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「死なない。貴女は、生きなければならない人だ。」日本で弁護士として活躍する一真と儚げな彼女の結婚とそれから(ネタバレなし) 亜双義一真 / 大逆転裁判 | 名前変換 | 30min | 初出20160925

うつくしき糸

 くれない色にそまった空を、ひくく見上げながら帰路についた。お茶のお教室と買い物の帰りで、まだ鼻の奥には抹茶の上品な香りが残っていた。秋の入り。空気がすみきっている。豆腐を売る太い笛の音や、だしの匂い、子どもたちのはしゃぐ声、となりの奥さんたちの談笑が、まぶしい太陽のかがやきで白にも橙にも濁っている。
 もうこのまま、眠ってしまおうかしら。
 なまえは思う。肉と野菜と豆腐の入った籠を右手にぶら下げて、思う。目を瞑れば、瞼に光が透けて見え、まるで天界に来たかのような心地である。瞬きとは、不思議だ。目を閉じればたちまち、身体の疲れが癒えていくようなのだ。羽根が生えて、まるごと包んでくれるようなのだ。それでも、目を開ければ、おしまい。いつも通りの五丁目の大通りだった。
 家にたどり着き、門をくぐった。ふるい板でかけられた「亜双義」の表札の下にある郵便受けを見る。二通、主人である一真宛に届いていた。なまえはそれを籠に入れて、玄関の引き戸を開けた。ただいま帰りました、と言うと、奥からおかえりと言う小さな声が聴こえた。ブーツを脱ぎ台所まで歩いていくと、書斎から一真が顔を出した。
「早かったな。」
「あれ、そうでしょうか……? いえ、もう、十七時ですよ。」
 時計をゆびさしてみると、一真もアレと言って首をかしげた。「一真さんがお仕事に集中されていただけですよ、きっと。」なまえはそう言って台所に入り、籠を台に置く。うすく西日の差し込むだけの台所はほとんど暗かったので、なまえは洋燈を灯した。
「少し休むか? 茶でも淹れて。帰ってきたばかりなのだし。」
 一真は台所の入り口から、そう声を掛けた。しかしその後、一真のお腹が鳴って、しまりがつかなくなってしまった。なまえはそれに笑うと、「ひといきにやってしまいます。そのほうが、疲れなくて済みますから。」と言って、一真を台所から追い出した。竈へ薪を入れ、燐寸を擦って火を移した。出かける前に研いでおいた米の入った釜を竈の上に置く。そうして、買ってきた食材に向き合った。ふう、と息を吐いて気合を入れると、なまえは肩口でざっくりと切られたおかっぱ髪を揺らし、着物の袖をまくった。

 毎日が同じような日々の繰り返しであった。昨日は大根を煮たもの。今日は南瓜と人参を煮たもの。小松菜のおひたし。もう茄子は旬が終わった。胡瓜も出回っていない。そういうことで季節を感じるものの、日々やるべきことは大して変わらぬ。季節の進みとともに毎日は淡々と冷え、水を触るのが億劫になった。
 なまえと一真は居間の真ん中に座って、いつもご飯をたべる。おみおつけに入れた三つ葉が少し苦い。人参は少し煮込み過ぎだった。なまえは顔をしかめるが、一真はいつも文句を言わない。自分でなんでもするのが好きで、おかわりしたければ、自分でおひつから飯を盛った。
「あまり美味しいご飯が作れなくて、ごめんなさい。」
「なまえの作るものなら、なんでも食べる。」
 一真はなんでもないことのように笑った。鈴虫がりんりんと羽を震わせている。
「お仕事の具合は、どうですか?」
「それなりにやっているよ。相変わらず、弁護士の身分は低いものだ。十年前に制定された弁護士法など無かったのではないかと思わされる。たまに、検察になれば良かった、なんて、思うよ。」
「まあ。……それは、」
「もちろん、冗談で言っているさ。」
 一真は梅干しを飯の上に乗せ、その上から茶を注いだ。湯気立つ茶碗を持ち上げ、ちゃっちゃとかき込んでしまう。なまえは空になった茶碗を脇に置いて、湯飲みに茶を注いで飲んだ。お茶のお教室で飲むのとは違う、薄くて懐かしくて白湯の味がした。
 片付けを済ませると、一真も仕事を終え、浴衣になり小さな縁側で涼んでいた。なまえもそっと近くに寄る。一真はなまえの艶のある髪を抱き寄せると、昼間、湯に入ったのか、と訊ねた。
「ええ。入りました。」
「入込湯じゃ、ないだろう。」
「入込湯、でした。」
 なまえははにかんだ。一真は苦笑をすると、かける言葉が見つからないようになまえの肩を力強く抱く。きゃあ、と彼女がたのしそうに声をあげると、一真はふざけて押し倒した。
「男連中がなまえのことをよく言うわけだ。今日、湯でお前を見たって言うんだ。きれいな乳の奥さんだなあってな。」
 あ、となまえが言う方が遅く、一真はなまえの着物を少しはだけさせ、白い肌に口づけを落とした。試していたんですね。なまえがうらめしそうに言う。訊く前から判っていたくせに。一真はそれを訊いて笑い、「病気なんだ。弁護士の。」と言った。
「少し高くてもいいから、今度からちゃんと分かれているところに行ってくれ。」
「一真さんも?」
「え?」
「一真さんも、分かれているところに、行くの?」
 あどけなく訊ねるなまえの、おでこにかかった前髪を退けて、「勿論。」と一真は言った。

 なまえと一真が結婚したのは、つい一ヶ月前のことであった。
 うだるような暑さの八月だった。蝉がさんざ鳴き喚き、土の匂いがじめじめと立ち込めたこの家で、身内一同つどって祝言をした。集まったのは一真の両親と、なまえの母と、仲人のみだった。ごく一般的な、簡素な結婚祝いがおこなわれ、それきり二人はこの家を継ぎ、二人だけで暮らしている。そのとき、古い板に表札として「亜双義」と入れてもらったのである。もとは、なまえの生家だった。なまえの母は、娘の結婚を見届けたのち、眠るように亡くなってしまった。父は、幼いころに他界してしまっている。
「寂しいんじゃないかい。この家に二人は、ちょっと広すぎるよ。」
 一真の両親は若い二人をそうして心配した。なので、一真もなまえに家を手放さないかと打診した。知り合いの不動産屋に訊ねると、東京の地価は年々上がっているし、この家もそこそこの値で売り払えるとのことだった。一真は裁縫をする彼女の傍に座って、そのことを言ってみた。「考えさせてください。」というのが、なまえの答えだった。
 なまえは十七で、一真は二十三だった。若くして弁護士となった一真は、裁判所と小さな弁護士事務所と家を一日に何度も往来した。事務所といっても、経理を管理するのが主な場所で、判例などは保管しておけない。それで、自宅へ持ち帰るということになる。かつてはなまえの部屋であった狭い一間に、次々と分厚い本や紙が乗せられていく様を見て、なまえはこの部屋にもまだまだ使いどころがあったものだなと感心した。

 なまえは昼ごはんを食べに帰ってきた一真に、蕎麦屋から分けてもらった蕎麦を茹でて出してやる。一真は黙って食べ、一言お礼を言うと、ものの十分程度で仕事へ戻ってしまった。なまえは食器類を貯めた雨水ですべて洗ってしまい、居間へ戻った。母からそのまま譲り受けた箪笥から真っ白な布を取り出して広げた。縫いかけの、ホワイトシャツである。なまえは着る機会がまずないが、一真が仕事に着ていくのだ。現在あるシャツも、綻びるたび縫うのだけれど、弁護士はボロボロのシャツしか着ないと言われてはいけないので取り急ぎ縫っている。なまえは洋裁の学校に行っていたので、料理よりこういった手作業のほうが得意なのだが、一真は体が大きいので、縫うのも一苦労だった。寸法を測るのも、こちらの腕が足りないくらいで、なまえはそれを思い出してひとり頬を赤く染める。大きい体が、なにぶん男らしくて格好良いのを、ふと思ってしまったからだった。
 十月半ばには、完成させないと。そう思って卓上の小さなカレンダーを見る。九月二十五日。彼岸も終わり、すっかり夏は終わってしまった。
 ふと、カレンダーの下に本が置いてあるのが目に入った。一真がこの家に入ってからというものの随分本は増えたが、居間のこのような場所に、ぽつんとあるのは珍しかった。見てみると、知らぬ作家の短編集だった。法律書では、ない。一真さんってこういうのも読むんだ、となまえはこっそり感動した。その本を手にとってみると、まあ、作者の読み方が少し難しく、なまえには判らない。開いてみれば、一応読めはするものの、読み流してしまうだけで内容がちっとも頭に入ってこなかった。一真さんやこういった弁護士、検事さん、えらい仕事についている人は、まず文章が読めて、それから理解もきちんとできて、書いていないことも読みとり考えるのだろうなあ、となまえはぼんやりとした感想を持った。一真は大学を出ているのだ。一方、なまえは女学校に通い、並の成績で卒業したのである。
 世の中には「卒業顔」というものがある。これは、在学中に嫁に行けなかったという意味で、つまりは美人でないというところの一つの指標となっている。しかし、なまえはわりにうつくしかった。女手ひとつで育てた母が、どうしても余裕がなく、見合いを取り繕ってやることができなかったのである。そうしてなまえは平凡に卒業し、卒業後は洋裁の工場に一度入るのだが、結婚を機に辞めた。思えば、祝言の際の黒引き振袖も、自分でこしらえたものだった。

 十六時になり、一真が家へ戻る。なまえは湯屋へ行く準備を整えていた。少しの疲れを浮かべ玄関に入ってきた一真の上着を受けとり、居間へ通して浴衣に着替えるように言った。一真はあまり敏捷には動いてくれなかった。やっとのことで荷物を戸棚の前に置くと、なまえはその荷物の中に、不自然な新聞紙の包みがあることに気がつく。シャツを脱ぎ、浴衣に袖を通す一真に「この、包みは?」と訊いた。一真は「俺から話題を切り出したかったのだ、本当は。」と言って、包みを開けた。生花。白と青の花々が、ばらりと零れ出た。
「今日、依頼人からお礼で貰ったのだ。なまえが好きかと思って、俺のほうで引き取ることにした。花瓶は、あったか?」
「奥の方に、たしか。」なまえは言い言い、花の束を鼻に寄せて匂いを吸い込んだ。じゅわっと香る、みずみずしい匂いがした。
 一真の着替えが終わるまで、なまえは花をきゅっと大事そうに抱いていた。一真がなまえの手をとると、彼女が強く強く茎を握ってしまっていたのが判った。「しおれてしまうぞ。」そう言うと、なまえの手は少しずつ解かれていった。
「あの。嬉しくって。」
「花が、か。」
「男の人からお花をもらえて、嬉しかったのです。」
 一真はおもわず面食らってしまう。よもや、それほどまでに喜んでもらえると思っていなかったのだ。
「今度は、きちんと贈る。それは、貰い物だからな。」
「でも、嬉しいです。」
「初めてが、俺からの贈り物なら良かったのに。」
 一真がそう素っ気なく言うと、なまえはぱっと手を離して、「今、嬉しくなくなりました。」と言った。花瓶を奥から出してきて水を差し花を立ててしまうと、二人は湯屋への薄暗く肌寒い道を草履で歩いた。

 みょうじ家の血筋は、病を呼び込むのではないかと、町内でしばし囁かれたことがある。それはまず第一に、なまえの父である作蔵が亡くなった時のことだった。作蔵は、結核で亡くなった。みょうじ家の親戚は極端に少なく、東京にあったものはすでに途絶え、少数が大阪にあるとのことだった。元は、大阪から東京へ移り住んだ富豪でもあったのである。しかし、東京に移ってからは、健康に恵まれないものが多かった。周りの身寄りは、もういなくなってしまっていた。そのために、母のチヨは自分だけの力でなまえを育て上げねばならなかった。そして、若い時から患っていた脚気を悪化させ、娘を見守るようにして天国へ旅立った。つい最近のことである。まさに今、みょうじ家は疫病の噂の渦中なのである。

 一真は、なまえのぱっちりした瞳に惚れて求婚をした。もともと二人は、町内の端と端に住んでいて、幼馴染みというわけでもなかったのだが、祭や花見運動会などで会うたびに、一真はいつも悩まされていたのである。

 これは花見の時の話で、一真が十八、なまえが十二になるところであった。
 三丁目の坂を登ったところに、大きく開けた野山がある。小高い丘を取り囲むように住宅を建ち並べ、江戸の時分に、桜の木を植えたとのことである。この町では桜の名所と言われていて、春になるとその丘と麓の広場でちょっとした運動会が開かれる。
 一真はよい歳頃の男子ということもあって、運動会では中心の存在であった。演目は綱引きやら玉入れやら、近頃輸入されてきたスポーツであるサッカーなどであった。午前の大会が終わると、各自昼飯を済ませる。午前が大人の部で、午後からは子どもの部だった。
 昼の部となると、一真の用事は終わったようなものである。いい大人が泥にまみれ紐を引っ張りあった苛烈な戦いは終わり、広場では子どもたちがわいわいきゃあきゃあ運動しており、それを見張ったり仕切ったりするのはその子らの親たちだった。もちろん、混ざってやっても良かったのだ。混ざったら混ざったで「一真ニイちゃん」「一真のおにいさん」と盛況だっただろうし、仲間に入ってくれと引っ張りだこであっただろう。しかし、一真は参加せず、花見をしに丘へ行った。というより、女子とおしゃべりをするために、丘を登った。一真の隣の家に住む永吉が、こんなことを言うからである。
「運動会に参加する気の強い女子より、おとなしく花見をしている女子のほうが可愛げがあるってもんだ。」
 一真はそれに大きな声で賛同することはなかったけれど、確かに運動会に参加する女子は商人の娘であったり、親の仕事をよく手伝う腕っ節の強い娘であったり、日頃男子と混ざって一線でやりあっているものばかりだった。人それぞれ好みはあるものの、一真も一真で勉強ばかりしている方であったので、綱を引く女子より花を見る女子のほうがより魅力的だったのだ。
 丘を登ると、そこはまるで桃源郷のようだった。ふわふわと桜の花びらが舞い、薄く雲の張ったぼんやりとした空色が、桜の薄桃色によく似合った。そして、木のそばには、色とりどりの着物を纏った女子、または老人、家族、夫婦がいて、それはそれは落ち着いた雰囲気だったのだ。下界とは大違い、これはまた永吉が言ったのである。
 一真はその集団に近付いて挨拶をした。皆一様に、「お疲れ様、亜双義さん」「一真くんこんにちは」「あ、一真さん」と心地よく返事する。一真はどこへ行っても信頼の置かれる男子だった。女子の集団の一部は、少し色めき立つところもあった。
 一真は、無意識になまえの姿を探した。下にいなかったので、上にいれば、と思ったのである。なまえは、桜の木の下で鞠をついていた。大きな瞳を俯かせて、着物の袂を右手で拾い上げ、肩口でざっくり切られた髪がその日もゆらりと揺れていた。結い髪をしないその姿は、町の中でもいつも異様な雰囲気を醸し出していた。
「なまえ、こちらへ来て、団子でもどうだ? 鞠もいいが、まだたくさん食べるものもあるぞ。」
 なまえは鞠をつくのを止め、両手で鞠を抱きかかえると、「お腹がいっぱいで。」と言った。なまえは食が細く、あまりものを多く食べなかった。そのせいで、周囲の誰より細かった。
 それを訊いて一真は、「そうか。」と言い木の下へ腰掛けた。なまえはそれを、戸惑いの表情で傍観していた。
「一真さんは、お団子食べてきてもよいのですよ。」
「俺も……腹がいっぱいだ。」
「本当に?」
「本当に。」
 嘘ばっかりだった。団子が食えると思って、昼飯は握り飯ひとつで済ませただけだった。
 なまえは気を遣ってか、鞠は胸の前で抱えたまま、一真の隣に座った。一真は、彼女とのはじめての距離に思わず心臓を跳ねらせる。間近で見る好きな女子の姿は、誰にも譲りたくない儚げなものだった。
「なまえは、鞠つきが好きなのか?」
「そういうわけでも、ない。」
「勉強は、今どこまでやっているんだ?」
「まだ、中学校へ上がれないの。」
「入ったのが遅かったのか。」
「うん。」
 桜の花弁は、我関せずとそよそよ風に乗っている。
「俺は、来年大学へ行くために、今年は受験があるんだ。」
「大学いくなんて、すごいです。」
「なまえが勉強に困ったら、教えてやれるよ。」
 彼女はこくんと頷いた。一真は想像以上に口数の少ない彼女に、少し尻込んでしまう。もしかしたら俺と話したくないのかもしれぬ、だとか、言ってはいけないことを口走ったのではないだろうな、だとか、心配するだけ無駄そうなことを考えてしまう。しかし、なまえはやはり、そんなことで黙っていたのでは、なかった。考え込んだのちに、「どうしたら、お医者様になれますか?」と一真に訊ねたのである。
「え。」予想外の言葉に、一真も喉を詰まらせた。
「今から、お医者になるのは難しいですか。わたし、周りの子より小学校へ入ったのが遅かったのです。でも、周りの歳下の子らと変わらない、こんな小さな身体で、ひ弱です。お医者になったら、自分も、お母さんも、きっと良くなりますよね?」
 一真はそのときやっと、みょうじ家に纏わる疫病の話を思い出した。なまえのお母様は、今なお病んでらっしゃるのだ。名前に恥じぬと言っては、語弊があるけれども……。
「医者は、難しいな。」一真は隠さず、言った。「この町でも、なれるのは、石田さんのところの宗介さんくらいではないかと思うよ。なまえは知らないかもしれないだろうね、今医大に行っていて、将来は留学などはせず町医者になるんだそうだ。いつか、診てもらう日があるかもしれん。」
 一真の言葉に、なまえは特に驚きも悲しみもしなかった。想定通り、という具合だった。でも、きっと彼女の頭の中には、ずっとそのことだけが巡っているのだろう。なれないのは判っていても、他のことを考えることができず、なんとなく毎日を過ごしている、というような雰囲気があった。
「何も、自分の身や母上を助けるのに、医者である必要はないのではないか? 診療は彼らに任せて、例えば料理とか、服飾とか、目の前の役に立つことに集中するのも、いいと思うよ。」
 なまえはそれにも大した反応を見せることはなかったが、後に彼女が洋裁の学校へはいったことを考えれば、明らかに一真の影響だったことが判る。

 いつの日だったか、八百屋でばったり鉢合わせをしたこともある。お互い、家の手伝いで、野菜を調達するところだった。一真より先になまえがいて、どれにしようか、長いこと迷っていた。
 一真は、野菜のことなどよく判らない。なので、店主に適当に見繕ってもらって、それらを籠に入れた。なまえもそれに習って、店主に色々選んでもらってやっと買い物が済んだ。若い店主は「はい、嬢ちゃん、重いから気をつけな。」と言ってなまえに籠を渡した。
「なまえはもう買い物は終わりか?」
「はい。」
「送っていこう。重いだろうし。」
 なまえはさっと頬を紅潮させると、そんな……と口ごもったが、一真は彼女の左手から籠をそっと拾って、そのまま商店を後にした。後ろから、おぼつかない足取りでなまえがついてゆく。
「一真さんは……、」
 なまえが小さな声で言う。「とても、おやさしいのですね。」
 誰にでもやさしいのでは、ない。一真は心の中ではそう思いながら、「重い荷物を持った女子を、男として放っておくわけにはいかないだろう。」と格好つけた。照れ隠しに、被っていた学制帽をすこし目深に下げる。しかしその努力も虚しく、なまえは「一真さんは、真っ黒な帽子がよく似合いますね。」と言ってのけるのだった。
 角にさしかかったところであった。なまえは小さなくしゃみを一つして、手を擦り合わせ頬を覆った。
「久しぶりにお母上にご挨拶できれば、と思ったが、今はお仕事の最中か?」
 一真は遠慮がちに問いかける。
「はい。残念ながら、家は今、わたしひとりでございます。」
 商店街から五丁目へは、細い道が延々と続く。一つ一つの家が大きいのだ。さまざまな家の垣根から、柿の木がそっと顔を覗かせている。秋だ。
「たまに、ですが、秋になると、ふっと天に昇る思いをいたします。」
 草履と土の擦れる音にまぎれ、なまえはぴんと張る細い糸のように、華奢で、真っ直ぐとした声で言った。
「金木犀の匂いのせいかしら。きっと、そうかもしれませんね。ふわりと、力が抜けていくようです。気をしっかり持っていないと、いけないって、今朝方お母様に言われたばかりなのに。」
「きっと、男には判らぬ感覚なのだろうな。」彼女の大きな瞳からは何が見えるのだろう。一真はそう思って、彼女の表情を、たびたび盗み見ていた。気づかれませんように。

 そしてこれは、結婚した年の正月の話である。
 そろそろ嫁を貰ってこい、と親が煩くなった頃合いだった。また、色んな縁談を立て続けに受けたのもこの頃だった。周りが、一真のことを放っておくことができなかったのだ。弁護士は蔑まれることもある職業だったが取り分は悪くなかったし、一真は大学へ行ったことも快挙だったが、町内で一番頭がよかった。そういうわけで、彼は引く手数多だったのだが、彼自身はどうしても、どうしても、なまえのことが忘れられなかったのである。
 正月は町内会で餅つきがあった。一真は材料の調達などには携わり、当日は見物客として参加した。雑煮の汁をつくり、餅を焼くのはやはり、女子の役目だった。エッサ、ホイサと懸命に餅をつく若い学生諸君を遠目に、なまえは隅でひたすらに餅を焼いていた。
「餅を一つくれないか。」
 汁を入れてもらった茶碗を持ち、一真はなまえに話しかけた。なまえは一真に気づくと、器に餅をこっそり二つ入れてやり、絵画の女神みたいに柔らかくはにかんだ。
 一真は近くの長椅子に腰掛け、そっとなまえの後ろ姿を見つめた。あれだけ細かったのに、彼女はずいぶん大人の身体つきになっていた。幼さの残る桃色の頬や、それと同じくらいあどけない黒髪をしているのに、色気のあるうなじや肩、ふっくらとした胸と腰に、一真はどうしようもない気持ちになった。それだけでは、ない。なまえの魅力は、その奥の儚さにあった。生きることにさえ控えめで、謙虚で、多くを望まない。あれやそれが混ぜこぜになるのを、一真は感じてしまった。激情に流されてはならぬ。

 そのあと、日を改めて、一真はなまえの家へ行った。そうして、彼女らに頭を下げて話をしたのだ。俺と結婚してください、と。
 なまえは、考える時間がほしいと頼んだ。一刻も早く返事がほしい一真ではあったが、男らしくそれをのみこみ、何も得ず一度家に帰る。しかし、なまえが悩んだのはわずか一日程度で、今度はなまえのほうから亜双義家に出向いて、結婚してくださいと懇願した。雪の降りしきる、眩惑的な日のことだった。
 このようにして、二人はめでたく籍を入れる。みょうじなまえは亜双義なまえとなり、寄り添い写った記念写真では、そのぱっちりとした瞳を伏せ隠してしまっていた。ついフラッシュが眩しくて、目を瞑ってしまったのだ。

 よく、悲しみに暮れたときに、涙が枯れるほど泣く、と言ったりするけれど、なまえのそれはもうほとんど無いようなものだった。母の葬式を、それは立派に成し遂げた。涙一つ、溢さなかった。一真が手伝ったのは唯一、財産や銀行の整理のみだった。
 一真と夜を共にするときでさえ、生理的に涙を浮かべることもなかった。瞼に口づけを落とすと、くすぐったがった。痛がったりもしないので、不安になった一真は訊いてみたりすることもあった。「痛くしても、いい。」と、なまえは目を細めて枕に首をもたげるのだった。
「ね、抱きしめて眠ってくれると、暖かくていいんだけどなあ。」
 なまえは薄い浴衣を纏って、一真の胸元に収まる。背中を撫でているうちに、なまえはすやすや寝息をたてる。少しだけ離れてみると、頼りなく布がはだけて乳房が零れ落ちそうになっていたので、慌てて布団を引き上げてやった。
 一段と冷えた秋雨の夜のせいかもしれないのだが、寝ているうちに冷えてしまったことが原因で、あくる朝、なまえは風邪を引いてしまった。地を這い身体を舐めるような気味の悪い悪寒に襲われ、なまえは深く深く、布団に潜り込んだ。
 一真は裁判所に出掛けるために、すでに起床していた。それに気づいたなまえは、義務感にかられ布団を出ようとする。一真は急いで駆け寄り、彼女の動きを静止した。
「だって、一真さん、ご飯は? お召し物は? わたし、準備、しなきゃ。」
「服はもう着た、それくらい自分でできる。飯はどこかの弁当屋で買うさ。さすがに、台所事情までは知らなかったからな。」肩を抱き、やさしく布団に横たわらせてやる。「そんなことより、寝ていろ。裁判が終わったら、医者を呼んできてやる。すぐ来るとは限らないが……、その日じゅうには来るだろう。」
 そうして、彼は出ていってしまった。
 広い家に、ひとりになってしまった。ぴゅうと秋風が吹くたび、木造の家ががたんと揺れる。それに呼応するように、悪寒がなまえの身体を這いずり回った。心臓のまわりに回ってきたときは、思わず背筋がぞくっと震えた。昨夜の情を思い出して、布団に移った一真の匂いを感じて、人肌恋しさに身悶えした。
 苦しいときは、しだいに終焉を迎えた。熱が上がりきって、安定し始めたのである。ぽかぽかと暖かくなってからは、なまえの心もすっかり安寧で満ちて、いつもより天を近くに感じた。気を、しっかり。持たないと、いけないよ……でも、母の教えに抗いたくなるくらい、それは心地の良いことだった。いつの間にやら止んだ雨は、地面に薄い水たまりを作って水鏡と化した。雲間から溢れ出す秋晴れの日差しは瞼をも通り抜け、なまえの夢の中を照らした。
 そうだ、ホワイトシャツ、縫わなきゃ。
 なまえは机の上にあった白い糸を取って、箪笥の中から白い布を引っ張り出した。どこまでも広く伸びる布を畳の上に広げ、糸を針に通し、繋ぎ合わせる。細く白い糸は、なまえの指によく絡まった。はじめは、中指と人差し指が、蝶々結びで絡められた。そのうち、小指、親指も一緒くたにされ、糸の張りに肌が赤く染まった。しだいに、両手がくっついてしまった。後ろから、大きな腕が伸びてきて、なまえの手を、絡まった糸ごと包み込むように握ったものがあった。一真だった。そんなことは、振り返らなくたって判る。この肌の滑らかさと温かさは、一真でしかなかった。
 一真が医者を連れて帰ってきたときに、なまえは白い糸を握りながら寝ていたという。

 高い熱にうなされ起きたときには、外はもう暗くて、じめっとした空気があたりを覆っていた。りんりんと秋の虫が、だれかを求めて鳴いていた。一真はなまえが起きたのを見て、おでこに乗せていたタオルを取り、冷たい水で冷やしてからまた乗せた。
「漢方の薬を、医者が置いていったよ。お粥くらいなら、俺でもなんとか作れるが、台所に入るのを許してくれるな?」
 なまえは、こくんと肯いた。
「辛かったな。結構高い熱が出ていたそうだ……。うなされていたし、日頃の疲れが、寒さを引き金にしてどっと出たのだろう。」
 一真はなまえの頭を撫でてやる。なまえは、喉の奥がとても痛むのを感じて、顔を歪ませると、気づいたら泣いてしまっていた。一真は驚いて、目を凝らし、「泣いているのか?」と言った。
「寂しくて……寂しくて。わたし、夢を見たんです、一真さんが後ろから抱いてくれる夢を……とても心地のいい夢でした、あれは、きっと、何処よりも天国に近い、尊い場所でした。」
「うん、うん。」
「わたし、死ぬのではないかと、」
「死なない。なまえは、生きなければならない人だ。」
 一真は、握った拳を頼りに一度畳の上に立つと、その場を離れた。なまえは心細くなってしまったが、一真は一分も経たぬうちに戻ってきた。奥から、たくさんの橙色の花を持って。
「お見舞い、と言ってはなんだが……湯の帰りに、買ってきた。花を見ると、病が早く治るそうじゃないか。これを見て、早く治るといいのだが。」
 なまえの涙は、止まらなかった。
「なあ、なまえ、この家はやっぱり離れて、俺の家で暮らそう。ふたりきりもいいものだが、なまえには、家族が必要だよ。そのほうが、俺も安心して出稼ぎができる。」
「はい……そうします。」
「きっと、安心したんだな。だから、涙が止まらないんだ。」
 その後、一真はお粥をこしらえ、布団のところまで持ってきてやった。なまえが食べ、薬を飲み、再び眠りにつくまで、いつまでも手をつなぎ傍にいた。花は、花瓶に立てられ布団の傍に飾られた。暗い中ではよく見えないけれども、薫りだけで存在感があった。
 なまえの風邪の回復は、早かった。みるみるうちに、治っていった。朝起きると、彼女は花瓶の水を入れ替えた。橙の花々が茶色くなって萎れるまで、水を差して面倒を見た。一真は、今回は見舞いにかこつけてしまったので、次は元気なときに花を贈ると言った。だから、少なくともその日までは、がんばって生きなければ、となまえは思った。
 この家の買い手は、早々に見つかったそうである。そうして、建物自体は、取り壊すとのことだった。歩くと軋む、古い廊下をなまえは歩いて玄関へ行った。もう、お終い。ここはもうお終いだ。引越しも少しずつ始めている。だんだんと物のなくなっていくこの家はとても殺風景で、うら寂しい感じがした。朽ちていくさまが、目では見えないが、判るような気がした。
「さよなら。」
 でも、わたしはまだ彼の腕を抱いて、生きてゆく。