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心の支えになりたくて、彼女は彼の傍に寄り添い続ける 続きがあれば随時追加している。青獅子クリア推奨 ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド / FE風花雪月 | 名前変換 | min | 初出20191018-

アリア



1
 夕刻、菜園に行って野菜を摘んできた。戦火の日々、修道院に漂う重たい空気から逃れられる時間が、花の水遣りと野菜の収穫だった。ため息をついて土をいじると、彼女の手を避けるように虫が這い出てきた。可愛くない虫。でも、なまえにしてみたらそんなこと関係なかった。戦争という概念のない世界に生きられたら、どれほど好かったか。
 食堂に戻ると、そこはすでに甘い匂いでいっぱいになっていた。料理当番が肉を炒め始めている。野菜を抱えたなまえを見つけると、有難うそこに置いといて、と笑った。彼女は言われた通りに野菜を手放した。
 そのあと、すでに食卓について一息ついているシルヴァンに呼び止められた。「疲れただろ、お茶でもいかが? お嬢さん」相変わらずの軽い誘いに苦笑しながらも、なまえは隣に腰掛けた。シルヴァンは慣れた手つきで空いているカップにポットを傾けた。
 シルヴァンとの会話はまさに雑談だった。それ以上もそれ以下もないほどの、他愛ない会話だった。馬の話。昨日の食事の話。そして今日これから戴く食事の話。今しがたなまえが採ってきた野菜の話も。
 必然の流れで、なまえが先ほどの虫の話をした。するとシルヴァンは少し訝しい顔をした。それからお茶を二口飲んで、足りない分をまた注いだ。
「なまえは抱えすぎなんじゃないか」
 言いづらそうに、しかし意を決したかのように、シルヴァンは言った。
「戦争はみんな、つらいでしょう」
「あのな、俺が言ってるのは、なまえが抱えている人間関係のこと」
 なまえは一瞬だけ押し黙ってしまうが、そのあとすぐに口を開いた。
「そんなことないよ」
「でも、俺からはそう見えるぞ」
「好きでやってること……」
「まあ、そうだろうなあ。気持ちは判るよ」
 大げさにならないように、シルヴァンは少しだけため息をついた。「でも、殿下は変わってはくれないだろ」
 なまえは俯いて、静かにカップを下ろした。

 たしかあの日は、ファーガスらしいどんよりとした曇り空のひろがる、身が縮こまりそうになるほどの気温の低い日だった。帝国からの淡々としながらも着実な進軍に防衛をしながら、この日々にいつ終わりが来てくれるのか、先の見えない毎日を送っているところだった。
 殿下が生きているかもしれない。そんな報せを受けたあの頃の青獅子学級出身生は、なまえ含め全員修道院に戻った。しかし、そこに居た殿下は、皆が会いたがっていた殿下とは程遠い人物だった。
 それからというもの、殿下がその場に居なくなると、皆ありもしない空想話をし始めるのが恒例となっていた。五年間人と会話してなくて会話の仕方を忘れたんじゃないかとか、実は逃亡後仲間ができたけど酷い裏切りを受けたのではないかとか。本人がまるで何も話さない、関わりを持とうとしないので、邪推は邪推の域を出ず、その後何物にも発展しなかった。皆も、何も彼が嫌いでそのようなことを言う訳ではなく、何も判らない何もしてやれない、でも心配で、現実の彼が直視できないために、彼是理由を付けようとしているだけだった。
 しかし真に受けるなまえには耐え難く、殿下空想話が始まると決まって一番に席を外した。それで、よく大聖堂まで足を運んだ。崩れた屋根の欠片でできた大きな瓦礫の山の前には、いつも、殿下が一人佇んでいた。
 なまえが瓦礫の前まで通いつめる日々が始まって、一体どのくらい経っただろう。先生はよく殿下を気にかけてやっていたが、いつも冷たくあしらわれて終わっているように見えた。通りがかりのフェリクスに、あんなもの気に掛けるだけ時間の無駄だ、と言われた。メルセデスからは、お茶のお誘いは断られてしまったわ、と寂しそうな報告を受けた。皆、なまえが殿下を気に掛けているのは気づいていたが、だからこそ「やめておけ」と口を揃えて言った。五年前誰よりも殿下と打ち解けたなまえだからこそ、今の殿下に構ったら悲しい思いをするだろうと心配したのである。

 それで、冒頭に戻る。


2
 五年前のことを、思い出す。なまえとディミトリが打ち解けたのは、学級が始まってわりとすぐのことだった。お茶会に、なまえから誘った。
 芳醇な花の香りに包まれる中、ディミトリと向き合って座るのは幾分緊張した。なまえは騎士の家の子だが貴族と呼ばれる類のものではなかったし、家柄、士官学校に通うことになっただけだった。
 招いたなまえが茶の準備をする。席に着いたディミトリは静かにそれを見守っていた。ポットのへりを伝って零れ落ちないように注いだ甲斐があった。ディミトリがまず一口味わい、とても美味しいと感想を伝えた。なまえはほっと安心して、自分でも茶を口にした。温かくて渋みがなくて、鼻にローズの香りが清々しく抜ける、丁寧な茶だった。
 それで、悩みというのは何だ。ディミトリはなまえに真っ直ぐに問い掛けた。なまえは、この先理学と信仰のどちらを取るかで悩んでいた。あまり器用ではない自分のことを考えて、いずれどちらかを捨てなければならないと判断していた。しかしディミトリは「難しい問ではない。両方極めればいいことだ」と言った。
「ですが殿下、わたしにはそこまでの器量は……」
「無いと思うのか。俺は、お前ならやると思っている。大事なのは器量よりも、やれると思うことだと、俺は思う」
 そう言ってディミトリはまた一口、なまえの淹れた茶を口に運んだ。なまえはその流れるような仕草に暫く目を奪われた。ふと先の話題に気を戻した時には、心のなかの霧が晴れていたことに気づいて、また唖然とした。自分の余りの単純さにも、ディミトリの一言が余りにも強かったことにも。
「俺もひとつ、悩みを相談してもいいか?」
「え……はい、勿論」
 こんな立派で高尚な人物の悩みを、自分なんかが解決できるのか。しかし相談してくれたことが嬉しくて、なまえはひとつ返事で承諾してしまった。ディミトリはカップを少し脇によせ、机に肘を着いてなまえを見据えた。少しだけ縮まった距離に、なまえは獰猛な鷹に捕らわれたような気持ちになる。
「今一緒にお茶を飲んでいる同級生が、なかなか敬語をやめてくれないんだ。どうにかしてやめさせることはできないだろうか?」
「…………」
「なあ、なまえ?」
 なまえは、顔に熱が集まってくるのを感じた。手で口元を覆い、目の前にいる彼に勘づかれないように必死だった。そういえば、彼は確かに、何かにつけ周囲に畏まらないよう伝える努力をしているように見えた。しかし、結局誰も距離感を変えてこなかったから、なまえもそういうものだと思っていたところだった。
 ディミトリの言葉を真に受けるならば、周囲の思惑は悲しい勘違いに過ぎなかったことが判る。なまえは、それは流石に寂しいと感じた。そして幸いにも彼の願いは、彼女が勇気を持って行動すれば叶う範囲の願いだった。
 なまえが黙ってしまったので、ディミトリのほうも、やはり難しいものなのだろうかと思い始めていた。胸の奥が少しちくりとするが、ディミトリはそれを無視した。今に始まったことではないし、最初から諦めていたといえばそれまでだった。
「えっと……ディミトリ」
 ディミトリは伏せていた瞳をぱっとあげる。そんな彼の細かい挙動にも、なまえは少しおどおどしてしまっていたが、一度だけ恥ずかしそうに目を瞬いたら、気丈に話を続けた。
「こ、これでいいのかな……。慣れないからか、すごく緊張しちゃうね」
「……、有難う。そう言われると、何だか俺も緊張してきたな」
「ま、待って。ディミトリまで緊張しちゃったら、わたし、どうしたらいいか判らなくなっちゃう……」
「はは、俺も同感だ。早くなまえには慣れてもらわなければな」
 こそばゆくて、尊くて、涙が出そうになる。なまえは胸がぎゅっと詰まった。でも、目の前の彼は、とても嬉しそうに笑っていた。
「悩みを相談してもらえて、嬉しかった。これからももっと、頼ってくれ」
「う、うん……」
「緊張しすぎだろう。菓子でも食べるといい。幾つか良さそうなのを持ってきた……。遠慮するな。これなんか、甘くてきっとなまえの好みだと思う」
 差し出された菓子の味は、もはやなまえの記憶には留まることがなかった。ディミトリは安堵したようにカップを傾け、澄んだ茶で喉を潤し、楽しそうにこう言った。
「なまえと飲むお茶は美味いな」

.

 あのとき食べた菓子の味を、もっとちゃんと覚えておけばよかった。泣きたくなるほど思い出したい時がくるなんて、あのときの自分にはまったく想像する余裕がなかった。あれには砂糖の飾り付けがされていた。殿下の言う通り、甘かったに違いない。しかしなまえからしてみれば、彼とすごしたあの時間こそが、甘くくすぐったい掛け替えのないものだった。
 あの頃のディミトリは、なまえが勇気を出せば出すほどどんどん心を開いてくれた。無礼だなんて理不尽なことは一切言わず、なまえのまとまりのない話にも付き合ったし、時には冗談も言い合えるような間柄となった。なまえにつられ、他の同級生もディミトリと幾分打ち解けた。それが、彼にとって余程嬉しかったのだろう。「五年後、また再会しよう」星辰の節の約束は、なまえの心にも強く強く残った。

 しかしその五年後は誰もが思い描いていたものとは全く異なるものだった。合同訓練の後、やはり話題は殿下の話になった。訓練にも食事にも来ないとはな、というフェリクスの棘のある一言から、ご飯は食べているのかなとアッシュが心配し、まあ彼奴も餓死で死ぬつもりはないだろうしとシルヴァンが茶化し、そういえばとりあえずお部屋の前にカミツレの茶葉を差し入れておいたわとメルセデスが思い出し、お茶ではとてもじゃないけれどお腹は満たせそうにないわねとイングリットがお腹を擦りながら言った。誰も突っ込む気はないのか、青獅子らしいどこかずれた会話はそれで終了する。
 なまえはやっぱり悲しくなってその輪を離れようとした。すると「待った」と声が掛かる。シルヴァンだった。
「これ、持って行ってくれ」
 シルヴァンに紙袋を渡される。中には、ブルゼンが幾つか無造作に入っていた。
「行くんだろ? 殿下のところに。俺ら、もうなまえに賭けるしかないなって」
「ところでお前は、今まで何回、彼奴に話しかけてみたんだ?」とフェリクス。「一回も.......」となまえが答えると、フェリクスはふざけるなと言わんばかりに舌打ちし、皆は苦笑した。後から聞いたところによると、ブルゼンはフェリクスの奢りらしかった。
「大丈夫、殿下はなまえを待ってるよ」
 アネットは両手に拳を作って励ました。
「仲良かったんだもん。羨ましいくらいにね」

 そんな同級生からの後押しもあって、なまえは今までにないくらいの勇気を振り絞ることにしたのだった。
「五年振りですね、殿下」
 瓦礫を目の前にして暗い顔で佇む殿下に、なまえは勇気を持って話しかけた。彼は首をゆっくり回し、なまえを視界の端に捉えると、またゆっくり瓦礫のほうへ目線を戻した。なまえは、砕けそうな心を強く支えて再び話しかけた。
「あれから度々、五年前のこと、思い出していました。お茶会のことも、冗談を言い合ったことも……。ちょうど五年前に殿下が再会しよう、って言ってくれて、わたし、本当に嬉しかったんです。殿下の消息が判らなくなってから
、何度も何度も、叶えばいいのにって、願いました」
 彼は無言で瓦礫を見つめ続ける。
「多分、みんなもそうです。でなかったら、今頃集まってこなかったもの……。殿下、今までとても、お辛かったでしょうね。そんなことお前に何が判るって、きっとお思いでしょう。わたしには絶対判らないと思いますが、殿下が生き延びてくれて、本当に好かった。殿下、今もこうして生きててくれて、ありがとうございます」
 彼の横顔から、彼の感情は一切読み取れなかった。
 いよいよなまえの気丈な心も折れそうだ。この五年で、なまえは随分おとなになった。言葉遣いも、気配りも、精神面でも、歳相応に身に付けた。しかし、反応のない人間に話しかけ続けるのは中々に骨の折れることだった。なまえはディミトリに会えて嬉しかった。でも、あの頃の彼は、もう居ないのだろうか。思い出の中にしか、存在し得ないのだろうか。
 しだいになまえは幼かったころのように泣きそうになってしまう。一方的に話しかけておいて泣き出すなんて迷惑も良いところである。
「これ、どうぞ」
 とりあえず、仲間から託されたブルゼンだけは、殿下の胸に押し付けた。突然のことに彼は身構えたが、咄嗟に手が出たのか、紙袋は彼の腕の中に小さく収まった。
 なまえは声が揺れないように、「長々とごめんなさい。失礼します」と別れの言葉を絞り出した。背を向け早足で去ろうとすると、低い声で唸るように呼び止められた。
「待て」
 なまえは規則正しい人形のようにぴたりと立ち止まった。彼は少しだけなまえに寄り、身長の低いなまえを見下ろす。見覚えのある光景に五年前の記憶が重なり、そして瞬間的に消えた。
「この景色は、変わらないのにな」
「殿下……?」
「五年前を尊く思うのに、五年前と同じ振る舞いをしないのは何故だ? お互いに変わったからか?」
 怖い、と先ず思った。そして恐怖心も手助けして、なまえは自分が何を言われているのか、よく判らなかった。彼は少し苛立ったように息を吐くと、「あれだけ流暢にお膳を並べておいて、鈍いところはそのままなんだな」と言った。ますます訳が判らなかった。
「名前を呼べ。敬語を使うな。変に気遣うな。お前に距離を置かれると、無性に苛々する」
「どうして……?」
「俺と距離を詰めた五年前のお前の所為だろう」
 彼の言い分は屁理屈を極めた。しかし、そんなこと、今のなまえにとってはどうでも好かった。
「ディミトリ」
 呼びたかった名前を呼んだ。ディミトリの顔に少しだけ血の気が戻った気がした。
「ディミトリ」
 もう一度呼んでみた。信じられなくて、目の前がぼやけた。その温かい涙は引っ込みがきかず、ぽろぽろと頬を伝って落ちた。
 なまえはディミトリの手を取った。防具に固められていてよく判らなかったが、確かに彼は存在していた。
「ディミトリ、生きてる」
「俺は、死んだ。ここにいるのは妄執に取り憑かれた化け物だ」
「自分で名前を呼べって言った癖に」
「五年前には戻れない」
「判ってるよ……」
 一瞬戻ったように見えた顔色は、よく見ればすっかり元通りだった。冷たい瞳も決して優しくない言葉も、何一つ変化はなかった。しかし、もういいだろう、と言って、なまえの手を振り払うことはなかった。なまえが握っていたいだけ、ディミトリは左手を託し続けた。
「ところで、これは何だ」
 右手に抱え続けている紙袋を顎で指し、未だに尊そうに手を取り続けるなまえに問いかけた。
「あ.......それはね、ブルゼン。みんながディミトリに、って」
 ディミトリは沈黙する。
「好きでしょう? みんな、心配してるんだよ。ご飯も食べてないんじゃないかって」
 紙袋から、ぐしゃりと音がした。なまえは吃驚したが、不器用で馬鹿力の彼が動揺しただけだと直ぐに判った。余計なお世話だ、と吐き捨てる声は、小さく、少し上擦っていた。


3
 それから、なまえはディミトリの元に通い、五年前のことを思い出しながら懸命に話しかけ続けた。ディミトリも取り合うことにした様だ。二人の様子を、元青獅子学級の同級生たちは、陰ながら見守っていた。
 少しずつ昔の距離感を取り戻す過程で、なまえがよく思い出すことがある。あれは短い夏が終わりを見せた頃だった。
 馬の手入れのあとに、なまえとディミトリは食事を一緒にとることにしていた。いち早く手入れを済ませたなまえは食堂の前でディミトリを待っていた。角弓の節、夕陽に包まれた修道院に涼しい風が吹いた。じっと待ち人を心待ちにするなまえの前を、幾多の男女が通り過ぎる。どれも見かけたなまえが恥ずかしく思うほどの仲睦まじさである。士官学校の生徒は、今までこんなに浮き足立っていたっけ。そういえば、同級生の誰かがこう言っていたっけ。誰それが付き合い始めたとか、もうキスまで済ませたとか、そんなような話を。
「すまない、待たせたな」
 駆け足でディミトリが寄ってくる。なまえはぱっと顔をあげた。ディミトリの姿を見ると、なんだか不思議と落ち着いた。先程までのそわそわも、何処かへ消え去ったように思えた。
 なまえとディミトリはそのまま食堂に入り、配膳に並んだ。その際にディミトリが合流前の出来事について語ってくれた。花の手入れをしていたディミトリは、ジョウロの取っ手を曲げた上に、傷んでいる葉をもぎ取ろうとして枝ごと折ってしまったらしい。なまえの常識ではありえない状況に、彼女は驚き、笑った。ディミトリは反省をしていたが、なまえが笑うのでつられて笑った。
 食事を受け取り席を探し始めると、なまえも合流前の出来事を思い出してしまう。多くの席に漂う、甘く浮いた空気。そこかしこに、生まれたばかりの関係性が、その勢いを見せつけているようだった。二人は適当な席につき食事をとり始めたが、何かの話をし始めるにつけ、周囲の愛の囁きが合間に入ってしまう。流石のディミトリもこれにはやや圧倒され、食事を終えるとすぐ「少し散歩しないか」となまえを誘った。なまえが断る理由は何も無かった。
 暗くなり始めた空の下を、二人はゆっくり歩き始めた。何処に行く宛もなく、また暫く会話も無かった。先の異様な雰囲気に圧されたこともあったが単純に腹が満たされて頭が働かないということもあった。
「知らないうちに、青獅子学級も目まぐるしく人間関係が変わり始めてきているのだろうか」
 ディミトリが複雑な表情で話題を切り出してきたのは、寮の前まで歩いてきたときだった。
「わたし、鈍いからよく知らないけど、女の子と話しているとたまにそういう話題になることもあるよ」
「そうか。俺の耳には、入らなかったな」
「級長には言い難いんじゃないかな……」
「王子だからではなく、級長だからか」
「ごめん、どっちもかもしれないね」
 そうか、とディミトリは答え、身近にあったベンチへと腰掛けた。なまえも、空けられた空間に収まった。まだ夕食で賑わうこの時間帯に、寮の前は人ひとり通らなかった。
「でも、王子でも級長でもないけど、多分フェリクスは何にも知らないよ」
「……く、はは、確かに、そんな感じはするな」
 フェリクスには悪かったが、堪えきれず笑ったディミトリが見れて、なまえはほっと安心した。しかしその安心も束の間、ディミトリは楽しそうになまえを見て、こんなことを口走った。
「周りから見たら、俺となまえも恋仲に見えるのだろうな」
 なまえは突然混乱し始めた。身体は固まり、口は開いたり閉じたりし、瞳は泳ぎ、身体中を血が駆け巡った。夜の薄明かりの中、ディミトリが楽しそうに笑い、首を傾げて言ったのだ。意図もよく判らないし、否定するのもどこか違う。正解は、おそらく笑い飛ばしてしまうことだったのだろう。話の流れ的に。しかし、とっくに時期を逃してしまった。
「すまない。なまえをからかってしまったな」
 ディミトリはなまえの一部始終を観察し、最後にこう言った。ディミトリの表情は、なまえが初めて見る表情だった。猫を愛でるような、幼い子に向けるような、そんな眼差しだった。
「楽しいんだ、今が」
「今?」
「学校が。学校での生活が。お前と過ごす、こういう時間が。俺には、不釣り合いなくらい……そう思っても、やはり楽しいんだ」
「どうして、不釣り合いだって思うの?」
「それは、……つまらない話になる。なまえに聞かせたくない訳じゃない。俺が、なまえとの、この楽しい間に持ち込みたくないと思うような事情なんだ。でも……そうだな、卒業して、お前が無事城に仕えるようになったら、訊いてくれ」
 ディミトリの表情が切なげ歪んできたのを、なまえもまた観察していた。ふうん、と相槌を打って、なまえは少しおどけたように「恋人を騎士団に雇うんだ」と答えた。
「……なあ、俺は、なまえが時々判らなくなるよ。それは、期待をさせたいのか?」
「ふふ、全然難しいことじゃないよ。わたしは、ディミトリに笑っていて欲しいだけだもの」
「そういうことか。間違っても、俺以外の奴には言うなよ。勘違いされるからな」
「ディミトリは勘違いしないのかあ」
「まったく、紛らわしいな」


4
 手、繋いでいい。人気のなくなる夕刻のころ、なまえはディミトリに寄って願った。初めこそ「そんな子どもじみたこと」と拒んだディミトリだったが、なまえが諦めないのでとうとう折れた。好きにしろと言わんばかりに手を差し出す。なまえはそれを大事に握って、深く呼吸をした。
「いつも思うんだけど、普段はこんなに着込まなくて好いんじゃないかな」
「着込む?」
「防具のこと」
 なまえの疑問に、ディミトリは冷たく鼻で笑った。
「暢気だ。俺は今にでも単騎で乗り込んでも好いくらいに殺気立っているというのにな」
「流石にひとりじゃ無理だよね」
「ああ、そうだ。利用できるものは利用する」
「またそんなこと言って」
 なまえは無意識のうちにディミトリの手を強く握りこんでいた。ディミトリも反射的に握り返したが、すぐに力を抜き死んだような手に戻った。
「わたしが言いたかったのは、そうじゃなくて……。ディミトリの本当の手に触れてみたいなって」
「…………駄目だ。そういうのは、他を当たれ」
「ディミトリじゃなきゃ意味ないよ」
 ディミトリは手を振り払って、腕を組んでしまった。なまえは行き場のなくなった手を、胸の前で組む他なくなった。

 しだいに陽が落ちて、大聖堂は人工的な明かりで満ちた。食事の時間が迫ると、いよいよ此処は誰も居なくなる。そもそも威圧感溢れるディミトリが通る場所はさっと人が避けるくらいなので、大聖堂の中心部はいつも恐ろしいほど人が居ないのだが、この広い空間にディミトリと二人だけになると、世界に自分とディミトリだけ取り残されたような気持ちになる。
「俺の部屋に来るなら、篭手を外してやろうか」
 ぽっかり開いた天空を見上げ、ぼうっと星明かりを眺めるなまえに、ディミトリは少し悪戯っぽく訊ねた。なまえなら慌てふためいて「行かないよ」と断るはずと踏んでいた。ディミトリの部屋のある通路にはシルヴァンやフェリクスの部屋もあるし、見つかったら怪訝な顔をされるに違いない。さあどんな反応をするのか、ディミトリは暇潰しに眺めることにした。
「なんだか、すごく気まぐれだね」
 しかしなまえは目をぱちくりさせただけで、意地の悪さには全く気を掛けていないようだった。
「これだけ人を遠ざけておいて、一番大事なところは守らないのね」
「……お前こそ、真に受けた上で冷静なんだな。少しは慌てるかと期待したのに」
「やっぱり、五年前とは違うからね」

 それからまた少しの時間が流れた。お喋りではない二人の間にはしんとした空気が横たわり、外の冷気がそれをもっと神聖なものにした。破りたくない沈黙というのだろうか。それでも二人は何処へも行かず、なまえはディミトリの、ディミトリはなまえの、お互いの存在する空間を、ただ感じて過ごしていた。
「俺が、意地を張っていると思うか」
 最初に口を開いたのは、ディミトリだった。文脈が読めず突然の問だったが、きっと再会してからの自身の様子を指しているのだと思われた。なまえは、「判らないよ」と答えた。
「だって、ディミトリの気持ちは否定できないよ。行動は、なんというか、もうすこし前向きだったらな、と思うけど」
「そんな人生は、もう俺には縁がないな」
「それはディミトリがそう思っているだけ」
「お前は何も判ってない」
「うん。でも、わたしはディミトリに幸せになって欲しいよ」
「……それはまた、なまえがそう思っているだけ、だな」
「うん。そうだね」
 なまえが目を伏せたところを、ディミトリは盗み見た。月明かりに浮かぶ細い睫毛の陰陽に、ふと懐かしい気持ちを憶える。
 彼女の過ごした一年間。彼女のいろんな表情。温かい手。忘れていたようで、それは湖底に沈んだ日の目を待つ数々の宝石のように、掬えば戻ってくる大事な記憶だった。俺はこんなに素晴らしいことさえも、忘れようとしていたのか。目の前にいる幻のような彼女を見て、何もかもがちゃんと現実であることを確かめたくなった。
「わたし、わたしね」
 なまえは俯いたまま言った。
「この五年で、ディミトリが変わってしまったんだと思っていたけど、ディミトリはきっとずっとこんな感じだったんだね」
「ほう。級長の俺はこんな辛気臭かったか?」
「ううん。級長のディミトリは、楽しんでたよ」
「楽しんでいた……か。確かに、そうだな。今顧みれば、自分とは思えないくらいだ」
 うん、となまえがやさしく微笑んだ。
 ディミトリは、再会してから殆ど初めて、なまえにまっすぐ向き合った。すると左腕に付けていた篭手の留め具を外し、静かに床に置いた。色素の薄い手の甲は、青い夜の光に照らされより一層白く見えた。でも、確かにそこに在った。
「お前の望むままに」
 触れた手は、互いに冷たかった。寒風の夜空の下に居続けた所為だった。ディミトリの手はなまえより幾倍も大きかった。鏡合わせのように触れ合った手は、また直ぐに離れた。
 なまえは息を飲んだ。だって、想像し得ない光景を目にしたから。彼女の瞳に映るディミトリは、目を細めて微笑んでいた。しかし、直後に見た彼の表情は、寂しそうな疲れを溜め込んだ、最近のディミトリの表情に戻っていた。


5
 彼らの手がまだ温もりを持っていたのは、ちょうど五年前。ガルグ=マク落成記念日、舞踏会の夜である。周りの空気に流され何となく一緒に踊った二人は、こっそり大聖堂の扉を開け、手を取ったまま舞踏会を抜け出した。華やぐ空気を通り抜けすっかり静かな外に出てしまうと、二人は堪えきれず笑いだした。まさか自分たちが一緒に踊るなんて、という笑いだった。
「さあ、続きをしようか?」
 繋いだままのなまえの手をやさしく目の高さまで持ち上げ、ディミトリが冗談を言った。なまえは愉しげに笑った。
「踊るのは好きじゃないって、言ってたじゃない」
「お前と踊るのは別だ。何せ、少し強く引っ張ったとしても、俺を咎めたりしないからな」
 言って、くるりと彼女を回らせた。ディミトリは星辰の節に入る頃に、踊るのが好きじゃないと言っていた。性にあわないこともあるだろうが、女性に対する力の抜き加減が判らないからだという。しかし、今なまえを包む手の力強さは、決して弱くないながらも、なまえにとって心地の好いものだった。
 一通り笑いあった後、彼らは星がよく見える場所へ移動し、手を繋いだまま夜風に吹かれた。
「大人になったら、さ」
「ああ」
「こんなことも、言ってられなくなるんだろうね」
 突如として見せたなまえの表情の翳りを、ディミトリは心配に思いながら見ていた。
「好きでもない相手と踊って、誰かと結婚をして。わたしも、ディミトリも。お互い、いい出逢いがあると良いけど」
 なまえの切り出した話題に、ふと夢見心地から冷めてしまったように、二人とも黙ってしまった。感じるのは、手袋越しの互いの体温だけだった。
 その体温も、強い圧で捻じ曲げられ、よく判らなくなってしまった。ディミトリが、少しだけ握る力を強めたのだった。
 唇を軽く噛み、己の中にある勇気を掻き集め、ディミトリが切ない沈黙を破る。
「俺では、力不足か」
 心臓が飛び跳ね、なまえはたじろいだ。どういう意味、と訊き返す。数拍も置かずにディミトリは、俺はお前が好きだ、と言った。
 知っていたような気がした。だから、然程驚きはしなかった。それなのに、なまえの小さな心臓が脈を強く打つのは何故だろう。訳もなく哀しいのは何故だろう。
 なまえは、涙を零してしまった。これには、ディミトリも流石に焦った。一世一代の告白をして泣かれては、自分の処遇も不憫であるし、なにより身勝手に彼女を傷つけたということにもなってしまう。
「すまない」
 一言断り、手袋を外し、ポケットからハンカチを出して彼女の涙を押さえた。しかし押さえども押さえども、彼女の涙はゆたかな泉のように、清らかに溢れた。
「わたしも、好き。でも、わたしじゃ力不足だよ」
「何故……」
「ディミトリは、王子様。わたしには、何もないよ」
「……申し訳ない。配慮が、足りなかったな。でも……」
 でも。その後が、続かなかった。続けたい言葉はあるのに、続ける勇気がなかった。五年後、自分がどうなっているか判らない。心の底に復讐の炎を燃やしている自分に、なまえの大事な人生を預かっていいのか、判らない。でも。でも、でも、でも……。
 そのとき、なまえが鼻声で言った。ディミトリの手は温かいね。頬に添えられたハンカチとディミトリの手ごと、なまえは自身の手で包み込んだ。なまえの手も温かかった。彼女の伏せた睫毛を、月明かり照らした。
 このまま、美しいまま水晶に閉じ込めて、二人きりで居られたら好いのに。ディミトリは心の中でそう思って、なまえを腕の中に収めた。頭痛がして、頭の中を死者の声が木霊した。