「しずちゃんなんか大嫌いだ」

 叩きつける雨音に掻き消されるような声音で、よくもまああんなにも情けない声を捉える事が出来たのか、自分の耳の良さを呪った。らしくもなくここでもないあそこでもないと引き出しの中身を引っ掻きまわし、いつから残してあったのかも定かじゃない布切れと消毒液を手にして振り返ると相変わらず男は横たわっていた。先程まで玄関の前に落ちていた男だった。倒れているという言葉が浮ついて聞こえるほど、存在感など欠片もないささやかさで眠っていたので床に放置することもできずにうっかりベッドに寝かせてやった。真白なシーツの上に薄っぺらいなにか黒い物体が配置されているようで、人と言うよりは家具に近い印象を与える。少し離れてしまえば呼吸しているのかどうかも解らない程、身じろぎひとつ見せないのが気に食わないので一歩近づくとまた否定された。しずちゃんなんか、嫌いだ。確かめるようにゆっくりと口にする。仕方なく寝かせてやったベッドの脇に立ち首だけ傾け見下ろす。眦の赤みだけを薄く残して、頬も睫毛も乾いていた。

 シーツに張り付くようにして身体を仰向けにしたまま、男はくすくす笑ってねぇしずちゃんと呼びかける。馬鹿じゃねえのお前と叫ばなかったのを、誰でも良いから褒めて欲しかった。男の声はあのすっと透る冷たさのまま消えてしまいそうなほど呆気なくてやさしい。やさしくて、だからつまり、淋しいのだ。眉を寄せて口角を歪なかたちに吊り上げて、やはり傷口が痛むのか右側の口端だけは満足に笑えていない。虚しいと言っても差し支えはなかった。男が上体を起こしても笑いはまだ続く。こんなに不格好で腹も立たない笑い方、なんて、初めてなんじゃないのか。

「今日は不気味なくらいに静かだね。普段ならこっちの事情なんてお構いなしに怒鳴る殴る追いかけるの繰り返しの癖に。ほら、青筋だって立ててないじゃない。やだなぁ、明日はこの雨が槍に変わっているかもしれない」
「るせぇ殺すぞ。…おらとっとと足出せ」
「は?」
「こんな時間じゃ新羅も呼べねぇからな」
「待ってよ、何、新手のセクハラ?っつかなんでそこで新羅が出てくるのさ。俺別に、」
「鉄錆くせぇんだよ、」

 お前。それだけ言ってしまって訪れた、沈黙の異様さと言ったら無い。信じられないものを見たように目を見開いたのは恐らくほんの数秒で、だと言うのにもう勘弁してくれと項垂れたくなるほどの時間を過ごしたような気分にさせるから不思議だった。天井を見上げてどこかぼんやりと視線を移ろわせていた男から、引いて行く波のように表情が消えてしまった。呆けているのではなく全くの無を作り上げる造作を、睫毛を持ち上げる過程を、瞬きもせずにじっと見る。備え付けの電球の安っぽい灯りの下で男の目がすらりとひかるのが解って、そういうものを見て見ぬふりも出来ずに俺はみっともなく臨也の前で立ち尽くした。血の色に良く似た赤が透き通る様は素直にきれいだとは思うが、思えば俺はそれを今まで認めたことがない。

 間が、空いてしまう。音のないことがこれほどまでに恐ろしいなどと、思い知る日が来るなんて予想できるわけがない。雨音は未だに止まず、風は勢いを増して窓ガラスを容赦なく叩きつけている中で、男の無口さが際立って奇妙でならない。違和感がする。気味が悪い。こんなのは違うのだ。落ち着かない。
 これ以上の沈黙は避けたかったのでベッドの前に跪き膝裏を掴んで裾を捲くると、臨也は目が覚めたのかはっと息を呑み子供がするように拙い仕草で抵抗した。声も出さずに必死に両腕をつんのめって拒む様はどうしようもなく幼くて、だから微かに震える指先でナイフを握り締めるのがどうしたって奇妙な光景に思えて仕方がない。無表情だった青白い顔が歪んで、どちらかと言えば親の仇をねめつける視線が鋭い癖に妙に脆いのだ。とても。

「―――ぁ、」

 すらり。と。冷え切った金属に撫でつけられる感覚がして、臨也が一瞬怯んだように身体を強張らせる。その隙に手の甲を叩いてナイフを落とすと悪足掻きをしてそちらに手を伸ばすので、両手を一纏めにして包帯で括った。先程引っ張り出してきた包帯を、まさか一番にこんな風に使うことになるなんて思わなかったし思いたくもない。口を使って解かないようにかたむすびをして臨也を見ても相変わらず眼光は鋭いままだった。たった今見せたあの怯えた表情はなんだったのだろう。生白いこの顔色にあの表情は嫌という程似合っていたが出来ればあんなものはもう二度とごめんだった。喉元が冷えて胃の上部が捻り上げられる感覚がする。痛みはない。ただ、ひたすら息苦しかった。

 片手で事足りる、男の両手首を見下ろす。骨と皮しかないことは承知の上で、だから驚いたのは無機物のような温度だけだった。試しに手を離してみても臨也は居心地が悪そうに、それでも俺を睨むのはやめなかったので息をついて腕を見下ろす。ワイシャツの一部分が、妙に風通しが良くなって肌の様子が良く見えた。袖を適当にたくし上げると左腕に一本線を引くように皮膚が破けた跡があって、それに沿って血が滲む。痛みも熱もなく痒みだけが残る傷口だから、きっと朝までに乾いて塞がってしまうんだろう。薄く剥がれた皮膚は滲んだ血液を覆い隠すようにして肉に張り付いて、舌でなぞってみると男と同じく鉄錆のにおいがした。それだけだった。たったのそれだけだと言うのに臨也は嫌みの一つも言わずに、だから俺もろくに手出しが出来ずに押し黙るしか打つ手がない。こんなもの掠り傷とも呼べない程のろくでもない仕打ちをもう何年も続けていたって言うのに。どうして今更なのだ。目の前の男の表情は、恐らく本人も気づいていないだろうが懺悔に近くて、だからどうしようもなく脱力した足をすいと手に取ると臨也は息をつめて括られた両腕を胸の前で動かすだけだった。