(みしらぬとち)


新羅から受け取った小さなメモは、ズボンのポケットの中にまだ入れてある。東京から電車とバスを乗り継いでようやく辿りついた先にはまったくもって土地勘がなかった。斜め向かいの大型スーパーを睨みつけ、そうしてバス停に張り付けてあるすっかり色のあせてしまった時刻表に目をやりながら、左手でメモに触れてはその扱いに躊躇している。さっきからずっと、気になって仕方がないのだ。電車に乗っている間、バスに揺られている間。たった一枚の薄い紙切れに、それに書かれた小さく几帳面な文字に、ずっと執着していた。執着しているのだ。取り出してなぞるように触って、少し、考える。

書かれているのは、見知らぬ住所だった。池袋とも新宿とも違うこの住所を、あの男はどんな思いで託したんだろう。真っ直ぐな数字の羅列を見る。郵便番号まできっちりと書くのがなんだか妙に笑えて、ここに招待状を送る新羅とそれを受け取った臨也を想像して、そうして、少しだけ、目頭が熱くなった。思わず名前を呼びそうになった瞬間、がさがさと右手に持ったスーパーの袋が風に揺られて我に返った。中に入った真白い紙袋が目に入る。殆ど重さなどない癖に、新羅が処方した薬は量だけはやたらと多い。これをあの男は何日かけて服用するのだろう。会って聞けばあの男は素直に白状するだろうか。知らぬ間に誰の前からも消えてしまった男の薄笑いを想像する。知らないことばかりが増えていくのは少しだけ疲れて、淋しい。一体あといくつ知ればいい。こんなものはもうごめんだと投げ出せるのが一番賢いと解っているのに、それが出来ないことが何より忌々しい。どの方向へ向かえば良いのかも定かじゃないのに殆ど駆け出す速さでバス停を離れた。混雑している様子など欠片もないスーパーの駐車場が視界の端に入って、通り過ぎる。驚くほど純粋に、会いたいと思っている。今すぐにでも。思わず名前を、口にしそうになって悔むくらいには。

きっと、長く傍に居過ぎたせいだ。それがたとえ俺も臨也も望まなくとも。






(あのよるわたしがおもったこと)




「あぁ、お帰りセルティ!待ってたよ!」

遠慮のない衝撃に、私はよろめいて苦笑した。いつものようにPDAを取り出し、危ないだろうと手刀の一つでもかましてやろうかと思っていたというのに。玄関のドアを開けると飛びつくように新羅が抱きついてきて、お帰り、お帰りとまるで子供のようにはしゃぐものだから私は黙って抱きしめ返すしか出来ずにいた。肩口に顔をうずめて私の帰宅を喜んでくれる男に文字を打っても今は仕方がないと思ってそのまま好きにさせていたのだ。縋るように力が籠る指先に、私は少し思うところがあった。衝動のように愛おしさだとか切なさだかが込み上げて、理由も解らずに、ただ、何となくやさしく接したくなってただいまと告げたつもりで背中に腕を回すと、息を飲んだように一瞬強張り、少しの間新羅は黙ったままでいた。普段はあんなにも、時折、あの胡散臭い笑顔の情報屋よりも飄々としているのに。なんて不器用なんだろう。


落ちついたらしい新羅と居間に戻ると、テーブルの上の二つきりのマグが目に入って私は咄嗟に静雄だろうなと思い新羅を振り返った。それを見て新羅は私に、「あいつじゃなくちゃだめなんだよねぇ」と呑気そうに笑う。何もかも悟ってしまって淋しそうな、だけど満ち足りた目をしている。
なにが静雄じゃなければいけないのだろう。そう思って、PDAに指を乗せる前に昼前に出会った彼との会話を思い出し、殆ど無意識に『臨也のことか』と打ちこんだ。二ヶ月前に会ったきりの薄っぺらい背中が蘇る。覗きこんだ新羅は困ったように笑んでみせ、そうしてセルティには全部お見通しだねとやわく唇を吊り上げた。
「静雄にさ、ちょっと頼まれてもらったんだ。臨也のやつに届けたいものがあるから、私の代わりに渡してきてくれって」
『……お前、臨也の居場所を知ってたのか?』
「最後に会った日、私と君の結婚式の招待状を届けるのに教えてよって言ったら。笑いながら郵便番号まで教えてくれたよ。まったくあんな顔しちゃってさ、俺は君の弟じゃないんだから」
『け、結婚式って!おまえ!』
「セルティ…!照れる君も美し、ぐふっ」
『茶化すな!!……違う、そうじゃなくて、』

鳩尾を抱えてソファに沈みながら、相変わらず正確無比な一突きだねと引き攣った笑いを零す男をねめつける(私には首がないけれど、)。新羅は怒らないでくれよと咳込みつつも、ようやく呼吸を整えソファの背に完全に身体を沈ませた。どこか遠くを見ているように静かに手元に目を落とす。

「あいつじゃなきゃさ、だめなんだよ」

言い聞かせるような声音だった。お前は行かないのかと聞こうとした私への、牽制だったのだろうか。若しくは今ここにはいない静雄に向けた言葉だったのか。いつの間にか行方を眩ました臨也への伝言だったのか。私には解らない。視線の先の軽く組み合わせた両手の指は細く長い。男にしては、繊細な造りをしている。だけどやはり私よりは大きかった。大きくて、うん、大きかったのだ。私は自分の指を重ねた。驚いたように顔を上げた新羅と目が合う。私には、首が、ないけれど、目が合う。合わせた。新羅。

「やっぱり君は、最高の女性だ」

くしゃくしゃに顔を歪めて、男は不器用に笑った。私はなにも言わなかった。お前は不器用だ。不器用の塊なんだ。お前も静雄も臨也も、そうして、私も。






不器用な子ども
2010.06.08 平和島静雄・セルティ=ストゥルルソン(思う人は別々で似通う)