夏服が少し肌寒い。朝から時々ごうと強い風の吹く、快晴の割に春の日のように日差しが柔らかい日だった。乾いた空気が埃っぽくて、教室の窓を全開にしていると隅にのけたカーテンがはためいていたので誰かが見かねて束ねていた。教師の顔は酷く穏やかそうで気の抜けた表情をしている。華奢でも何でもない撫肩が安堵でさらに下がって見えて、つらつらと公式を読み上げる声は裏返りもせず眠気を誘った。臨也が懐いた彼は僕の斜め前に座っていて、授業が始まる前にちらりとこちらを振り向き、そっと息をついたように顎を下げてまた前に向き直った。僕とは目が合わなかったし、目を合わせる必要があったとも僕は、あまり思わなかった。すっと背筋を伸ばして無表情のまま、彼は静雄のことを気にかけて、臨也のことを心配していたりするのだろうか。とにかく俺の後ろに、あの二人は座っていなかった。まだ、二時間目の話だった。



 マナーモードにしていた携帯の着信ランプがポケットの中でひかる。『お取り込み中かい?』と、メールを打ったが返事を期待していた訳じゃなかったのに。着信が止んでランプが消えてしまってたっぷり十秒数えた後、携帯を開くとメールが一件届いていた。『保健室』。臨也からだった。時計を見て、誰にも言わずに教室から抜け出す。後ろ側の扉に手をやってそっと廊下に足をつけた時、ふと振り返ってみると今度はきちんと彼と目があった。笑ってやると仕方がないと言いたげな表情で目を伏せまた前を向き直る。背筋は心なしか丸くなっているようにも思える。君は、心配性だね。そうしてとても、お人好しだ。もうすぐ、四時間目のチャイムが鳴る。



 一階の廊下は、しんとして空気が湿っている気がする。保健室は廊下の突き当たりの、地学室の真向かいにあって教室はどこも人がいなかった。保健室の掲示板に置いてある小さめのホワイトボードに、今日の日付と不在の文字が赤い色で大きく書かれてある。人のいる気配のしない廊下でもう一度携帯を開く。『保健室』。メールは開きっぱなしになっていた。右手で拳を作り、ノックを三回。どうぞ、と中から聞こえた声はくぐもっていて、そうして酷く平坦なものだった。一拍ほど間を開けてドアノブを捻る。

「…あれ?臨、也?」

 怪我でもして動けないのは、彼の方だと思っていた。硬そうなベッドで眠る静雄の傍で、臨也はただじっと座っていた。カーテンを引いて隠すこともなく、静雄の顔を覗き込むようにして、ものも言わず座り込む彼は全くと言って良い程表情がない。死人と言うより人形のようと言った方が相応しいほど、白い肌が無機物めいて色がなかった。一切の音を立てないで、唇を力なく引き結んで目を伏せがちにしたまま臨也はこちらには見向きもせずに静雄を凝視する。喉の辺りから首筋の付け根にかけてまで、視線をうろつかせるもののそこから目を離そうとしない。はっきりと浮いた鎖骨のすぐ下まで引き上げられたシーツは全く乱れていなかった。
 ただ眠るだけ、ただ、見ているだけの彼らを俺はただ眺めている。傷一つなくきれいなままで同じ空間にいるのは、殆ど奇跡に近かった。ふと顔を上げると僕らの後ろにある窓は開いていて、時折風が吹いてカーテンが靡いていた。彼はそれを束ねようとはしない。僕もそんな気にはなれなかった。

「ずっとここにいたの?」
「うん」
「最初から、君たち二人で?」
「いいや。シズちゃんが最初にいて、その次に」
「静雄が、ここに?」
「さっき起きて、また眠っちゃったよ」

 吐息が混じったような小さな声で、臨也はゆうるりと首を逸らす。嘲っているような声が遠い。水の中で聞くように曖昧で冷たくもなくやさしかった。それは誰に対してのものだい。口にしようとして、結局噤んでしまったことを僕は後悔していない。伏せていた睫毛を持ち上げる仕草は大人になり切れない少女のそれに近くて、口角を吊り上げるのが惨酷さを手放せない子どもを思わせてちぐはぐだった。眠っちゃったよ。彼はそうやって繰り返す。なんて声を出すんだ、君。噛み合わないのに隙がない表情が、ほんの一瞬揺らいで崩れる。微かに眉を寄せてみただけだと言うのに、どうしてか俺は臨也が泣くのではないかと思い手を伸ばした。今思えば期待に近かったのかもしれない。伸ばしたもののどうすればいいか解らず彷徨った手で一房髪の毛を持ち上げると、彼は困ったように笑い静雄を見下ろした。穏やかに胸が上下するのを、俺は臨也の少し後ろで傍観した。痛んでもやわらかそうな髪の間からすんなりと弧を描く白い額が覗いている。俯いて曝された臨也の首筋も同じように頼りない白さをしていたと言うのに、こんなにも温度が違って見えるのが不思議で息を殺す。く、と喉が詰まったような音がして、謀ったようなタイミングで強めの風が吹きつけた。臨也の唇が動いていて、静雄の両肩は微かに上下して、僕の腕はうっすらと鳥肌が立っていた。視界の端でカーテンが音を立ててはためいている。そんなにか細い声で喋る訳でもないだろうに、僕には臨也の声がこれっぽっちも聞き取れなかった。










微睡む戦争

2010.4.02 新羅と臨也(あの男はまだ目を覚まさない)