*パロです。しずちゃんが耳の不自由な叔父の臨也さん家に下宿している話。






「しずちゃん。しずちゃんほら起きて。朝だよ、遅刻するよ。静雄君ってば」


 何が楽しいのかやけに弾んだ声で、だと言うのに馬鹿みたいにやさしい手つきで肩を揺らすのでなかなか起き上がる気にはなれなかった。思考ははっきりしているのに神経が遮断されたように身体がうまく動かないのが酷く億劫で、小さく呻くと解らないよと呟かれたので無理やり目を開け腕を伸ばす。薄く開いた瞼の間から覗いた顔は幼い表情で、返事を待っているようだったので顔を上げて口を開く。何でもねぇよ。臨也は黙って、俺の口元を見てそう?と口角を吊り上げた。瞬きもせずに覗きこむので、今日はあまり耳の調子が良くないのかもしれない。寝坊するとこだったと口にすればなんの邪気もなく子供のように破顔して伸ばしっぱなしの腕をとる。手首に指を回して、起き上がるのを手伝う風によいしょと笑って引っ張った。枯れ枝のような指を離して今度は臨也が俺を見上げた。いつも通り、青白い顔をしている。

「おはよう、しずちゃん」

 右の手首が、まるで鎖で繋がれたように冷えている。薄い霜が皮膚に纏わりついているようで、反対の手で咄嗟に触れるとすぐに生温くなりあの指の感触だけが残った。




 折原に出会ったのは実に十年ぶりだった。今日からお世話になりますとかたちだけでも頭を下げ、そうして背筋を伸ばした時見せつけられた笑顔は所謂人好きのする類のもので十年たってもこれっぽちも変わっていなかった。自宅からここまで通うのきつかったでしょ。そうやって迎え入れた目は猫が見せるそれにそっくりで、俺が何かものを言う前に折原は笑って牽制した。「ここから高校近いもんね。えーと、来神?あ、今は来良だっけ?良く一年もあそこから通ったよ。登校するだけで大変だったんじゃない?」
 上手く笑えているつもりなのだろうか。そう思うと食道の奥がきんと冷えて行く感覚がした。俺がこの家に居候することになった理由など、恐らくとうの昔に察していたのだろう。右耳に触れて座りが悪そうに笑った。彼の左耳は昔から聞こえていなかったから、それを見て嗚呼、と声を漏らしそうになった。時々両耳が塞がったように音が解らなくなるんだってと教えてくれたのは、幽だっただろうか。それとも彼の双子の妹の、良く喋る片割れだっただろうか。

「ねぇ俺、無視とかするほど君のことを嫌ってはいないし、まぁ仮に俺が君のことを心の底から嫌ってたとしても親の敵のように憎んでいたとしても君がまるで存在しない風に振舞うつもりは毛頭ないから。そこのところは理解していてね。あと叔父さんって呼ばれるのはいや」
「なら折原さ、」
「他人行儀だなぁ。君と俺との仲じゃない」
「じゃあ臨也」
「俺一応君より十歳年上なんだけどねぇ…」





 折原臨也は母方の叔父にあたる男だった。母は二十歳で俺を産んで、二十四で幽を産んで、俺が六歳の時、折原臨也は十六歳だった。母と折原は血が繋がってはいない。そもそも母の旧姓は折原ではなかった。それを知ったのはまだ俺がそんなことまで考えが及ばない程子供だった頃の話で、折原もまた子供で出会って間もない頃の話だった。
 茹だるような熱の籠った居間で、窓を全開にした時にささやかに揺れるカーテンを思い出す。カルピスでも飲むかい?そうやって台所に立った折原は俺に背を向けて、水と炭酸どっちで割る?とからからと笑っていた。告げられたのは炭酸のが良いと返事をしたそのすぐ後だった。なんにも言葉を飾ることもなく舌っ足らずに言う。

「俺はね、君のお母さんとは血が繋がっていないんだよ。だからほら、俺は君とも、君のお母さんとも全然似ていないだろ?俺にはほんとうの兄妹がいてね。双子の妹。君よりも少し下くらいかな」

 告げられた内容にショックを受けた訳ではなかった。顔は笑っているのに、声音は乾いて居た堪れなさを覚えるほどに無感情だっただけだ。ただ、あぁ、ここには何もない。そうやって自覚した途端、底冷えするような感覚が背筋を通ったのをはっきりと覚えている。恐らくあの時決定的に、あの年若い叔父を嫌悪したのだろう。興味半分で構ってくる折原が気に入らなかった。確かに胃の辺りに圧し掛かるような冷たい塊がいつも付きまとって、それでも頭を撫でられることにも彼の耳のすぐ傍で解るように大きな声で話してやることも躊躇いはしなかった。結局あの後二人でカルピスを二杯ずつ飲み、本を読む折原の隣で俺は母親との買い物から帰って来た幽と昼寝をしていた。眠れないと愚痴を漏らすと最初は彼はもう一度言ってと眉を下げ、もう一度繰り返すと幽くんが起きちゃうよと窘め肌蹴てしまったブランケットを整えて微笑んだ。先程とは違い人間らしく出来そこないの笑顔をするのに安堵した。完璧であったり未完成であったり、感情と表情が噛み合わないようなちぐはぐな男だった。今だってこれっぽっちも解らない。恐らくこれから先も。





「…今日買わなくちゃいけねぇものあんのか」
「しずちゃん、もしかして今何か言った?もっとゆっくり喋ってよ」
「きょう、かわなくちゃ、いけないもの、あるか?」
「あ。―――あぁ。うん、そうだね。今日はまぁ、大丈夫だよ」
「そうか」

 ニュースは天気予報が終わり占いのコーナーに切り替わっていた。新人なのかもしれない甲高い声のアナウンサーが、時折詰まりながらラッキーカラーを読み上げている。赤だってよ。呟いては見たが、臨也は味噌汁を慎重に啜っていたので返事はなかった。それを見て魚に箸をつけていると、ようやく占いに気付いた臨也が軽い調子で口を開く。しずちゃん何位だった?美しく完璧に整った、吐き気のする笑顔と言うのはこの男以外見たことがない。十一位だったと単語だけで告げれば臨也はあははと邪気もなさそうに笑った。ラッキーカラーの付いたものでも試しに持ってってみる?とほんとうに愉快そうにするので、うるせぇと罵ることはせずに立ち上がり男の前髪をかき上げた。

「ねぇしずちゃん。何色だったんだい?」

 真っ黒な髪から覗いた赤い目が、血の色を透かしたようにきれいだったのに妙に腹が立ち指先に力が籠る。知らねぇと素気なく答えればそれで構わないとでも言うように眉を寄せ、それでも満足そうに頷き微笑んだ。不細工だとでも罵ってやれば良かった。叔父は十年前と何も変わっていない。二人で一緒にカルピスを飲んで、あの細い指先で戸惑いつつもブランケットを整えてくれたあの夏の日と、なにもかもが変わらない。もうずっと。









あの夏の亡霊

2010.3.18 静雄と臨也