(たまにおもいだすこと)


「いつも悪いね、新羅」
ここ数ヶ月こちらが指定した日時にきっちりと現れる男に、言葉を返すことが出来なくて曖昧に笑った。キッチンを出て開口一番の言葉に普段の軽口も嫌味も口にしないまま突っ立っていると、持ち上げていたマグの一方をひょいと手にして何の疑いもなくそれを口元に持っていく。躊躇いのない動作を見届けてから向かい合うかたちでソファに座り、いかにも適当に放っておいたテーブルのカルテに目を向ける。コーヒーを啜ると立ち上る湯気で眼鏡が曇ってしまって、それを男は指をさしてからからと無邪気に笑った。眼鏡を外すと途端に辺りがぼやけて難儀だが、男の弱った姿から今だけでも視線を逸らすことが出来るのだからもしかしたらこのままでも構わないかもしれない。なんにも口にはせずに今度は男の手の中に収まったマグの中身に目を向けてみた。湯気の一切立たないただの白湯を、男は嬉しそうに少しずつすこしずつ口にした。


「最近調子はどうだい」
毎回男に同じ質問を繰り返すが、それが俺にはどうしたって慣れなくて未だに信じられない気分になる。高校の頃からため込んだ分厚いカルテをねめつけてから、悟られないよう目の前の男に目をやった。袖口から覗く手首の薄さは俺でもどうにか出来そうなほど呆気なくて質量を感じさせない。今も昔も似通った棒切れのような細さで、だけどあの頃より、どうしよう、確実に頼りなく感じる。気のせいではない。
「相変わらず人ラブなの?」
おどけた調子で言えば、ようやく臨也が声を上げて笑った。何も言わないのが恐らく肯定だろう。伏せがちな視線を辿ろうとして、覗きこんだ顔が泣きそうに笑んだのに驚く。こんな笑い方をする男ではなかった。少なくとも俺は知らない。
「いまね、少し身の回りのものを片付けているんだ」
「片付け?」
「そ。お片付け。これが意外と、ものが多くて骨が折れてね」
電子音が鳴る。一体何を片付けているのだろう。小さな電子音にこれほんと早いよねなどと呑気そうに笑いながら、臨也は服の中に突っ込んで小さな画面を覗きこんだ。まぁまぁかなと間延びした声でそれを突き返す。35度6分。
「新羅はさ、南の島って行ったことある?」
「行ったことはないけど、」
受け取った体温計を、ケースの中に仕舞いこみぱちりと蓋を閉める。簡単にメモだけを残して幾つかカルテを捲った。それにしても南の島、か。
「僕は行きたいとは思わないね」
「奇遇だね。俺もだよ」
君には少しも似合わないねぇ。





(いまのはなし)


迎え入れた男を目の前にして笑う。ついに来たなと安堵するつもりでそうすれば、彼は訝しげに睨みはするもののどこか戸惑うように俺の名を呼んで詰めった。聞きたいことがあると慎重に口にする姿は妙に新鮮だが本来の男の性格を考えればそう不可解な光景と言う訳でもない。一歩後ろに下がり上がってと目で催促すると、居心地の悪そうに靴を脱ぎ黙って俺の後ろをついて来た。一時間前に出かけたセルティはまだ帰ってこない。

「君が来てくれてよかったよ」
「用事でもあったか?」
「いや、私も正直良く解っていないんだ。…コーヒーで、良いよね」
スティックシュガーを二袋取りだし振り返る。「砂糖は?」
「あー…二つで良い」
充分だよとは、言わなかった。



「臨也のことだろ?」
ほんの一瞬肩を震わせた男の手元を一瞥しても、マグカップは無傷なままその手の中にまだ収まっている。そう言えば以前はあれにほんの少しの白湯を淹れてやったことを思い出す。それを嬉しそうに飲み下していた男の笑顔も取っ手を掴む指先も。あれは何ヶ月前のことだっただろう。出来事だけは鮮明に覚えている癖に、時間の経過があやふやだった。
「どっか悪いのか」
「え?」
「高校の時から、手前のとこ通ってたんだろうが。それに最近まで、……。…病気、なのか」
きっと他人事だったら鏡でも見ておいでよと軽口の一つや二つ平気で叩ける筈だったのに。散々殺そうと長い間、そうだ、もう、七年になる。七年だよ静雄。君と彼はそんなにも長い間戯れるように殺し合いをして来たっていうのに。それでもそんな表情をする。解っているのかい。
「あいつはきっと、望まないだろうけどね」

君の感情の根底にあるのは、殺意なんかじゃないだろう。もっときれいでちっぽけでみっともなくて、

「ねぇ静雄。あいつに会いに行ってくれないかい。理由がないなら、私が君に依頼するよ。あいつに薬を届けに行って欲しい」

やさしい、感情だろう。違うのかい。

「…薬って、」
「別に死ぬような病気じゃないよ。君が殺そうと長年追い続けても死に損なってる男だよ彼は。病気の方が逃げていくさ。…ただ。…―――ただ、身体を冷やさないで栄養をきちんと取って正しく睡眠時間を取ってあまり無理をしなければ、確かに身体は弱いけどきちんと長生きするよ。でもね」
置くの部屋から数週間分の錠剤を持ち出す。朝昼晩食後三十分以内に飲むよう言ってねと言いながら、小さなコンビニの袋に入れてやり一緒に持ってきたカルテに挟んだメモを突き出した。あの日の去り際臨也から受け取った、きれいな字で走り書きのある小さな紙切れだった。思い当たる場所はここしかない。告げると袋と紙切れをひったくるように受け取り、静雄はエレベータも待ち切れず階段で下りて行った。

これで良いこれが良いんだよ臨也。君の望んだ結果とはどう頑張ったって違ってしまっただろうけど、生憎俺は善人でも悪人でもないから。
「彼は俺の患者だよ。だから、最後まで面倒くらい見させてよ」





(あのひ、)

「もう行くよ。ありがとう新羅、それじゃ」
「どこに行くんだい」
カルテを握る手のひらが震えた。あまりにやさしい声で、名前を呼ばれたからだろうか。嫌な予感しかしない。
「は?新宿、に帰るんだけど、」
「違うんだろ?」
置いて行かれた子供のような居心地の悪さを感じて、右腕を掴むと子供のような顔をして驚く。ぶつ切りの声で聞いてもやはり男はかわすだけだ。このままではいけない。大した確信もないのに名前を呼び、予感だけで詰め寄れば臨也は溜め息をつき敵わないなぁと控え目に微笑んだ。嫌味ではない溜め息はわざとそうしているのがすぐに解る。

「少しね、遠くに出かけようかなってさ」
「遠く?って、」
「どこかなぁ。静かになれる場所とかいいよね。あぁでも人のいないところはいやだな。火種を放り込む元気はちょっとないけど、でもまだ人は好きだしね」
「臨也」

殆ど、泣き落しに近かったかもしれない。掴んだ腕の細さに怯まず力を込めると、少しだけ首を傾げ痛いよと笑って俺の手の上に自分の指先をを重ねた。淹れ立てのお湯でも渡してやれば良かったと後悔する。水の中にでも浸かっていたみたいだ。こんなの全然、あたたまっていない。
「俺は君の医者で、君は俺の患者だ」
「うん」
「だったら俺は君の居場所を知る権利があり、義務がある。同時に君もだ。今更解消なんかしてやらないよ高校の時からずっと僕は…っあぁもう、だから、あぁ、それに、」
「それに?」
瞬きをするのが、妙に苦しかった。それは臨也も同じかもしれない。さっきから瞬き一つせず、大人しいまま笑顔も消えてただ微かに驚いている。必死な表情に似ていた。きっと俺と同じだろう。だけど俺は笑ってやろうと思ったのだ。大丈夫笑える。言い聞かせるようにして震えそうな声を抑えた。みっともない。けど、自然と笑みが出た。
「私とセルティが結婚式を挙げる時、招待状を送りつけてやるのに困るだろう」











やさしいきおく

2010.5.3 岸谷新羅(彼と彼らのこと。後はたまに僕のこと。)



※2010.6.08 タイトル変更