手のひらの温度が随分と気になっていけない。窓の向こうから射す夕日がやたらと眩しくって、目を背けて気を紛らわそうとしてもどうしたって男の姿が気になって仕方がなかった。
 一刻も早くここから立ち去らなければと、多分焦燥にも似た感覚でそう思っているのにどうにも足がうまく動かない。いつの間にか廊下の外で聞こえていた生徒の声は止んでしまい、何もない空間に背中を押され放り出される気分になる。チャイムの音が響くのをひたすら願っている。いつからこんな風に臆病者になってしまったのか。ただ単純に、ここから逃げ出すきっかけが欲しかった。

 ポケットに手を突っ込むと煙草のパッケージが指先に触れた。角はきれいなまま、きちんと硬さを保ってポケットの中におさまっていた。朝コンビニで買ったばかりの、隙間のほとんどない箱の中身に手をつける。そのまま取り出し口元に持って行き、ライターを探すところでふと空気が震えたような音がした。人が耳元でささやいたようにぼやけた空気が動く。弱々しく息を吐いたような音に覚えがあった。口元を上手に吊り上げ、見下すように笑えばこんな音がするだろう。そんな光景がちらつく。目の前の男もよくそうやって笑う。と言うかそれ以外など見たことがなかった。

 狸寝入りだと解った途端、口元がひくりと震えたのは最早条件反射だった。くわえた煙草が落ちてしまうのも構わず左手で男の髪を鷲掴み顔を上げさせる。袖口からナイフを取り出すことなど承知の上だったので、もう片方の手でか細い手首を引っ掴み力任せに締め上げた。今度こそ殺してやろうか。ぎしりと骨の軋む音に背筋にざわりとした冷たさを感じたが、決して不快な温度ではなかったのでやり過ごしているとナイフが滑り落ちてゆくのが視界の端でやけにきれいに映った。
 落ちるナイフは一度派手に床を叩いて再び地面に転がった。からんからんとリノリウムの床に響く音など目もくれずされるがままの男の顔を覗きこむ。今日は随分と呆気ないと思い、顔を近づけるが深い意味などない。ただ、笑ってやろうとしただけだ。それだけだったと言うのに、膜を張ったようにひかる目が存外きれいで上手く笑えずそのままでいた。口元を薄く震わせたまま、怯えるような息遣いの癖に眼つきだけは何も見失わないちぐはぐな表情である。ふと先程落としたナイフに目を落とすと、折り畳み式のそれは刃も仕舞いこまれたまま床の上でひっそりと影を造って持ち主の手のひらに戻るのを待っていた。この男にしてはらしくない。取り出すだけで精一杯だとでもぬかすのか。馬鹿な。

「なんで殴らないの」

 人の気も知らずに、信じられないと言ったような声で非難する。言葉尻が震えたのは気のせいではなかった。殊勝な声音で殆ど独り言のような小ささで呟く癖に、視線だけは真っ直ぐ射抜くようにして逸らさない。不躾と言うよりも静かな視線だったので腹が立つことはなかったが、こんな風に静謐な表情をされるとどうしたらいいのか対応に困った。無駄に整った顔立ちのせいで静止していると人間味に欠けてこちらが戸惑う。

「しずちゃんが似合わない名前の通りに静かなのは、気持ち悪、ぃ゛っ」

 口は災いのもとだと、ほんとうに良く言ったものだと思う。不気味な程の大人しさに免じて、手加減して頭突きをかますと臨也はそのまま眩暈を堪えるようにして瞬きを繰り返した。生白い顔をして左目は少し眦を濡らして、時折ほんとうに痛そうにして息をつめては吐いている。薄い唇を引き結んで耐えている様がらしくなく健気でしおらしい。だからかもしれない。身じろげばすぐにでも触れ合う距離で、嫌悪や殺意は湧かなかった。

「手前今日、らしくねぇよな」

 額に残った鈍痛は気にならない程度だったが相手にとっては衝撃的だったらしい。触れたままの額は拍子抜けするほどには熱を持っていて、それに思わず目を細めると馬鹿にされたとでも思ったのか、臨也はあからさまに不機嫌な様子で眉間にしわを寄せてねめつけた。うるさいばか顔近いんだって放してよ煙草くさいんだよもうほんと死ね。余裕もないのか舌ったらずに捲し立てられる。暴言はまだ続き、時折同じことを二回言う。どうやらほんとうに余裕がないらしい。
 ふと視線を横にずらすと、薄くて脆そうなかたちをした小さな耳が目に入った。薄っぺらな皮膚を透かしたような色味の赤が随分と眩しく、目にしてしまうとどうしたらいいのか解らない。髪の毛を鷲掴んでいた手をゆるめてただ添えるように触れると、臨也は大げさに震えたが結局押し黙るということはなかった。不貞腐れた声で好き勝手喋る男を、咎めないのはこれが初めてかもしれない。鼻先が触れるほどの距離でナイフも突き立てず手首を折ることもなく、らしくないなんてそんなもの、自分で言っておいて今更だろうに。



 



03 すなおになりたい
2010.3.12 静雄と臨也