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その生き物は、四つの足がついていた。
退屈に飽きた彼女とグラジオはタマゴを持ち出して、おとなの目をかいくぐりエーテル・パラダイスの外へ出てしまう グラジオ / ポケットモンスター サン・ムーン | 名前変換 | 24min | 初出20170403

すきとおった幼生

 まっさらに美しい銀色のスプーンと、まっさらに美しい白い皿のぶつかる音が広い空間に響いた。
「グラジオ様」
 給仕長は運んできた料理をホテルマンのような完璧な手つきで大きなテーブルの上に置いて置いていった。真っ白なテーブルクロスに少しの皺をつけて重ねられた皿の上の料理は、どれも恭しく盛り付けられたものばかりだった。野菜がたくさん入ったサラダ、ほうれん草のソテー、魚のムニエル、ビシソワーズ。給仕長が一通り皿の中身の説明をする。グラジオはそれを石のように堅く黙って聞いて、最後の皿までたどり着くと即座に「もう下がってください」と言った。給仕長は深々頭を下げ、キャスターをがらがら鳴らし部屋を後にする。がちゃん、とドアが閉まる音がして、カーテンの裏に隠れていたなまえが出てきた。
「ふう。今日こそ気づかれちゃうんじゃないかって冷や冷やしちゃった」
「大丈夫だ、もしバレそうになってもどうにでも誤魔化せる。それよりさっさと食べちゃおうぜ」
 グラジオはフォーク、なまえはスプーンを持って、それぞれ皿の中身をつっつきだした。それぞれ長所と短所を持ち合わせているその食器だが、二人は無理やり短所を捻じ曲げて分け合って食べる。「サラダめっちゃ食べづらい」なまえは悩みながら小さな葉野菜をスプーンに少しずつ乗せて食べていた。代わりにグラジオは、スープなんか飲めたものではなかった。
「最近なんか楽しいことあった?」
 なまえは世間話をグラジオに振る。いつも、こうしてご飯を食べるときに必ず訊ねる常套句だった。
「ない。いつも通り。あるわけないよな、こんな閉鎖的な空間でさ」
「わたしも。こんな閉鎖的ではね」
 二人は、今日もまたいつも通り、と諦めきって食事を摂り続けた。

 グラジオとなまえは、ここエーテル財団の本部に住み込みをしている身だった。グラジオは財団代表の息子として、なまえは孤児として生活のために。二人が出会ったのは、本部内にある保護区というところで、たくさんのポケモンを療養する一種のグリーンハウスのようなところだった。出会った時のなまえは、真っ白なワンピースを着てピィにごはんをあげていた。グラジオもまた、白いシャツに白いボトムスの格好をして、タマゴを一つ抱えていた(エーテル財団の大人たちは白い制服が割り当てられているが、子ども用の制服などはなかった)。大人ばかりしかいないこの空間で、歳の近い二人が打ち解けるのにそう時間はかからなかった。そして二人は子どもらしくいるために、些細な悪さをし続けた。その中のひとつが、グラジオの食事を二人で行儀悪く食べるという行為だった。
「最近あったことといえばね、わたし、世話を焼きすぎるみたい」
 十四時以降、なまえはまたグラジオの部屋に戻ってきてそう言った。九歳の彼女は、朝の九時から休憩一時間挟み十四時までの四時間、保護の仕事をすることになっていた。
「ミルクをあげすぎちゃったり、可愛がろうとして傷つけちゃったり……お世話って難しいんだね」
 グラジオは、家庭教師から与えられた課題をこなしながらそれを聞いていた。単純な計算式の並びに、鉛筆で数字を書き入れていく。
「おれも、母さんから貰ったタマゴが全然孵らないんだ」
 窓際の籠の上に置いてあるタマゴを二人して見る。バスケット編みの籠の中には、上品なパイル地のタオルが敷いてあり、その上にタマゴが少し斜め上に傾けられながら安置されている。微動だにしないそのタマゴは、生きているのか死んでいるのか判然としない。
「なんでかな」
「さあ」
「何のタマゴなの」
「……さあ」
 グラジオは仕方なさそうに首を傾げた。わからないのが当然で、そもそも「わかる」ということにたいしても諦めているみたいだった。
「母さんに訊いても、教えてくれない。父さん居なくなってからすごく冷たいから。妹にも会わせてくれないし」
 そっか、となまえは同情するが、彼女は彼の気持ちをうまく汲み取りきれてはいなかった。彼女にはそもそも親がいないのだ。親が居るだけでも羨ましいと思ってしまうくらいに、なまえは何も持っていなかった。
「なあ、おれたちの生活、楽しいこと、ないじゃん」グラジオは、先ほどの気持ちの暗さを振り払うかのように得意げに笑って見せた。「だったら、おれたちの手で楽しいこと作り出しちゃえばいい。そうだろ?」
「どうやって?」
 なまえは戸惑いながら手段を訊く。メソッドのない空っぽの希望に心を躍らせるほど、彼女は子どもではないようだ。グラジオは椅子から立ち上がって、なまえの側まで歩み寄った。なまえはグラジオをまっすぐ見上げたまま黙っている。
「ここを出るんだ」
「出る? エーテル・パラダイスを?」
「定期の貨物船に乗り込むのさ」
 グラジオは今度は壁の方へ行き地図を指差した。「貨物船はアーカラに行くんだ。毎日午後三時にここを出る」
「出てどうするの?」
「好きなものを食べよう。おれ、ハンバーガー食べてみたい。貯金も幾らかある。ポケモンセンターに行けば泊まれるさ」
 そこまで言い切って、年頃の少年らしく、にっと笑った。なまえも具体的な方法がわかって安心し、向日葵のような健気で明るい笑顔になった。
「三時だよね? あと三十分しかない!」
「早く行こうぜ」
 なまえは、働いて貯めた今まで使い所のなかったお金と着替えをひと組、鞄に入れた。グラジオは、お金とキャッシュカードとタマゴと着替えを適当にリュックサックに詰めた。しょっちゅうスパイごっこで遊んでいた二人は乗船所までの道のりを誰にも見つからずに進むことができた。問題は、どうやって乗り込むか、である。
 二人は船を目の前にして悩んだ。船の周りでは、財団の大人たちがせわしなく動いている。入る隙がしばらく見当たらず、二人は立ち往生した。しかし、都合よく転機はやってくるもので、積み荷を終わらせた大人たちは時計を見るなり「十五時まであと十分あるから、コーヒーでも買ってくるか」とぞろぞろと船を離れていった。船内に誰かいる可能性は捨てきれないが、勝機があるとしたら今しかない。なまえとグラジオは目を見合わせて深く頷き、足音を立てずに船に乗り込んだ。勘がよかったのか運がよかったのか、二人は誰にも咎められることなく貨物の一部に紛れ込み、船は無事出発した。定刻通り、十五時だった。
「やった!」
 囁き声で、二人は小さく手をあわせる。「普段からスパイごっこしててよかったね」「同感」そこから二人はいろんな話をした。アーカラ島に行ったら何をしよう。ハンバーガーを食べようホットドッグを食べようラーメンを食べよう。映画を見よう海で遊ぼうあちこち観光して回ろう。小声で夢を語り合う。真っ暗だったけど、楽しかった。ふと、グラジオが「あれ」と言う。どうしたの、となまえが訊ねると、「タマゴが動いてるんだ」と、彼は驚きの混じった声でそう言った。
「孵るのか?」
「ええっ、嘘、だったら、とってもすごいね」
「確かに。タマゴも、あの空間より外のほうがいいってこと?」
 ごとごと、ごとごと、タマゴは一定の間隔をあけて揺れたり止まったりを繰り返した。「船の中で孵られるのは、ちょっとな」グラジオはリュックサックの上からタマゴを撫でた。揺れが少し収まったようだった。
「ねえ、グラジオ」なまえは、不安と期待が入り混じった声で訊ねる。
「子どもが生まれるお母さんの気持ちって、こういうものなのかな」
 なまえは、暗闇の中で遠くまで想像力を巡らせる。「すごいどきどきする。こんなに嬉しい気持ちになったの、初めてかもしれない」
「おれも、そうかもしれない」と、グラジオも言う。芽吹いた命がようやく動きだすという神秘的な事象の尊さ。生き物が世界に初めて飛び出す一瞬に立ち会えることの素晴らしさ。はっきりと言葉で習わなくても、二人はちゃんと感じていた。
 その瞬間までは、二人とも神聖な気持ちでタマゴのことを思いやっていた。しかし、まだ子どもである彼らは咄嗟に自分の身のことを思い出してしまう。なまえは、親に捨てられた。グラジオは、父を失い母に冷たく当たられている。彼らの親だって、かつてこの高揚を味わったはずだ。生まれる瞬間はこんなにも喜ばしいものであるのに、一体なにがそうさせるのか。
 それが判るには、彼らはまだ幼すぎた。
 なまえは涙をひとすじ零した。グラジオは、泣かなかった。暗くて互いの顔もよく判らないほどだが、グラジオはどうしてかなまえが泣いていることがわかって、頼りなくこぶしをつくっていたなまえの手を探り当て慰めるように握ってやった。
「楽しいことが待ってる」
 グラジオは、タマゴを撫でて、なまえの手を握り続けた。グラジオの心臓だって、何かに押し潰されそうだった。今、この瞬間、誰か、強いものに抱擁してほしいくらいの悲しみを抱えていた。しかし、この場で頼りになるのは己の身だけだった。弱ったなまえと、まだ世界を踏みしめることさえしていない新しい命を抱え、彼は深く呼吸をした。

 今までのツケが回ってきたかのように、彼らは幸運に包まれていた。特に大きな困りごともなく、グラジオとなまえは船から降りることができ、アーカラ島の眩しい夕焼け空と太陽の中に飛び込んで行った。
 なまえは、先ほどの落ち込みが何だったのかというくらいに、明るくはしゃいだ。もう何年もエーテル・パラダイスの内側に閉じ込められていたのだ。見渡す限りの「自由」に心を踊らせないわけにはいかなかった。
「ここがカンタイか」
 グラジオは看板と観光案内所に踊る「カンタイ」の文字を見てそう呟いた。初めて降り立った地ではあるが、地図やインターネットでよく眺める文字だったので、そういう意味では目新しさはなかった。財団の施設に篭ることを強いられた彼は、暇をつぶすために卓上旅行をするしかなかった。一方なまえは、地図やインターネットすら自由に扱えない身だったので、なにもかもが新鮮に感じられた。
「まずは、ハンバーガーだね!」なまえはグラジオの手を引いた。飲食店の立ち並ぶ道を、女の子に手を引かれながら、グラジオは少し気後れしつつ付いて行く。彼はまだ九歳だったけれど、女の子と手を繋ぐことがどれだけのことか知っていた。先ほどは彼女が泣いていたから手を握ったものの、九歳の彼にとってはそれとこれとは別物のようだった。心を揺さぶられながら進んで行くと、ハンバーガー屋の愉快な看板が見える。すでに辺りは暗くなり始めていて、看板はライトアップされていた。
 グラジオとなまえは店内に入り、にこにこ笑う店員さんにハンバーガー二つとポテトを一つ、オレンジジュースを二つ頼んだ。お金は、今まであまり使われたことのなかった小銭入れからグラジオが払った。
「デートかな?」店員さんは笑顔でジュースを出してくれる。「八時までにはお家かお宿に帰るのよ。お外は危ないからね」
 はーい、と、二人は大人に向ける偽りの素直さで返事をした。
 テイクアウトの袋に入れてもらった袋はぽかぽかと温かかった。夜の潮風は少し涼しく、沈んでゆく太陽の煌々としたオレンジ色と深い深い青の闇のコントラストが見晴らしよく視界いっぱいに広がっていた。ビーチはほとんどひとけがなくなっていた。ざーっと返す浪の音がとてつもなく大きかった。隣で無邪気になまえがジュースを飲む音なんか聴こえないくらいに。
 ベンチに座って、海を臨みながら袋を開ける。作りたてのハンバーガーの、少し湿った食欲をそそる匂いがする。
 いただきます、と彼らはがぶりとかぶりついた。
「おいしい!」
 なまえが感嘆の言葉を漏らす。グラジオもハンバーガーを頬張りながら、「すごく美味いな」と相槌を打った。
 若い彼らがそれを飲み込んでしまうのは本当に一瞬のことだった。しかし、食べ終わった頃には陽は完全に沈みきっていて、街は夜の明かりが灯りはじめていた。いわゆるネオンサインで、ピンクや黄緑や青があらゆるところで踊っていた。目新しい夜の街は、二人を不思議な気持ちにさせた。
「……さ、ポケモンセンターに行こう」
 グラジオの言葉に彼女は深く頷いた。二人はポケモンセンターまで行って、毛布を借りて簡易ベッドに横になった。疲れていたのか、会話も交わさずすぐに就寝した。

 次の日、二人はコニコに向かった。今度はなまえがギョウザを食べたいと言い出したのだ。コニコに有名なギョウザの店があるということで、二人は洞窟を通ってコニコへ向かった。
 洞窟には島めぐりをしていると思われるすこし年上の少年たちが多くいた。地図を持って、お互い情報交換をしている。どこでディグダが出たとか、イーブイが何時頃いたとか、みんな自由で楽しそうだった。島めぐりもいいね、なんて、グラジオとなまえは他人事のように呟いた。
 洞窟を通り抜ける間、タマゴは落ち着きなく揺れ続けていた。あるときはグラジオの背中を叩くように、またあるときはグラジオから離れたがるように、その胎動は忙しない。グラジオもなまえも、どきどきしながら洞窟を抜けた。早く孵らないかな、そんな無邪気などきどきだった。
 コニコは異国情緒のある街だった。二人は観光案内所にまず立ち寄る。ギョウザ、ショウロンポウ、ユーリンチー、聞いたことのない料理の名前が、観光ガイドにはずらりと並んでいた。
「ギョウザだと、ちょっと外れの店になるのか」
 グラジオが地図を指でなぞりながら言う。
「はずれ? おいしくないの?」
 理解が及んでいないなまえに、グラジオは首を振って答えた。「違う。えーと、街から少し離れたところにあるってこと。ここ、海沿いだろ?」
「そういうのを、外れっていうの?」
 グラジオは、黙って頷いた。なまえの言葉の知らなさは、グラジオが知力をつけることに比例して年々酷さを増している気がしたが、本当に仕方のない理由があった。彼女はエーテル財団の保護下でろくに教育を受けていないのである。
「そっか。仲間外れ、の外れに近いのかな」
 頭は決して悪くない。「なまえは仲間外れじゃない。ギョウザ食って元気出せ」肩を叩いてやると、口を尖らせながら一応笑顔を見せた。
 美味しいと評判の店で、二人はギョウザ定食を頼んだ。これは、なまえが幼いなりに稼いだ給料から出された。初めて味わうギョウザは肉と野菜の甘みや旨みがぎゅっと詰まっていて、子どもの舌が嫌うわけがなかった。海を眺めながら、二人はギョウザを食べた。
 グラジオは、ぼんやり考える。ギョウザを食べ終わって、この店を出た、その後のことを。そのうち、近いうちに親に捕まってこっぴどい説教を受けるのだ、と。グラジオの母であるルザミーネが、グラジオだけでなくなまえに対しても、彼女の親の代わりで叱るのだろう、と。二人の冒険の始まりは、あまりに衝動的だった。しかしグラジオたちは、これをやったらどうなるのか、どんな未来が待っているのか、船に乗る前に考えなくもなかった。一応この無茶な旅行計画も、考えた上で敢行したことにはなっている。ただ。
 グラジオは、この行動の正しさを未だ信じきれないでいる。
「ねえグラジオ。最近何か楽しいことあった?」
 なまえが口にしたのは、お決まりの言葉だった。
「なんて、昨日からずっと一緒だったし、ずっと楽しかったよね」
 ああ、と空気が抜けていく風船のようなか細い声でグラジオは彼女の言葉に答えた。「毎日、こうだったら良いのにね」なまえは、ほとんど泣きそうだった。グラジオも、泣きそうになった。スープは味がしなくなった。隣の椅子に置いているタマゴは未だことことと揺れている。いつ孵化するか、まったくわからない。気落ちした二人はその揺れ動くいのちをどうしようもなく眺めていた。

 二人がエーテル・パラダイスに連れ戻されたのは、ギョウザを食べたその日のうちだった。脱走ルートもはっきりしていたし、アーカラ島はもとより狭い。子ども並みの行動範囲の二人を捕まえるのは、赤子の手をひねるよりも簡単なことだった。あの孤島に連れ戻されるまでの海の旅は、外の見える船室を宛てがってもらったのにも関わらず、真っ暗な倉庫で過ごした往路より鬱屈としたものだった。二人はエーテル・パラダイスにつくと、それきり引き離されてしまう。
 そのあと、グラジオはルザミーネの部屋まで連れて行かれた。ルザミーネは最初こそグラジオの頭を撫で無事戻ってきたことを喜んでいたが、次に「二回めは許さない」と強めの叱咤を飛ばした。親として叱っているのではない、と、幼いながらもグラジオは感じてしまった。だって、その瞳がおかしかったのだ。どういう意図があるのか、さすがに言葉なしではっきりとはわからなかったけれど、愛情をもって言っているそれとは別物のように思われた。
 タマゴは帰りの船でもルザミーネに叱られている間もグラジオの背中で不定期に揺れ続けていたが、グラジオが部屋に戻りリュックサックから取り出した途端、割れ目が入った。グラジオはベッドの上にタマゴを置いて、その割れゆく様をじっと見つめた。ひとかけら、またひとかけら、小さく入ってゆく亀裂と比例してどんどん大きくなっていく穴を覗けば、硬い物質が粘膜に覆われうごめいている。グラジオは息を呑み、とっさに籠の上にタマゴを戻して、それを床の上に置いた。座り込んで眺める。その殻の上側が割れ切って、生き物が出てくるまで約三時間ほどかかった。
 その生き物は、四つの足がついていた。
 色は、茶色や黒などの落ち着いた色だった。
 顔は、仮面のようなもので、覆われていた。
 グラジオは、その生き物の表情を覗き込んだ。生まれたばかりで訳がわからないのだろう、彼(彼女?)はぼんやりグラジオのほうを見ている。もしくは、ただ顔を向けている。視力があるのかどうかさえ、わからなかった。グラジオはその生き物の前で手を振ってみた。生き物は無反応だった。
 というか、これはなんのポケモンなんだ? グラジオは疑問に思い、ポケモンの図録を取り出して一体ずつ照らし合わせてみる。四つ足のポケモンはたくさんいたが、このポケモンはどれとも一致しなかった。この図録には最も有名で数の多い三百種しか載っていない。このポケモンは、なんだかよくわからないけれど、かなり珍しいのだ、ということだけがわかった。
 グラジオは、叱られたばかりだったが、タマゴが孵ったことをルザミーネに報告しにいった。どんなポケモンか訊ねたかったし、単純に喜んでくれると思ったのだ。だって、何もしらない自分やなまえでさえも、「タマゴが孵る」ことに言い表せない感動を覚えたのだ。母に覆しようのない美学や強いポリシーがあるにせよ、同じように喜びを感じるはずだとグラジオは信じて疑わなかった。
 しかし、ルザミーネは「それ、わたくしに預けてちょうだい」と表情ひとつ変えずに言った。グラジオは、焦燥にも似た苛立ちが腹の底から湧き上がってくるのを抑えきることができなかった。
「なんでだよ。というか、言うことはそれだけ? このポケモンは、おれのだ。母さんがくれたんじゃないか」
「それはもともとはわたくしのであり、エーテル財団の財産でもあるのよ……さあ、お渡しなさい」
 いやだ、とグラジオは言い、ポケモンを抱いて後ろに下がった。
「聞き分けのわるい子はきらいです」ルザミーネは、どんどん氷のような冷たさを帯びた表情になってゆく。「それは、あなたが持っていていいものじゃないのよ」
「それとかものとか言うな。こいつだって生きてるんだ。おれが孵したんだ。おれが、生まれる瞬間に立ち会ったんだ」
 ルザミーネは、何も言わず冷たい目線をグラジオに向けている。
「こいつだって世界を見たいはずだ。おれだって……おれは十一になったら、ここを出る。こいつを連れてな」
「あら。島めぐりをするなんて言うんじゃないわよね? あなたは勉強をして将来研究者になってもらわないと困るの。なんのためにわたくしがアローラにきたか……あなたにはよく聞かせたでしょう?」
「聞いた、と、賛同した、じゃ大きな違いだな」
 グラジオは顔を引き攣らせて口からでまかせを言った。これは、この間教育の一貫で読まされた本の一節だった。このときばかりは、本ばかり読んでいて良かった、と思う。ルザミーネは、その綺麗に凍りついた顔をついに歪めた。
「口ばかり達者になって! どうしてわからないの? 島めぐりなんてしたって、トレーナーをやったって、将来なんの役にも立ちはしないのよ!」
「うるさいな! そんなの母さんに何がわかるっていうんだよ! 未来が予見できるのか? じゃあなんで、最悪な事故を防げなかった? 危険な研究ばかりして消えるよりマシだ!」
 ルザミーネはかっと怒りの表情を顔全体に浮き上がらせ、グラジオの頬を平手打ちした。一瞬だけ触れた手は冷たくて、硬くて、力はすごく弱かった。すこしだけヒリヒリしたが、すぐに引く痛みだった。しかし、心だけはきりきり痛んで、グラジオは泣く寸前まで追い込まれた。
 そのあと結局そのポケモンは取られた。ルザミーネは置き土産と言わんばかりに、そのポケモンの名前だけを最後グラジオに教えてやった。タイプ:ヌル。聞いたことのない、不気味な名前だった。インターネットでさえも、そのポケモンの詳細を教えてはくれなかった。
 ついでにグラジオは自室から外出禁止になった。もともと島に監禁されているようなものだったから、範囲が狭まったくらいで、今までの生活とそんなに変わりはなかった。唯一変わったのは、なまえが来なくなったことだった。グラジオは、洗濯物を取りに来たビッケを捕まえ、なまえがどうしているか訊いてみた。ビッケは、「わたしから訊いた、なんて、代表にはおっしゃらないでくださいね……」と声を顰めて教えてくれた。
 なまえは、ウラウラにできたエーテルハウスに連れて行かれたとのことだった。それは、二人が帰ってきた次の日の早朝のことらしい。本当は、なまえはすぐにでもエーテルハウスに移送される予定だった。しかし、偶然グラジオという新しい友だちを見つけ非常に仲良く過ごしている二人の姿をみたビッケが、なまえをここに残すようルザミーネに進言した。なまえは素直な性格だったことも幸いして、しばらくエーテル・パラダイスに残留することになったのだ。それが、なまえにとって良かったことだったのかは別にして。しかし、今やルザミーネは、グラジオの反抗的な態度はすべてなまえのせいだと思っている。そんなことはない。グラジオ自身は、ルザミーネのせいにしていた。
 無事で、よかった。グラジオは、すこしだけ安心をした。しかし、その後すぐに自身の無力さを呪った。自分に力がないせいで、おれはなまえを救ってやれなかったし、ヌルも守れなかった。いくら勉強を積み重ねて賢くなっても、身体が大きくなって力をつけても、目の前にあるものを守りきることさえできないのだ。それは世間を知らないこともあったし、自分だけで生きていく力がないせいだと思った。将来のための勉強、といっても、そんな自分に将来があるなんて想像できなかった。窓の枠に足をかけてさえしまえば、いくらでも終わらせることができる脆い生涯だ。
 グラジオは、十一になったらここを脱することを心に強く誓った。これは逃げや意地っ張りなんかではない。生きるために、ここを出ていかなくてはならないのだ。この真っ白い部屋にいては死んでいるのと同じだ。そして、守れなかったヌルを連れて、なまえを迎えに行くんだ。それまでにあと一年と少し。良い子を演じて、金を貯めて、まずは……追っ手に追いつかれないよう、すごく遠くまでいかなくてはならない。
 グラジオが溜息をつくと、給仕長が部屋に入ってきた。食事の時間だ。ひとりきり、の。