来神時代





臨也の左の手の甲は、真っ赤に腫れ上がり歪に痕が残っていた。指の付け根の骨の辺りなんかは酷く痛そうな色味をして、親指と人差し指の間は皮が薄く捲れ上がっている。傷痕とは呼べないささやかなそれは、だけど生白い肌の上では幾分目立ち過ぎていたので僕は思わずその手の甲を焼きつけておくようにじっと見つめた。案の定というかなんというべきか、それに臨也はとうの昔に気付き小さく笑う。
痛ましいと思うよりもまず先に感じたのは純粋な興味でしかなかった。臨也の手の甲は、怪我と呼んでも差し支えのない程度には赤くなっていたし骨を動かす度に痛むのかなるたけ左手を庇うようにさりげなく振舞った。繕う姿に僕がどう思うのか、彼は恐らく解っていないのだろう。いつもよりゆっくりと瞬きをして、少しだけ首を傾げて臨也が口を開こうとしたので僕はすかさず、どうしたの、なんて尋ねてみた。なんの事とはぐらかされるばかりだと思いながらそうやって尋ねるのを少しも惨めだとは思わなかった。上滑っていくように自分の声が部屋の中に響いていたけれど、臨也はそれに少しだけ笑ってみせるだけだ。

「かなり腫れてるね」
「え、まぁ。…目立つ?」
「いろんな意味で、目立つよ」
「そう?困ったなぁ」

今日の僕たちはいつもより静かだった。自嘲するように笑う臨也になにか返すこともなく、僕は意識して唇を引き結んだ。誰もいない美術準備室の放っておかれたソファに座っていると、ふと臨也が控え目に身じろぐので僕は天気良いねとだけ呟いた。臨也もそれに頷いたままそれ以上なにかを喋ろうと言うつもりはなったらしい。そうしていると彼は淋しくなるくらいに無害だった。底冷えする程の嫌悪しかない行いだってきれいな顔ですんなりとやってのける癖に、一人きりで海に突っ立ているような気分にさせる。訳もなく僕は自分の首筋に手を当てた。

「君はさぁ」
首筋に少しかかった髪の毛から手を放した。そうしてそのまま、投げ出すように身体の両脇に置かれた手に指を伸ばす。なにかのついでみたいに触れたけれど、僕にはそれが哀しく思えてならない。僕よりも頼りない手のひらを見つめながら、触れるのにいちいち理由を唱えている自分が滑稽でならなかった。
熱を持ったように腫れた手の甲も骨ばって脆くて薄い、女の子とも違う手のひらも。試すようにゆうるりと持ち上げても彼は黙ったまま僕の目を覗きこんでいるだけだった。

「君たちは、さぁ」

真意を探るような、そういう目つきではなかった。見下すものとも嘲る類のものでも。なぁに、とだけ尋ねる声はあどけなささえ感じる。純粋に解っていないのか。僕は黙って、臨也の手を掴んだ方の手の指先に力を込めた。

「…いいや」

きっかけは恐らく、僕だったのだろう。どこかぼんやりした臨也になんでもないよと笑った。会話はそこで途切れた。そっと離れていくみっともない手を辿って、僕はぼんやりと臨也の睫毛を見つめていて臨也はその手を呆けたような顔をして見ていた。それを残した人間を僕はなんとなく知っていて、確かめたことはないけれどきっと間違いないだろうと言う確信だけはしっかりと胸の内にある。
親指と人差し指の間の、薄く盛り上がったような傷痕は爪先の色と同じく淡いピンク色をしていた。どう見たって不格好なそれが、僕にはどうしようもなく美しい。こんなにも素直にそう思えるのは愛する彼女を覗いてはきっと初めてかもしれなかった。それを思うとどうしようもなく癪だが、それでも事実なのだ。吐きだした溜め息はチャイムの音に掻き消されてしまった。特に思うことなどなかったのに、口には出さず参ったなぁと呟く。隣に座る臨也を見ているともう次の授業なんて出られそうになかった。頭の中には相変わらず、一人の男の後ろ姿がある。

(ある意味で誰よりも解りやすい愛情表現、だねぇ)


きっと本人たちでさえ、それを知らないだろうけど。