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飴細工師と大探偵(2クリア推奨) シャーロック・ホームズ / 大逆転裁判 | 名前変換 | 34min | 初出20171015-1102

Candy in love

 これを食べてくれなきゃ、悪戯しちゃうよ。笑いながら、探偵はディア・ストーカーの鐔を人差し指で跳ねました。わたしは射抜かれたように目を瞠り……否、彼から目を離せなかったのです。

 怪盗されたのは、恋い慕う人の面影のみならず。これは退魔の夜に起こった、とてもいじらしい悪巧みのお噺でございます。




 掃き掃除をする十月の朝は、兎角指先が冷えてしまいます。わたしは袖を伸ばして、なるべく手を外気から隠すようにして、落ち葉を掻き集めておりました。ひゅうと木枯らしが吹くたび、葉っぱは無情にも散っていきます。手早く塵取りに載せ、手早く塵箱に放り込むのが、この朝の仕事の醍醐味です。これは、遠い昔に祖母から教わったことでした。もっともそれは嫁入り修行の一環で、飴細工の修行の一環ではなかったのでございますが……。
 わたしが箒を片付け館に戻ると、コネットさんが受付の机の上でお勘定をしていました。「お釣り、もしかしたら足りなくなってしまうかも。足りなくなったら、二階の事務室にあるから。事後報告で構わないから、宜しくね」そう言ってマントを翻します。すれ違うコネットさんの妖艶だったこと……バーガンディの口紅と瞳のお色が合っていて、とても素敵でした。きっと、ハロウィンが近いから……もちろんいつもお綺麗なのですが、ここ最近は一段と麗しいように感じられました。コネットさんのお姿をできる限り見つめていますと、彼女はこう笑って言いました。
「そんなに見てもらっても、蝋人形以上に面白くなくてよ」
「あっ……! す、すみません」
「ふふ、いいのよ」
 コネットさんはそう仰られ、そのまま工房へ向かうところでしたが、嗚呼そういえば、とくるりと踵を返して戻って来られます。わたしは疑問符を表情に浮かべ、コネットさんの言葉を待ちました。
「貴女の飴、ハロウィンのときに売るのはどうかしら。ハロウィンまで、あと三週間ほどしかないけれど……」
「……! よ、喜んで!」
「そう、良かったわ。売り場とかもお任せするから……何かあったら、相談で」
 微笑まれ、工房に戻っていくコネットさんを見て、わたしは深々とお辞儀をしました。この蝋人形館に弟子入りをして、早数ヶ月。まさかわたしの飴細工をこうしてお披露目することができるなんて! わたしは、嬉しすぎてどうにかなってしまいそうでした。このよろこびを、早くあの方へ伝えてしまいたい……わたしはつい、そう思ってしまって、すぐに正気に戻りました。いいえ、あの方へは、わたしの準備が整い、きちんと話が纏まってから伝えることにいたしましょう。お優しいあの方のことですから、きっと応援してくださると思われます。「頑張って」と言われるたび、わたしの心臓がもたない気がするのです。
 あの方、とは。実のところ、お名前を呼ぶのも人知れず念じるのも、憚られます。蝋人形館に一日蝋人形としてパートタイム勤務をされている、とてもハンサムな方がいらっしゃるのです。その方は、現実はさながら娯楽小説でも大活躍の、霧深いロンドンの街を今一番賑わせている、シャーロック・ホームズさまその方なのでございます。わたしは、一応職場の知り合いとして、ホームズさん、と呼ばせていただいていますが、これの心臓に悪いこと。彼の名をそう呼ぶとまた、さり気なく微笑まれたりするので、わたしは余計に虫の息となってしまいます。

 大探偵のホームズさんが、なぜこのようなお仕事をされているのか、わたしはその理由を聞いたことはありませんが……きっと探偵業の一環か小説の広告の一環なのでしょう。ホームズさんの一日蝋人形はとても人気で、来館者の減る昼間の時間帯以外はつねにお客様の相手をされています。一シリングで、なんと一緒にお写真も撮ってくださいます。わたしも嘗て、一雫ほどの勇気を振り絞って、ホームズさんに一シリングお渡ししたことがあります。「あの、わたしは従業員なのですが、ぜひお写真を……」そう伝えた言葉は小さくて聞き取りづらかったかと思うのですが、ホームズさんは気前よく「もちろん、構わないよ」と言って、三脚に立てたカメラのシャッターを切ってくださいました。わたしはお礼を言って受付に戻ろうとしましたが、「ちょっと待って、ミス・なまえ」とホームズさんに片手を捕まれ、引き戻され、わたしはもう一枚、お写真を撮っていただきました。
「先ほどのは、貴女の分。そしてこれは、僕の分ですよ。お付き合いいただいてありがとうございます」
「と、とんでもございません……」
 わたしは受付に逃げ帰りました。ど、どのような意味での「僕の分」だったのでしょうか。器の大きな探偵さまのことですから、きっと今のは素敵なお心遣いで、深い意味などないのでございましょう。ともあれ、わたしの手元にはお写真が一枚残りました。不器用な笑顔の自分は置いといて、これでホームズさんのことをいつでも好きなときに見ることができてしまいます。言うまでもなく、わたしは浅ましいほどの恋煩いをしていました。労働階級のわたしからしたら言うに言われない、無論叶うこともありませんが、彼の姿は、一目見ただけでわたしの今日の活力になるのです。




 時の過ぎるのは早いもので、あっという間に、ハロウィン前日となってしまいました。コネットさんのご好意で、夕方の受付番はコネットさんにお願いし、わたしは展示と販売の設営をおこなっていました。設営は無事終わり、なんとか閉館直前にはわたしも受付に戻ってくることができました。コネットさんは、「明日は楽しみですねえ」とにっこりされ、工房へ戻っていかれます。コネットさんも、わたしの飴細工を心待ちにしてくれている。わたしのわくわくも、より一層高まったような気がいたします。
 とはいえ、わたしにはまだ閉館作業がございます。閉館の時間になりますと、わたしは館の表口に出ている看板を下げ、施錠を行い、ガス燈の明かりを落とします。いつも通りのその所作を行うと、受付に戻ってお金の整理をいたします。その頃になるとようやく、恐怖の間からホームズさんがお目見えになるのが常です。
「お疲れ様です、ミス・なまえ」
「お疲れ様です、ホームズさん」
「野暮な用事で申し訳ないが……」
「いえいえ、わかっておりますよ」
 わたしは、ホームズさんの本日の手当てが入った封筒をお渡ししました。ホームズさんの一日蝋人形のお仕事は、基本的に日雇いの扱いになっています。とはいえ、この方は週四日くらいはこうしてお仕事をされていかれるのですけれど、その度に日給をお渡しするのはわたしの役目でございました。
 ホームズさんが封筒の中身を確認されている最中も、わたしはやはり明日を思いわくわくしておりました。そしてつい、そのわくわくに任せて、ホームズさんに明日のことを口走っていました。
「飴細工? そうか、ミス・なまえはそれでマダム・ローザイクのもとへ弟子入りされていたのですね」
 探らない、優しい目つきでホームズさんは仰います。わたしは、よろしければ明日、ホームズさんも覗いてみてください、とお伝えしました。じつは、わたしは今回の展示用の飴細工を、ぜひともホームズさんに見てもらいたかったのです。それは憐れな恋心の末路かもしれませんが、わたしは自分の気持ちを他所においても、毎日わたしに笑顔をくださるホームズさんに少なからず感謝をしておりました。お世話になる、というほど関わりはありませんでしたが、とにかく、毎日ありがとうございます、と、いつの日かお伝えしたかったのです。
 ホームズさんはそれを訊いて、「明日は、レディ、行けないのですよ……」と仰られました。「事件の捜査があってね。詳しくは話せないが」
「そうなのですね。いえ、お気になさらず……よければ、すでに設営は終わっていますので、帰られる前に覗いていってくださいませ。恐怖の間の右隣のお部屋です」
「では有難く、拝見してから帰ることにしましょう」
 ホームズさんは革靴の音を綺麗に立てて受付を離れました。ふう、とわたしは胸を撫で下ろし、お金を二階の事務室に仕舞うと、コネットさんにご挨拶をして足早にその場を去りました。なんとなく、今またホームズさんに立ち会ったら居た堪れないな……と思ったからでした。何しろ、ホームズさんがご覧になられたのは……この間お写真に収めていただいたものを元に再現した、ホームズさんの小さな飴細工のお人形だったのですから。

 ついに、ハロウィン当日の朝がやってきました。わたしはいつもの通り館へ行き、コネットさんにご挨拶をすると、木枯らしの中落ち葉の掃除をいたします。そして受付へ行き、お釣りの準備、台帳の準備をします。整ったら、お釣りの入った金庫を施錠して館内の見回りとお掃除をしました。コネットさん威信の蝋人形が立ち並ぶ数々の間を、平常通り綺麗にして回ります。今日も、これといった異常はありません。幸先よし。とても平和な一日になりそうです。
「なまえちゃん」
 ふと、コネットさんに声をかけられました。
「今日は、飴細工のある部屋にずっと居て頂戴ね。受付は、わたしがやりますわ」
「え、でも……いいのでしょうか?」
「もちろん、飴売り場に貴女が居なければ、全て盗まれてしまいましてよ」
 そ、それは確かにそうです。わたしは困った表情で言葉に詰まります。するとコネットさんは、そういうことも承知の上で今日の販売を許可したのよ、と優雅に微笑まれました。お優しい、親愛なるお師匠のコネットさん。わたしは彼女のお言葉に甘えて、お釣りを一式持ってその部屋に向かったのです。
 そこまでは、よかったのです。事件は、そのあと発覚しました。この一件さえなければ、とても幸せな一日になったに違いないのに……、現実は、あまりに無情でございました。




 刑事さんたちが、飴細工の展示と販売の間を隈なく捜査されているのを、わたしは立ち尽くしてぼうっと見つめるばかりでした。隣には、ホームズさんのお子さんのアイリスちゃんが居ます。コネットさんは、蝋人形館のほうの接客をおこなっています。
 わたしは大変気がそぞろになって……本当にただの役立たずになってしまったのでございますが、この状況にいたるまでの経緯をざっと思い返してみました。
 まず、わたしは、飴細工の部屋に入りました。充分すぎるほどのお釣りと夢を抱いて、部屋の灯りを点けたのです。すると……昨日まであったはずの、あのお人形がありませんでした。
「あっ……ホームズさんがいない……!」
 あの飴人形はホームズさんをかたどっているだけであって、ホームズさんそのものではないのですが、わたしは驚きのあまりついそう口走っていました。動揺をするわたしの姿を見かけたコネットさんは、どうかいたしまして、とお声がけくださいました。あ、あの、人形が、としどろもどろになるわたしを見て、コネットさんはすぐに状況を悟られたようでした。そこから通報、刑事さんの到着までが息をつく間も無く早かったこと……それは、途中でアイリスちゃんが来館されたせいも、あったかもしれません。

 アイリスちゃんは、それはそれは可愛いおつかいを成し遂げるために、はるばる蝋人形館へ遊びに来てくださいました。
「なまえちゃん! トリック・オア・トリート! …………と、言いたいところなんだけど。なんだか、それどころじゃないみたいだねー」
 可愛いカボチャのかたちの帽子を被って、いつもと違うダウンスタイルの長い巻き毛をふわりと揺らしたアイリスちゃんは、わたしの姿を一目捉えるとそのように仰いました。どうしたの? と首を傾げるアイリスちゃんに、わたしはゆっくりと、なるべく落ち着いて経緯を説明しました。
「えっホームズくんの人形を?」
 アイリスちゃんは吃驚して目をぱちくりさせます。わたしは項垂れながら頷きました。そのときです。わたしたちのいる部屋に、警察の方とコネットさんが入ってこられました。
「現場は此方ですか」
「ええ。あとは中にいる彼女にお聞きいただければ」
「承知しました」
 わたしはコネットさんに駆け寄りました。あの、あの、ありがとうございます、とつっかえながらに伝えますと、「あとは、しっかりね。わたしは受付にいるから」と部屋を後にされました。わたしは深くお辞儀をして、警察の方へ向き直りました。
「初めまして、なまえといいます」
「どうも。ジーナ・レストレード警部です」
 わたしの言葉を受け、女性の警察の方が、帽子を目深に被りながらご挨拶をされました。とても知的で、冷静な方という印象を受けました。次に、隣に控えていた東洋の男性の方が軽く会釈をして、「カズマ・アソーギだ」と低くて響く声で仰せられます。こちらの方は、厳しく真面目な印象です。ご挨拶を終えると、わたしの作った販売用の飴を眺めていたアイリスちゃんが、ぴょんぴょん跳ねてこちらにやってきました。
「あーっ! ジーナちゃんに、あそーぎくんだ! 久しぶりなの!」
「アイリス!」
 レストレード警部は、きれいな形の瞳を丸くして、小さな女の子の名を呼びました。
「なんだ、せっかくかっこよく決めてたところだったのに。アイリスがいたら、嘘ってバレちゃうなー」
「あはは! ジーナちゃんは、そのままで充分かっこいいの」
 レストレード警部はさきほどの知的な印象から一転、おてんばな表情をお見せになりました。お隣にいるアソーギさんは、楽しそうに笑う彼女たちを見て小さく溜息をつかれています。
 兎角、わたしは唖然としてしまいました。アイリスちゃんはまだこんなにも幼いのに、警察の方とも深い交流があるのです。只管に感心するばかりでした。一頻り笑ったアイリスちゃんは、渋い表情のアソーギさんにも声をかけました。
「あそーぎくんって、検事じゃなかったっけ? もう検事辞めちゃったの?」
「いや。不本意ながら、一ヶ月警察の研修を受けているのだ」
「そうそう! で、あたしがボスってワケ!」
 レストレード警部がえっへんと胸を張ると、アソーギ検事はまた溜息をついてしまいます。しかし、彼はすぐにきりっとした表情に変わり、「さて、レディ、詳しいお話をお伺いしましょう」とわたしに向かって仰せになりました。
 わたしは、つい先だってアイリスちゃんにお話しした内容を、そっくりそのまま繰り返しました。この部屋にあった、ホームズさんの形の飴細工の人形が盗まれてしまった。発覚したのは今朝方のこと。この部屋は一晩中施錠がされていなかった。なぜか、販売用の飴のほうは無事だった。……。
 話し終えると、警察のおふたりは「うーん」と言って腕を組まれました。
「飴細工……量産品ではないのだな」
 アソーギ検事に訊ねられます。もちろん、わたしの飴はすべてわたしの手で作っています。機械を通さない、すべてが手作業です。
「つまり、芸術作品というわけだ。相当な値打ちがあったのかもしれぬ。何処かの貴族が貴女の作品に陶酔していて、それを知った者が盗んで転売をした可能性がある。銀行を当たってみて、高額の取引がなかったか調べてみるのはどうか」
 アソーギ検事の理論だった説明にわたしは感嘆してしまいました、が……わたしはその説を、俄かに信じられませんでした。だって、わたしは修行中の身。無名の飴細工師です。もちろんコネットさんの蝋細工に惚れ込む以前は、別のお師匠様のもとで飴を作ってはいましたが……、無名なことには変わりありません。
 わたしが口ごもっていると、アイリスちゃんが口を開きました。「誰かが物凄い愛の告白をするために持って行っちゃったんじゃない?」これにわたしは思わず苦笑い、レストレード警部は呆れ顔になり、ただひとり、アソーギ検事だけは意味が判っておられないようでした。
「ハロウィンの日に飴を贈ること、すなわちそれが愛の告白を意味するんだって、去年ぐらいから流行りだしたよねー」
「本当は、普段からお世話になっている人にあげて回るのが昔馴染みのやり方なんだよね。でもロンドン市民はみんな暇だから、ロマンス仕立てにしちゃったみたい。ま、あたしには縁のない話だけど」
 アイリスちゃんとレストレード警部は、アソーギ検事のために説明をされます。彼はあんまり興味がなさそうに、一言、奇妙な話だな、と呟きました。
「アソーギの言うことももっともだけどさー、値打ちのはっきりしない盗難じゃ銀行は動いてくれないよ。盗まれたのって結局、食べ物なんでしょ? だったら、とっておきの捜索方法があるよ」
「えっ、とっておきの?」
 レストレード警部の自信満々の提案に、思わずわたしは期待を寄せてしまいます。彼女はにこっと笑って、どこからともなく、一匹のワンちゃんを抱き上げました。
「トビーにおまかせあれ!」




 警察犬であるトビーさんが導いてくださったのは、ホワイトホールの検事局でした。皆さんが騒めくなか、わたしだけ状況をよく把握できていなかったのですが、どうやら辿り着いた部屋はとある有名検事の執務室のようでした。
「何故ここに……」
 アソーギ検事は、怪訝な顔をします。アイリスちゃんは得意げに人差し指をたてて「まさか、バンジークスくんが壮大な愛の告白をするために?」と囃し立てられます。
「貴族なのだから、普通に買ったらよかろう……兎に角、中に入ってみよう」
 躊躇わず、アソーギ検事は部屋の戸を開けられました。ギイ、と重たい摩擦音を鳴らし、その重厚な扉は開かれました。ちらりとお伺いできた部屋の内装は、とても高貴で、やはり大帝都の検事さまとなると執務室までもが立派なのだなと、わたしは呑気に感服してしまいました。
 お部屋の中心には、すらりと背の高い男性が立っておられました。中央にある机を覗き込んでいたようですが、アソーギ検事の立てた大きな蝶番の音に気付き、こちらを振り返られます。今しがたまで、事件の検証をされていたのでしょうか……とても、険しい表情でいらっしゃいます。
 その検事さまは、開口一番こう仰せになられました。「何しに来た……アソーギ『刑事』」
「……ボス、此奴が犯人です」
「ちょっとアソーギ、私情を挟まないでよ。……えーと、バンジークス検事。ご多忙と思いますが、捜査にご協力を」
 レストレード警部は、事の顛末をすべてお話になられました。説明が終わり、「心当たりありませんか?」と聞かれるまで、バンジークス検事は黙って耳を傾けておられました。
「……言うまでもないが、そういったシロモノは、此処にはないな」バンジークス検事は、わたしにゆっくり目線を移されました。「……残念ながら」
「うーん、今日ここに誰か来ませんでした? 関係なさそうな人でもなんでも、教えてください」レストレード警部が訊ねられます。
「ここには、殆どといっても良いほど来客がない。……そうだな、アソーギ検事」
「ええ、それは間違いない」
「しかし、今日はめずらしい来客があった。……あの、探偵だ」
 バンジークス検事は、今度はアイリスちゃんを見遣りました。アイリスちゃんは「えっホームズくん?」と吃驚されています。
「何かの調査をしているようだったが。はぐらかす性質の男だ、何も漏らさずに、高笑いをして去って行った」
 そのときのことを思い出されたのか、バンジークス検事は大きな手で半顔を覆いました。わたしたちの間には、しばし戸惑いの沈黙が流れました。

「ねえトビー、ホームズくんの人形だよ? ホームズくんじゃなくて」
 わたしたちは検事執務室を後にし、外に出ます。トビーさまに小言を仰ったのは、頬を膨らましたアイリスちゃん。トビーさまはつぶらな瞳でアイリスちゃんを見て、くうんとしょげたように鼻を鳴らしました。
 トビーさまに嗅いでもらったのは、わたしがホームズさんを象るときに使ったのと同じ飴でした。その飴は食用にとは考えてはいなかったので、作りたい色に近づけるために、絵具やら卵等の食材やらをたくさん混ぜて、とにかく色味だけを追求したものでした。そのため味も、そして匂いも、きっと唯一無二のものになっているはずです。そんな独特の匂いを嗅いで、追うべき道を間違えてしまうものなのでしょうか。
 みんなの無言の責めにしばらく背を丸めて申し訳なさそうにしていたトビーさまでしたが、突然顔をあげると、大きな声で吠え始めました。そして、レストレード警部の腕から抜け出し、一目散に駆けて行かれます。また匂いを掴んだんだ、とレストレード警部は言います。わたしたちは大慌てで、その道筋を追いました。

 次に辿り着いたのは……病院でした。
 セント・アントルード病院。わたしは今まで一度もお世話になったことはありませんが、名だけはご年配の方からよく聞きます。昔ながらの、由緒ある病院です。
 トビーさまを追いかけ、受付を通り過ぎます。不審と思われないよう、レストレード警部は身分証を素早く取り出し、周囲に掲げながら進まれました。
 辿り着いた先は、病室でも執務室でもなく、地下の研究室でした。……やはり、わたし以外のみなさんは、あまりいい顔をされていません。しかし手がかりはそこにしかないもので、とにかく入ってみようということになり、ノックをして扉を開けました。
 お部屋の中は、なんとも形容しがたい雰囲気が漂っておりました。骨格標本や、様々な動物の剥製、瓶の羅列……そして、どことなく、少しだけ異臭がします。その異臭を隠そうとしているかのようなフレグランスの匂いも、強く感じます。花の香りと、死の香り。果たしてそのように表現して、よいものか……。
 わたしたちの来訪に気づいた部屋の主、驚くべきことに女性のようでした、がこちらにやってきます。ペストのマスクをつけた彼女にじっと見つめられて、わたしはどきっと背筋が凍りました。女性は何も言わずに勢いよくマスクを上に引き上げました。真っ白な肌にお人形のような造りのお顔が現れ、わたしはマスクに凝視されたときよりもっと肝を冷やしました。
「……生きてる」
 女性は、葡萄色に飾られた唇を小さく動かして呟きました。
「グーロイネ博士、お久しぶりなの!」
 アイリスちゃんが愛想良く話しかけます。またしても、アイリスちゃんのお知り合いの方のようです。グーロイネ博士と呼ばれた女性は、「久しぶり、お嬢ちゃん。懐かしい人によく会う日ね、今日は」と、薄く微笑まれました。わたしたちは、飴細工の人形を捜していることをお話しします。しかし、グーロイネ博士はさきほどの検事さま同様、わたしの人形のことは露ほども知らない状態のようでした。
「ここに来るのは、変死体だけ」
 そう仰って、両の手の刃物をかち合わせます。わたしとレストレード警部は、驚いて半歩身を引きました。アイリスちゃんとアソーギ検事はびくともしない様子です。
「一応、あたしたちまだ生きてるんだけどな……」
「来客はなかったのか。本当に、ひとりも? 何か手掛かりになるかも知れん」
 グーロイネ博士は、手を止めました。目線を天井にやり、自身の記憶を隅から隅まで思い返しているようです。しばしの沈黙の後、彼女はこんなことを供述されました。
「あ、そういえば。さっきも来た……生きている人が」
「その者の名は?」
「……名前は、確か……シャーロック・ホームズ」
 彼女の回答は図らずも、迷宮入りを強いるもののようでした。わたしたちはまた、デジャヴのような沈黙に包まれ、グーロイネ博士の研究室を後にしました。




 手がかりを追って辿り着いたのは、かの大探偵の足跡のみ。わたしたちは止むを得ず、彼のもとを訪ねることにいたしました。この時間ならもう帰ってきているはずだ、とアイリスちゃんが仰るので、わたしたちはホームズさんの下宿へ向かいます。みなさん歩き疲れたのか、馬車の中はしんと静まり返って、車輪が煉瓦だたみをごとごとと叩く音しか聴こえませんでした。
 ホームズさんは、アイリスちゃんの仰る通りご在宅でした。
「やあ。どうしたんだい? みんな揃って」
 ぞろぞろと列を成して入ってくるわたしたちを見て、ホームズさんはそう仰せになりました。レストレード警部は咳払いをひとつして、「事情聴取だよ」と言いました。
「なまえさんの飴細工の人形が盗まれたの。トビーでその匂いを追っかけてたら、バンジークス検事の執務室と、ドクター・グーロイネの研究室に辿り着いた。……ホームズ、今日はどちらに?」
「今日は、事件の捜査をしに彼方此方へ出かけていたよ。依頼人への守秘義務のせいで、多くは話せないけどね……」ホームズさんは目を伏せられ、帽子を目深に被りなおされました。「まあ僕のもとに辿り着いたってことは、僕が午前中、検事執務室とドクターの研究室を訪ねたこともお見通しなのだろう」
 ホームズさんの駆け引きめいた口調に、レストレード警部は戸惑った様子を見せました。するとすかさずアソーギ検事が一歩前へ出られ「なら話は早い。俺たちは本来、飴の匂いを追っていたのだ。俺たちの調査は、シャーロック・ホームズが飴を持っている、という答えに辿り着いた。さあ、飴を出してもらおうか」と進言しました。
 ついに、追い詰めてしまった、とその場にいた誰もが思いました。しかしあろうことか、ホームズさんはそのまま腹を抱えて小さく肩を震わせたかと思うと、仰け反って大笑いを始めたのです。
「あっはっはっはっはっ! なんだ、そういうことならもっと早く言ってくれたまえ! 幾らカネのない僕だって、こういうときくらいは気前よく振る舞うっていうのに!」
「何のことだ?」
「ミスター・アソーギ、きみもきみさ。そういうときは、我を忘れてでもこう言うべきだ。『トリック・オア・トリート』とね!」
 アソーギ検事は、豆鉄砲を食らったようなお顔をされました。
 それからホームズさんは自身のスラックスのポケットに手を入れ、白い包みを取り出されます。包みを開くと、そこには色とりどりの飴がありました。
「あーっ! キャンディ!」アイリスちゃんは両手をあげて喜びました。
「本当はアイリスへのプレゼントだったのだけれどね……今日はみんなに楽しませてもらった。だから、仲良く分けて食べてくれ。アイリスへの埋め合わせは、今度何かしらすることにしよう」
 そう言って、ホームズさんは大きな手のひらの上にたくさんの飴を乗せ、順番に配って回りました。レストレード警部はおずおずと、「あ、ありがとう」と受け取られます。アソーギ検事は「礼を言う」と言いながら、一つとってそのまま口へ入れられました。アイリスちゃんは「埋め合わせはケーキがいいな」と言って、一際大きな飴を一個頬張られました。
 なんだ、ホームズじゃなかったんだね。レストレード警部は呆れながらそう呟きます。アイリスちゃんは頬っぺたを丸くしながら、そうだねー、とお返事されました。アソーギ検事は、黙って飴を懸命に味わっておられます。
「さあ、レディ」
 ホームズさんはわたしの目の前にやってきて、手を差し出します。彼の手の平の上で、赤や黄や青のころんとした飴が、ガス燈の明かりをきらきらと跳ね返しています。わたしは、赤い飴を一つ戴いてお礼を申し上げました。するとホームズさんは「一個でいいのかい?」と笑って、わたしの手に橙色の飴をあるだけ乗せてくれました。
「あ、あの……」
「……僕のコートの色によく似ているでしょう?」
「……!」
 それは、あまりに突然の問い掛けでした。ホームズさんの射抜くような目線に、わたしは心臓が止まる思いで向き合っていました。アイリスちゃんたちは三人で仲良く雑談をしています。わたしたちの間に広がる異様な空気は、わたしたち二人だけの秘密……そして、ホームズさんの仰りたいことも……きっとわたしとホームズさんしか判らない、罪深い秘密。
 わたしの飴細工の人形を盗んだのは、やはり、かのシャーロック・ホームズそのひとだったのです。
「ミス・なまえには話さなきゃいけないことがありますね」
 わたしは、黙って頷きました。ああ、なんて情けない顔なのでしょう、今のわたしは……。しかしホームズさんは、わたしのそんな頼りない顔を見て、その透き通った瞳を細めて笑ってはくれませんでした。
「どう、いたしましょう……」
「ちょっと待っていてください」
 ホームズさんは、何事もなかったかのようにアイリスちゃんたちの輪へ戻っていき、堂々と嘘をつき始めました。わたしの飴の捜索をホームズさんが探偵としてこれから引き受けること、差し当たってこれから捜査にあたるから暫くわたしと外出をすること。わたしでさえ初耳のその虚言を、アイリスちゃんもレストレード警部も、あのアソーギ検事までもが、一寸の疑いもなく信じられました。
「では諸君! またいつか会おう」
 わたしはホームズさんに片手を引かれ、エスコートされるかたちで下宿を後にしました。




 わたしたちはテムズ川を渡り、大きな公園へ入りました。正午過ぎの公園はランチを楽しむ市民がちらほらいる程度で、とても静かでした。今日はロンドンの霧も一際濃い日のようです。辺り一面、ハロウィンに相応しい、あやしい雰囲気を漂わせておりました。
 ホームズさんは立ち止まると、わたしのほうへ向き直ります。霧の中にいるホームズさんは、明るい中で見るより落ち着いた色合いに変貌した瞳を優しげに細め、わたしの名を呼びました。わたしが返事をしますと、何処からか人形を取り出されました。わたしが一生懸命作り、そして半日探し回っていた、恭しいポーズのホームズさんのお人形です。
「あ……」わたしは小さく声を漏らしました。
「これは、僕の写真を元に作りましたね? あのとき一緒に撮影した写真を……」
「ど、どうしてそれを……」
「このお辞儀は、貴女にしか見せたことのないものだからですよ。僕がどういう想いを込めてこのポーズを取ったか……判りませんか?」
 正直、判りませんでした。今でも判らないのですから、これを作り始めたそのときの自分に判るはずがありません。わたしはあのとき、本当に嬉しさに狂ってしまいそうでした。でもそれは、ホームズさんのお辞儀の意味を汲んだからではありません。ホームズさんの写し絵をいつでも好きなときに見ることのできる嬉しさに溺れていたのです。
 ホームズさんはそのまま話を続けられました。
「貴女が昨晩この人形を見せてくれたとき……僕は、これはミス・なまえからのお返事だと思ったのですよ。何せそれは『僕の想い』を象っているわけですから、僕の想いを彼女が汲んでくれて、飴でお返ししてくれたのだと判断したのです」
「……あ……! 飴……!」
「……違うのかな?」
 わたしは、ホームズさんの言い分を、そのとき初めてよく理解しました。飴を贈ること、それはすなわち愛の告白です。わたしは、無意識のうちにホームズさんに愛の告白をしてしまったことになっていて、且つホームズさんは、それを「自分の想いへのお返し」だとお考えです。
 違うのか、とホームズさんは二度お訊ねになられます。しかしわたしは、とんと困ってしまいました。だって、違うのに、違くないんですもの……自分でも何を言っているのか、よく判りません。なので、言うに言われなかったのです。
「少なくとも、僕は」ホームズさんは人差し指を額に当てて、思案するように続けられました。「なんていじらしいお返しなのだろう……と貴女を一層可愛く感じてしまったのだがね。しかしまあ、貴女の様子を見る限りだと、僕の推理はあまりにも鋭すぎて、逆に当たっていないようだ……。であれば、今度はもう少し判りやすくしましょう。
 ミス・なまえ、この飴を差し上げます。この場でこれを食べてください」
 ホームズさんは、ホームズさんの形の飴をわたしに差し出しました。飴を贈ることの意味。説明するまでもなく、明らかです。

 これを食べてくれなきゃ、悪戯しちゃうよ。笑いながら、探偵はディア・ストーカーの鐔を人差し指で跳ねました。わたしは射抜かれたように目を瞠り……否、彼から目を離せなかったのです。

 わたしは、どきどきと、恥ずかしさと、ホームズさんへの想いとで、どうにかなってしまいそうでした。そして、わたしには選択肢がありません。それはホームズさんに恋心を抱いている、だけではなく、そもそもこの飴は、食べてはいけないのです。鑑賞しているうちは美しいのですが、食べたら毒なのです……。逃げ場などもう、何処を探してもない。何故なら……帝都の大探偵が、その鋭い明察と賢さで構築した計画にて、わたしの退路を塞いでしまったからでございます。
 わたしは、緊張で身体が震えていました。睫毛をこまかく揺らしながら彼を見て、そしてこう言いました。
「食べられません……その飴は、食べ物ではないのです。ですから……謹んで、その悪巧みをお受けいたします」
 ホームズさんは首を傾げて微笑んだあと、帽子でわたしたちの顔を隠し、わたしの唇に口付けを落とされました。唇に触れたホームズさんの熱い体温は、飴よりも酷い、甘くて身の溶けるような毒でございました。