決して目を閉じてはいけないと、言い聞かせたのにもかかわらず目の前の金色が眩しくって思わず目を細めた。くの字に曲げた手のひらに触れた皮膚はあたたかいのに湿り気もなくかさついていて、小さく逆立ったような皮の感覚が指の付け根に走ってくすぐったい。幸運にも、と言って良いのか、教室は今は無人で前後の扉は男によって外されることもなくひたりと隙間を空けず閉められていた。色の褪せた高さのない棚が身じろいだ拍子に背骨に当たる。以前の塗装の剥げかけた大きな棚より見た目は良い。男がぶん投げ駄目にしてしまったせいであまり使わない資料室から拝借してきたらしいが、白い塗装がすっかりくすんで見えること以外はなかなか状態の良いものだった。



 逆光で表情の判断できない距離よりももっとずっと近くで男は不思議そうに眉を寄せる。怒りに歪んでばかりの男がそれを捨てると存外幼く無知にさえ見えて、やがて穏やかそうにほうと表情をゆるませたこめかみに、青筋が浮かばないのが心底気味が悪くて仕方がなかった。
 下校時間などとうに過ぎてしまった教室で、座り込んだリノリウムの床板の冷たさなどもうどうでも良い。放送で流れる教師の呼び出しを遠くで聞きながら、男のくちびるを覆った左手に右手を重ねて、もう勘弁してくれと声も出せずに目を瞑った。瞼をきつく閉じた瞬間思い出したのはあの日のことだ。自分たちの関係にこんな触れ方は不要だと、以前確かに口にしたのに。嘘偽りなどどこにもない。本心からそう告げると男は食い入るように見つめてから、試すようにおっかなびっくり触れてきた。大きいのに華奢な指先で躊躇いがちに触れられるのが苦しくって堪らなかったから、だからこそべたべた触られるのは好きじゃないと告げたのに。男は数秒沈黙した後、心得たと言わんばかりに痛みのない雑な手つきで撫ぜるように触れてきた。不慣れなことを隠すことも出来ない手つきで、だけど咄嗟に何も言うことが出来なくてそうやって好きなようにさせていた。そんな風な触れ方をあの日で最初で最後にしなかったのは、だからきっと俺のせいなのだ。俺に触れるなと言えば何か変わったのか。目で問うても男は察してくれない。だがそれで良い。期待していい、関係でもない。


 沈黙。音がない訳ではないのに、秒針の刻む音すら聞こえてきそうで恐ろしい。ひたすらに唇を覆う両手に男は目もくれず、恐る恐る持ち上げた右手でかき混ぜるようにして髪の毛に指を突っ込んだ。動作は荒々しい癖に指に込めた力加減は生ぬるいことこの上なくてようやく頭を撫でられているのを知る。そんな風に触れられることなどこれっぽっちも慣れていないのに、どうして彼はそんなところまで踏み込んでくるのだろう。殺したい程憎い相手にそんなことをしたところで、得られるものなどなんにもない。ないと言っているのに。せいぜい混乱して取り乱す仇敵の無様な姿を拝めるくらいだが、君はそういうのに関心を持つ程、ねぇ俺に、興味の欠片もなければ嗜虐性など。持ってはいないだろう良くも悪くも、君はやさしいんだから、さ。

「…シズちゃん、気味が悪いよ」
「あ゛ぁ?」
「だってさ、俺達ってこう、なんて言うか、もっと殺伐とした関係だったじゃない?なんで殴ってこないの。いや自虐趣味はさらさらないけど、」
「なに混乱してんだ」
「うっさい喋んな。くすぐったいんだよ。つかリップクリーム付ければ?乾燥してるよ」
「じゃ手ぇ放しやがれ。…甘ったるいの好きじゃねぇんだよ」
「やだよ放したらシズちゃんキスするだろ。あー、いい加減頭撫でんのやめてよ、べたべた触られんの嫌いって言ったじゃん」
「…しちゃいけねぇのかよ」
「へ?」
「べたべた、って触り方はしてねぇぞ」


…あー…。あぁー……。



「しずちゃん、帰りにリップクリーム買おう。無香料のやつ」









わたしに触らないで

2010.4.07 静雄と臨也(どうせ聞く耳など、)