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番外その4 未完作品 4min | 初出2016

Euphuism


 屋根のない道を歩くと、陽射しが肌に深く刺さる。霧深いロンドンにも、いよいよ夏の足音が聴こえてきた。それは221Bの下宿で迎える二回目の夏で、東の異邦人が来てからは初めての季節だった。彼は、ここの気候を「肌寒い」と言った。イングランドでの夏は短い。そしてあまり丁度いい気温というものがない。暑いか寒いか、どちらかなのであるが、こうして長年暮らしていると、今この瞬間が奇蹟的に感じることのできる「中間」であることが、なんとなく肌で判るのだった。
 ナルホドーは編入先の大学へ、アイリスは一応通っている学校へ出かけて行った。わたしは夏の中間レポートの締切が差し掛かっているころだったため、予定が入っていないときは、自室に籠もってせっせと物書きをした。東向きに面したこの部屋は、とても小さく涼しげである。ここはかつて物置として使われていたらしい。小さな部屋の長辺にぴたりと収まるように木で組んだベッドが置かれていて、それが部屋の三分の二を占めていた。残り三分の一は、本当に小さな木の机と小さなスツールがベッドのすぐ脇に置かれていて、ドアを挟んで対岸にクローゼットがあった。収まらない荷物はたくさんあり、必要な荷物はベッド下に入れ、それでも手に余るものはできるだけ売るか質に入れた。こういうわけで、とても狭いのである。
 一般的に見ても、とても狭い部屋である。しかし、この狭さを苦に思うことは、実はそんなにはなかった。元々質素な生活を好んでいたということもあるし、お気に入りはそう幾つもない。時折、この閉塞的な空間に窮屈を感じることもそれなりにありはしたが、居間のソファや机も自由に使わせてもらえるので困ってはいなかった。
 しかしこの夏、わたしは意図せず物置の部屋を出て行くことになる。シャーロックが、寝室を一緒にしないかと急に持ちかけてきたからである。
「え……あ……、え?」
 あまりに急だったので、わたしはこんな感じの間抜けな応答をしてしまった。まず、わたしは彼が部屋に入ってきたことに気づいていなかった。おそらくノックも足音もなしに入ってきたのだろう、知らないうちに、彼はわたしのベッドの上で優雅に本を読んでいたのだ。わたしが彼の存在に気づいて声もなく驚くと、「五分」と彼は言いウインクした。わたしが気付くのに五分掛かりました、と言いたいのだろう。
 話を元に戻すと、わたしはシャーロックに寝室を共にしようと大胆に誘われている。
「ねえ、よく考えてみてごらん、なまえ、僕の寝室が荷物で溢れかえっているよりも、僕らが一緒になってここに荷物を押し込んだほうがいいと思わないかい」
 押し込むって。
 シャーロックの突飛な説得に彼の雑な性格を垣間見る。彼の寝室と書斎は、今更説明されなくても判るほどに荒れ放題というのが常なのであるが、彼はつまり、その辺りをこれを機に片付けようと言っているのだろうか?
 彼のパーソナル・スペースの散らかり具合を言葉にするのは、とても難しい。一つ確実に言えるのは、その散らかった状態というのは、もう何年も続いているらしい、ということだ。これはアイリスが証言している。物が散乱しているのは勿論、埃が払われた形跡なども殆どないと思われる。なぜかというと、シャーロックに何か頼まれごとをされて立ち入るたびに、わたしは絶えずくしゃみを強いられるからだ。
 シャーロックは本を閉じ、膝の上に頼りなく乗せている。瞳は真っ直ぐこちらを見ていて、その表情には迷いというものがない。まるでとうの昔の、モノクロームの世界の果てに記憶を置いてきてしまったかのように。わたしがスツールに座ったまま戸惑っていると、彼は大人らしく笑って言った。
「毎晩僕と一緒が、そんなに恥ずかしいのかな?」
 わたしの心臓が高鳴るのとシャーロックに口付けをされるのは、ほぼ同時だった。唇は一度離されるが、寂しがるようにまた戻ってくる。何度も、何度も。そうしてシャーロックはわたしの唇に触れそうな距離で
「これが一晩中……続くだけじゃないか」
 と妖しく言った。彼の紅茶の薫りのする吐息がかかって、くすぐったい。
「本当にキスだけ?」
「まさか。その先も言わせる気かい」
 わたしは身をよじらせて彼の顔を避ける。彼の肩におでこを埋めると、彼は小さく「ごめん、ごめん」と言って、お腹を静かに震わせながら、楽しげに笑った。