風のない三月の初めはそれでもまだ寒かった。薄い硝子戸で仕切られた玄関は横切るとしんとした冷気が漂い、そこだけ空間が切り取ったように清々しくそして空々しい。少し離れた体育館から、殆ど張り上げるのに等しい低音が聞こえてくる。重なる高音はどうにも弱々しく、それでも調子は外していなかった。二番、三番に進むにつれて心なしか音量が下がっていくのを聞き届けて止めていた足を前に出す。ほんの少し身震いをして辺りを見渡した。思い入れがない訳ではなかったから、出来るだけここを覚えておこうとこころに決めた。きっともう二度と訪れることはない。

意図しなくとも耳を澄ます。人のいない廊下。職員室は二階で、授業で頻繁に立ち入るような教室は大体四階にあるからここはとても静かだった。来客もなく、在校生にとってはもう春休み間近のこの時期は保健室も出入りが多くない。窓からひかりが射しているのにも拘らず廊下の端は薄暗く、時折、突っかかったような靴音がやけに甲高く耳に残った。三年間履き続けた割には痛みも少なくてきれいな靴だと思う。踵がリノリウムの床に引っかかり、きゅ、と乾いた音が廊下に響く。後ろにある体育館は扉がひたりと閉められていてもう校歌も何も聞こえなかった。いつの間にかまた立ち止まっていた廊下の真ん中で、踏み出した右足が自分の身体の癖に違和感が残る。なんでとかどうしてとか、そうやって深く考えもせず緩めに結んだ靴紐の結び目に目を落とす。
明日かぁ。言い聞かせるように呟いては見たものの、夢を見ている心地に近くてなかなか上手に自分に置き換えられない。
明日、かぁ。何時まで経っても他人事だった。上滑って行く感覚が、どうにも腑に落ちず落ち着かない。考え事をするには好都合な静寂の中で、時に沈黙は喧しく煩わしいことを知る。少なからず緊張と不安がある。淋しさだって、それよりももっと静かで優しい感情も、恐らく。
「あぁ、」
吐き出すように呟いても、誰も聞いてはいない。




薄汚れた白色の扉の前で足を揃える。緊張は、今はしていない。開いた拳は、乾いてなんてことないただの体温をしていた。思いの外力が入っていたのか指で隠れた手のひらは爪のかたちが薄く残っている。そのまま取っ手に指を伸ばすと温度差で指先がじんと痺れる心地がした。
三学年全員が体育館に向かう中、当たり前のように背を向け手だけを振った男の後を俺は黙ってついて行った。今にも殴りかかろうとする男とそれを宥める級友の姿に苦笑しながら、歩幅を狭めて彼らと距離を取る。そっとあの背中を追ったのは多分なんてことない気紛れだった。素人丸出しのあの幼く拙い尾行で、臨也が気付いていない訳がない。たった一度も振り返らずに静かな足取りで階段を下りて行くのは言外に追って来いと言うことだろう。傲慢さも身勝手さも感じない代わりに、どうしようもなく可愛くて可哀相で仕方がなかった。いつまでたっても変わらない不健康なあの細い背中を追いながら、そう言えば憤りを感じたことはなかったことを思い出す。えげつないことをなんの邪気もない様子でさらりとやってのける人間だと言うのに、否定しても俺は彼の傍にいたし否定する俺に彼は決して害を為したりはしなかった。味方かと尋ねられれば曖昧に笑うが敵かと詰め寄られれば何の躊躇いもなく否定するだろう。俺も彼もただお互いの傍にいるだけで、たとえどのような場合においてもそれは変わらなかった。いつだってそうだ。一番ではないのに唯一みたいに傍にいて、それしか知らないみたいに、それがふつうのことみたいに。むかしからそうだったみたいに。
そうだ。いつだって、君は。



扉の前。未だに俺は立ち尽くしたままだ。開けてもいないのに絵具や埃っぽい籠ったにおいを感じたが嫌悪する類ではない。取っ手の凹みに添えた指先に力を込めるがやはりなんの抵抗もなかった。呼ばれるような感覚に陥って足を踏み出す。今度は、違和感はない。それにほっとして教室の中を見渡す前に戸を閉め切った。きちんと振り向き鍵をかける。かちゃりと硬質な音を立ててつまみを横に倒す。ざっと見渡した先には乱れた様子のない机と椅子ばかりが並んで、手前の机には一本だけ短い鉛筆が転がっているだけだった。人の気配はあるのに臨也の姿は見えない。常勤の美術教師はこの学校にはいないから気配は彼のもので合っている筈なのに。どこにいるんだろう。落とした消しゴムでも拾うみたいにしてしゃがみ込む。机に手をつき膝を曲げながら。おおい、いざ、

「あ。」

やぁしんら。しゃがみ込んだ先の、机で遮られた視界の奥の方に男は座り込んで目を細めた。見つかっちゃったねぇと、そんなことは欠片も思っていない癖に残念そうに眉を下げ女の子にするように気さくな仕草で手を振った。ろくに運転しない暖房に寄り掛かり丸くなる姿は無害な小動物に似て頼りなく素気ない。なんだい君、そんなところで何やってるのさ。頬が緩むのを感じながら呆れた声で近寄ると、男は長い袖口から右手を出しおいでおいでと手招く。やんわり目を細めて首を傾げるとほんとうに無害でやわらかい。他所行きではないゆるやかな頬のふくらみが、少女と女性の境目のようにささやかでやさしかった。
倣うようにして隣にしゃがみ込み、ふぅと息をつき床に落ちつく。予想していたよりそんなに冷たくはない温度にそれでも身じろぐと同じように臨也が足を崩す。床に手をつきながら、汚れるよと笑うが今更だそんなの。
「明日はどうするの?」
「どうするって?」
首を傾げる。動作は幼いのに、面白おかしそうに笑う目は見透かすようにまっすぐで強かだ。全く君ってやつは。慣れた調子で盛大に溜め息をつく。きっと明日も俺は彼の腕やら足やらにガーゼを当てて湿布を貼り付けて包帯を巻いて、そうしてそれを居心地悪そうに遠目で見守る静雄に小言を一言二言くれてやるに違いない。最後の最後まで君たちらしい。諦めのついた言葉で、それでも非難するつもりなど欠片も滲ませずに告げればやんわり目を細めて少し慣れていないように笑った。笑って、明日もよろしくねと当たり前のことを言う。繕わない表情は人間らしく下手くそでやさしくて、やはりあまりにも不器用だ。こんな表情を君の天敵は知らない。

「それ、どうしたの?」
指をさして尋ねると、臨也は不意を突かれたようにまあるい目を向けて間の抜けた声を出した。それ、薬指の。指摘するとようやく気付いたのか、あぁこれ、とビー玉を覗きこむようにして手のひらを掲げて食い入るようにじっと見た。石膏のような色に似た指の付け根は皮が剥けていて、ピンク色の肉が見えている。そこだけ浮き上がったような色が妙に生々しい。
「静雄かい?」
殆ど確信を持って告げると忌々しそうに眉を寄せた。吊り上げた口元が少々歪だが、この距離でなければ恐らく気付けなかっただろう。
「さっき逃げ回った時、かなぁ。全然気付かなかったけど―――…なんか地味に痛いし」
「そういうのってさ、気付いたら無性に気になるんだよねぇ」

ほらさっさと見せてよと差し出された手のひらに指を添える。血の滴らない程度の、薄い切り傷を確認しながら絆創膏をぺりぺりと剥がしてふと男の顔を覗きこんだ。いつの間にかつけられた小さな掠り傷に、そうっと瞼を伏せがちにしてひたすら無防備に見下ろしている。顔を寄せても抵抗しない。そうして見せつけるつもりで舌を差し出して、先の方で僅かに触れると金属に触れたような感覚がした。息を呑むような掠れた声がするが構わなかった。唇で触れた指先はどちらかと言えばぬるい温度をしている。しかし冷たくはない。あたたかくはない皮膚は乾いてやわらかい。左手の、薬指だ。なにかを意図しているように、その指の根元が傷ついている。
「いたいよ、」
「唾でも付けとけば治るよ」
医学に携わる者として不適格な言葉に不服そうな顔をして、男は巻いたテープを先程そうしたみたいに下から覗きこむ。言葉はない。俺も彼も。後ろから射すひかりが強くなって、並んだ二つの影が濃くなっているのに気がついた。ふと、視界の端でひかるのが気になって顔を向けると舞い上がった埃が日光に晒されてちらちらきらめいている。目の前には整頓された机と椅子の足が揃っていた。こんな角度から教室を眺めるのは初めてだった。普段より高い天井とかひっそりとひしめき合った物置代わりの本棚だとか。思ったよりここは広かったのかもしれないと感じていると男が俺の名を呼んだ。しんら。ねぇ、しんら。随分と舌っ足らずで、まあるくやわい声で呼ぶ。あぁそうだ。もうずっと前から、君はそうやって俺を呼ぶよね。
「結婚指輪みたい。これ」
「静雄から?それとも、俺からかい?」
「やだな、君の一番は彼女にとっておきなよ。あーでも、しずちゃんからって言うのもまっぴらごめんだよなぁ」

無邪気そうにからからと笑う、君になんて言って良いのか解らない。ひとしきり笑い終えた高い声でさわってと強請る癖に、持ち上げて伸ばした指先を悟らせないように牽制するのはどうしてだ。一瞬躊躇い、それでも伸ばした俺の手はそのままの温度で男の指先に阻まれ固まっていた。掴む指先から体温が染み入っていく。じんとするその感覚を、心地好いと俺が思うことを君は知っているか。あたたかくもないこの温度が、俺は多分好きだよ。知っているかい、伝えることが、俺は出来たかい、臨也、

「しん、」
伸びあがって触れる。塞がっていない片手で前髪をかき上げて、すんなりと弧を描く額にキスをした。皮膚と皮膚が触れ合っただけの接触に、臨也は微かに息を詰めたがやがて静かに吐きだした。ごめんね臨也、額にしか、出来ないよ。みっともなく吐き出せば充分だと言いたげに微笑まれてお返しをされた。これが最後だからと言いたげな目をして。
「明日、行くから、忘れないでよね」
掴んだままの指先を解こうとするのを目の当たりにしてしまうともう駄目だった。眉間の辺りがきんと痛んで、喉の奥が震えるように鈍く痛む。所々体温が上がっていくような感覚のやり場がなくて、だからどうしようもなく逃げていく指を追いかけた。組み合わせた指の付け根がざらついている。薬指と小指の間に、絆創膏の巻かれた薬指が挟まり弱く爪を立てていた。そんな目をしてそんな顔をして、確かに明日俺たちは卒業するけど、それで終わりじゃないだろう。君も静雄も京平も、だってこんなに大事で大切で、君に至っては額にキスまでし合った、だから、親友みたいなものだろう。解ってよ。

「今度さ、お茶でも飲みにおいでよ。いつでも構わないからさ、」











3月9日

2010.4.20 新羅と臨也