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亜双義一真と死の馨り(1クリア推奨) 亜双義一真 / 大逆転裁判 | 名前変換 | 8min | 初出20170227

眩暈

 おつかいの帰りだった。銀座で奥様の口紅を受け取り支払いを済ませ、帰りに菊の花を買って帰るのが仰せつかった仕事の内容だった。お出かけ用の気品あるケープ付きのブラウスが、歩くたび風を受けるたび揺れる。ジョーゼットの白く柔い生地は曇天の湿った空気の中でゆるやかに舞い、凪いだ。四月のことだった。街中へは久々に出た。太陽の光が届かない薄暗いこの世界が寒いのか暖かいのか、判らない。わたしは新聞紙にくるまった何輪かの黄色の菊を抱いて、列車に乗った。活版で刷られた黒インクの無骨な匂いが鼻をつくのに、そう時間は要さなかった。わたしが指を組み変えるたびに、新聞紙はくしゃりと変な音を立てて皺をつけた。
 あの人は、今日帰ってくるかしら。窓の外をそっと眺めてわたしは考えた。あの人とは、一真さんのことである。一真さんの家に嫁入りしたのが、一昨年のことだった。彼は弁護士の仕事に一生懸命に取り組んでいて、そのせいで大抵帰りが遅い。遅いどころか、帰ってこないことさえある。仕事が忙しくて事務所に寝泊まりしている旦那のことを、心配していないといえば嘘になってしまう。だけれど、それは彼の身を案じて発生しているものなのか、それとも置いてゆかれる恐怖からきているものなのか、この曇り空と一緒で判然としなかった。
 ため息を隠し、奥様のお屋敷へ戻った。午後三時、紅茶の香りを漂わせ、もう帰ってよい、と奥様はわたしに申し付けた。帰り際に「菊、こんなに戴けたの?」と奥様が言う。
「こんなにたくさん、余計だわ。あなたに一輪差し上げる。あと」
 とってつけたように、給料袋をわたしに差し出す。たまたま今日が、謝礼をいただく日だったのだ。わたしは頭を下げてその袋を受け取り、終始腰を低くして屋敷を出た。そして、今しがた見た奥様のことを思い出した。舞踏会があると身を飾った奥様の唇は、べったりと赤く染め上げられていた。幾ら塗っても西洋人ほど似合わないよな、とわたしは密かに侮蔑する。奥様のお顔は、純粋に日本人たらしめる要素のみで構成されていた。
 西洋といえば、一真さんは過去に一度だけ、渡英を試みたことがあるらしい。でも、色々あり結局日本を出ることができなかったと聞いている。だからこそ、彼は海外へ行くことを今でも強く夢見ていたし、何かを選び取る時もより洋風であるほうを選んだ。わたしは和食しか作らないけれど、たまの休みに出かけたときは蕎麦よりステーキを希望したし、呉服屋に行っても着物よりシャツを見ているような人だった。なにかに夢中になっている様は、幼い男の子のようで可愛い。わたしは彼のことを愛していた。でも、彼はきっと見合いで決めたわたしのことをそんなに好きではないのだろうと思う。少なくとも、倫敦よりかは。
 また、死にかけたことがある、とも聞いている。そのことと渡英しかけたことが関係あるのかはよく判らない。でも、何故か同じ括りのようにして語られたことをよく覚えている。生死の境を彷徨ったのは、冬のことだったらしい。長袖の服を身にまとっても冷たさが体を駆け巡るような、深い冬のこと。なにか強い衝撃を受け、彼は海の底に堕ちてゆくようにゆっくり、天を昇ったという。もっと具体的にいうと、天に昇ったというより、空に向かって堕ちていったという表現のほうが正しいようだった。彼は感情の読めない表情でそう言った。
 わたしは洗濯物を畳みながら、そういうこともあるのねえ、と話半ばに相槌打っていたと思う。そのときはまだ、見合い結婚をして二ヶ月しか経っていなかったこともあって、わたしは一真さんを愛せていなかった。
 彼は無表情にこう続けた。「でも、やることを思い出して、俺は目を覚ましたのだ。実に、自然に。朝が来たから身体を起こした、というくらい、当たり前の起床だった。もっとも、そのときの俺は暫く身体を起こすことができなかったのだが……」
 まるで講談師が語る逸話のようだった。または落語。だからわたしは、その話を信じていなかったのだろう。今の今まで思い出すことすらなかったのだ。
 でも。
 わたしはそのことを、連鎖的とはいえ思い出してしまった。しかも、彼が連日家を空けているこの状態で。元々心配性などでもないが、急に一真さんの身を案じ始めてしまう。彼は今、何処にいるの? 何をしているの? 生きているの? 死んでいるの?
 わたしは家に戻ると、畳の一間の上に寝転がって放心した。胸元に抱いていた菊の花は、わたしの手元を離れ目の前に溢れでる。黄色。その明るさは春の生命の象徴のようでもあったけれど、毒々しさを持っているようでもあった。
 わたしは文字通り、心を自分の側から手放していた。ゆらゆら放浪を続けた心は、いつしか夢の中に堕ちて、眼を開けたころにはすっかり外が暗くなっていた。眼をこすりながら起きると、着ていたジョーゼット・ブラウスはわたしの形に沿った皺をつけていた。それを寝ぼけて働かない頭と眼で認識した。とても深い眠りに落ちていたようだ。現状の理解にも悩まされたし、なにより眠る前の記憶があやふやになっていた。細い糸で手繰り寄せるように、ぼうっと想像に耽ってみる。あれ、どうして部屋の明かりがついているのかしら?
 廊下の軋む音がして、襖が開いた。そこに立っていたのは、何日かぶりに見る一真さんの姿だった。
「すまない、起こしたくはなかったのだが。なまえさんもそのまま朝まで眠りたくないのではないかと思ってな」
 襟の詰まったシャツの一番上のボタンを外し、一真さんはそう言った。
「ごめんなさい、ご飯作りますね」わたしは立ち上がる。眩暈がして、少しよろけてしまう。一真さんは早足で駆け寄りわたしを支えた。急がなくていい、と子どもをあやすように優しい口調で彼は言った。
「菊か?」
 わたしの肩越しに部屋を眺望した一真さんは、部屋の真ん中に落ちている花を見てそう言った。わたしは彼の厚い胸に抱きついたまま肯いた。
「破れた恋」
 成熟した男性の掠れた声は、わたしの耳をまっすぐに突き抜けて行った。ぞくっとして、背筋が伸びてしまう。「どう、されたんですか、いきなり」とわたしは言った。一真さんは何でもないことのように、「西洋で云われている菊の花言葉だ。日本では、めでたい意味にとられがちだが」そのようなことを言ったと思う。そんな物騒なこと、言わないでくださいな、とわたしは彼の身体から離れた。もえるような体温から、顔、胸、腕、手の順に離れ、わたしは彼の前に立つ。確かに、確かに彼は目の前にいる。そのはずなのに、彼の肌は白熱灯でしろく照らされ所在がないように思われた。つまり、もう死んでしまった人のように思えてしまった。わたしは一筋涙を流し、一真さんはそれを見て少しだけ眼を瞠って、わたしの手を握った。
「寂しい思いをさせてしまったな。申し訳ない。明日からは、どれだけ忙しくてもきちんと家に帰ることにする」
「ごめんなさい」
「なまえさんが謝ること、ないのに」
 わたしのブラウスの皺を、一真さんは優しく撫でて伸ばした。浅い皺は直ったが、深いものはしつこくてまったく伸びなかった。ケープをぴんとひっぱり、ゆるまったリボンの端を持って結び目を固くした。
 ひとつだけ。ひとつだけ、訊いてもいい?
 わたしは、殆ど音を発さないで、囁くように一真さんに投げかけた。彼は相変わらず思惑を隠した顔で「ああ」とだけ言った。「あなたが死にかけたとき、堕ちていった空は、今日みたいな曇天だった?」彼の無表情によく似合う、一本調子でおそろしく起伏のない問いかけに、彼は笑って否定した。「いいや、晴れていたよ。眩しいくらいにな」