだろうか。一真が勉学に励むようになってからは、あまり一緒にいる機会すらなかったように思う。それでも、亜双義家の由緒ある平屋は立派だった。とても立派なのだけど……一真は、もう暫くのあいだ、この家でひとりきりだった。
 いちごは、今しがた水で冷やし始めたばかりだと言う。いいよ、急いでないし、とわたしは言った。一真は、縁側に通してくれた。開け放たれた襖のおかげで何畳もひと続きになった一間は、とても開放感があった。日陰になっているせいで暗くて、涼しかった。一真は先んじて縁側のほうへ行き、腰を下ろす。あれだけ逞しい体つきをしているのに、今だけはなんだか小さく見えた。
「昨日どうだった?」わたしは彼の隣に座って尋ねた。
「昨日」
「病院のことだよ」
「ああ……異常なしだ」一真は顎に手を添えて、一瞬押し黙ったのち、言った。「頭は」
 随分引っかかる言い方である。他が悪いの? とわたしは聞いた。彼は答えなかった。こういう風に黙る、ということは、きっとお医者に妙なことを言われたのであろう。直感的に判ってしまったので、わたしは彼が口を開くまで、もぞもぞと畳の上で居心地悪く足を組み替えたり座り直したり、色々した。それでも一真は口を閉ざしたままだった。
 足がしびれた。一真は平気なのかな、と思って見てみると、彼は縁側に足を投げ出していた。わたしも少しだけ彼との間合いをつめて、同じように足を出してみた。足が風に触れて気持ちがいい。すると、わたしの膝の上に、ひらりと花びらが落ちてきた。
 桜だ。
 上を覗きこむように見上げると、立派な桜の花があった。屋根が深いのと木の背が高いせいで、庭にあるのが桜の木だと気が付かなかったけれど、とても大きな桜の木がそこにはあった。そういえば、忘れていただけで、ここにはずっとこの桜の木があった。きっとわたしたちが生まれる前から、こうやって花を咲かせていたのだと思う。
 曇り空の白と桜の色の組み合わせは、なんとも言えず人を億劫な気持ちにさせた。
「最近、眠れぬのだ」
 一真は、フト、つぶやくように語った。
「昨日は睡眠剤を処方された」
 どうして眠れないの? と聞いた。一真は首を振って、わからない、と言った。わからないはずがないと、わたしは思う。言葉にできないだけで、おそらく彼にもわかっているはずだ。
「飲むの? お薬」
「飲まないつもりだ。だから、箪笥の奥に仕舞った」一真は眉を顰めた。「しかし、どうしようもない」
 一真は立ち上がり、そろそろいちごも冷えただろう、と言って畳を渡って台所へ入ってしまう。わたしはひとり、縁側で足を伸ばし、舞い落ちてくる桜の花びらを眺めていた。ひらひらと落ちてくるその花びらは、とても尊くて儚いような気がした。深く考え込んでしまう人を、もっと深いところへ押し込んでしまうような、そんな鬱屈さも孕んでいた。
 一真が籠を抱えて帰ってくる。籠を畳の上に置くと、瑞々しいいちごがころんと揺れた。真っ赤に熟れているはずのそれは、影を落としたこの一間では随分落ち着いた色合いに見えた。わたしも一真も、その紅い実を無心に食べた。
「オレは、どうしたらよいのだろうな」一真はひょいといちごを持ち上げ、へたを持って口の中に入れる。
「弁護士の腕章すらない、今や普通の大学生だ」
 わたしも同じようにぱくぱくといちごを食べた。「腕章がなくたって、一真は立派な弁護士じゃない」慰めるつもりはなかった。それは、本当に事実なのである。
「本音をひとつ言っていい?」
 わたしは一真に尋ねた。一真はいちごを口の中に含みながら、頷いてこちらを見た。
「わたし、一真には何処にも行って欲しくないよ」
 わたしの声は、ざあああ、という大きな風の音に攫われ遠くに吹き飛ばされてしまった。多量の桜の花弁が、大きな一間に吹き込んでくる。その大きな衝撃に、目を瞑って耐えていると、わたしの肩を暖かくて力強いものが包み込んだ。目を開けると、そこは一真の胸の中だった。一真の心臓は、確かにそこにあった。
「何処にも、行かないさ」
 一真は苦しそうに言った。
「行けやしない」
 じきに、風は止んだ。舞っていた花びらはふわふわと漂ったのち、しだいにそれぞれの場所へ落ち着き、この薄暗い場所にはいちごと桜の花びらと、わたしと一真だけが、しずかにしずかに佇んでいた。
 一真はひとつ息を吐くと、意を決したようにわたしを見つめ、その両手でわたしの肩を掴んで向かい合わせにした。
「よい機会だ。オレはずっと野心だけで生きてきたが、その野心が砕け散った今……身を固めてもいいのかもしれぬ。
 結婚をしよう。なまえ。おれたちならばよい結婚ができる。必ずやきみを幸せにする。それを、生きる糧としても、よいだろうか」
 わたしは、喜んで、と言った。一真は安堵したように笑って、手の力を緩めた。わたしは、彼のその言葉を、その景色を、一生忘れないようにしようと思った。もうわたしは十分幸せだった。これほど幸せに思うことなんて、生涯ないと思ったのだ。
「あ、わたしと結婚するなら、カツカレーくらいは作れないと駄目だけど、それでもいい?」
「え?」
「弁護士の片手間でいいから、暖簾も継いでね」
「まったく……わかったよ」
 そうして、二人で、桜を見て笑った。