折原臨也からの仕事がないのだと、戸惑いながらも呟いてくれたのは真っ黒なバイクに跨った彼女だった。二ヶ月前に一度に大量の仕事を依頼して、大げさすぎる程の報酬を旧友で闇医者の彼の口座に振り込みそれ以来音沙汰がないと言う。ありがとうとお疲れ様を一方的に捲し立てる男に、普段の嫌味が全く感じられないのはなんだか不慣れで逆に心配になってしまうなと、彼女は少しだけおどけて見せてそう言った。

最近どうよと気軽に挨拶しただけだと言うのに、躊躇ったように指先を迷わせていつもより時間をかけてPDAの画面を見せる彼女はなんだか落ち込んでいるようにも思えて何て声をかけたらいいのか少し躊躇う。女にしては他より少しだけ高い位置にある両肩が、心なしか内側に下がって見える。もしかしたらずっと気になっていたのだろうか。新羅は何も知らないのかと聞けば細い指を器用に動かしPDAを掲げる。彼女の言葉に、通帳に記載されたその金額をひたすら睨みつけて、たった一言お疲れ様だねと笑う旧友の姿を想像した。
『きっとあいつも気にはなっていると思う』
それはそうだろうなと頷いて、ポケットに手を伸ばしたところで丁度煙草が切れていたのを思い出す。舌打ちはしない。やり場のない手は仕方がないからそのままポケットの中に突っ込んではみたが、しかし。何かに勘付く者か知っている者がいるとするなら、俺には解剖が趣味だと公言してならないあの闇医者しか思い浮かばない。突っ込んだままの指の爪先に、冷えたライターが触れてかちかち鳴った。


ここ最近少しだけ肌寒い日が続いている。たった一日を除けば、俺はもうまともに四ヶ月はあの男に会っていなくて、だからつまり日常だった殺し合いの鬼ごっこが非日常になって四ヶ月が経っていた。人に言われて初めて時間の経過とかそういうものを意識する。標識を振り上げることは未だに少なくないが、自動販売機をぶん投げる機会は確実に減ったと断言できる。平和と言えば平和だったかもしれないが、無条件で殺意を覚えるやつが現れなくなっただけだから、温和になったかと言われればそうでもない。

思い出すと言う行為自体がくそ忌々しいが、きっと俺には必要なことだったのだと思う。拳を握って吐き出したくなる諸々を抑え込むのは彼女に八つ当たりしても仕方がないことだからだ。解っている。解っているのに、それでも込み上げる苛立ちが誰に対してのものなのか上手く消化出来ずにいる。思わぬ事態は完璧じゃなくても自分にとっては望んだ結果だった。あの男が目の前に現れない。それで良い。なんの不満もない。ただ、不意にやって来たあるべき姿に、どうしても戸惑いを隠せないでいる。それが一番腹立たしかった。

「新羅はどうしてる?」
『元気だよ。元気だけど、…そうだな』
「あ?どした」
『静雄と同じような顔をしている』
「…………あ、?」

なんだか途方もなく苦しくなって、口元を覆うと彼女はふとそっぽを向いて掲げていたPDAをそっと降ろした。きっと何かを察してくれたんだろうなぁと思うと遣る瀬無くて申し訳なかった。やはりセルティはやさしい。涙は出ないが目頭がつんとしてきたので無理やり目を伏せどうにか耐えた。新羅には勿体ねぇよ、お前。喉まで出かかった言葉は、今言えば恐らくみっともなく震えてしまうので飲みこんだ。

「―――っあ゛ー………」

思い切り吐き出す。あんな男のことなど知ったことかと、無関係を装えるのならきっとそれが自分にとっても男にとってもそれが正解だと言うのに。少しだけ本音を言えば何時だって気になって仕方がないでいる。あの雨の日の、真っ赤な目と、真っ白な肌と包帯。皺の寄ったシーツのかたちだとか散らばった髪の毛が意外ときれいなことだとか、断片的にでもそれでも鮮明に思い出せる。思えば何もかもが急すぎて、きちんとした手順などまるで皆無だったのだ。とぎれとぎれの記憶の中で、俺は例えば壊れ物に触れるようにしてあの男の身体を抱いたのだ。殺そうと思った以外であの男に触れることなど片手でも余るほどしか経験がないと言うのに。熱よりも静けさが優先したようなセックスだったのを覚えている。いやだこわいと泣いてわめいた癖に、確かめるように触れて縋ったあの指先がどうしても忘れられずに残っている。解っている。忌々しくて腹立たしくて、どうしようもなくて、愛おしかった。
精一杯だったのだ。壊さないように触れることで精一杯で、すべて終えた後に五体満足なままの男の痩身を見た時のあの安堵と言ったらもうどうしようもなかった。殺す殺すと誓いのように口に出しておいてこの様は一体なんだって言うんだろう。存外しっかりとした足取りで部屋を出て行ったものだからあれはもしかしたら夢だったのかもしれないと未だに自分を疑うが、あぁでも確かに、確かにあの時、潮のにおいがしたのだって覚えているのだ。声は極力漏らさなかったけど、あの頼りない呼吸とか引き攣った喉の音とかを自分は、俺は、確かに。

「まさかまたなにか企んでやがるんじゃねーだろうなぁ」
出来るだけ素気なく答えたかったのに、喉が掠れて上手く出てこなかった。ひっくり返った言葉に特に反応もせず彼女は俺がそれ以上なにか言うのを待っていたようだったが、やがて吹っ切れたようにかたかたと勢いよくPDAに打ち込み数秒にらめっこした後それを俺に向ける。
『二ヶ月前までは一ヶ月に一、二度くらいは新羅に会いに来ていたんだが』
「そんな頻繁に通ってたのか?」
『特別連絡がなければ、必ず毎月15日と、あとはあいつが呼んだ日にな』
「15日?毎月?」
『確か前にもそんなことがあったと思うけど…そうだ、静雄たちが高一か、高二の頃だったかな』
覚えていないのかと、訊ねられてもそんなことは初耳だ。干渉する気はなくともこんなかたちで事が露見すれば嫌でも気になって仕方がない。ポケットの中で煙草を探ったのは最早条件反射だった。腹立たしさにも種類があることを知る。ライターを握り潰さないよう拳を握りしめて細く長く息を吐き出して、予想外だったのは、あの男が定期的に新羅の家に訪れていたことではない。呼ばれて素直に池袋まで足を運んでいたと言うそれだけの事実だ。それも何年も昔から、望まなかったがいつでも姿を追っていた相手の癖にそんなことも知らないで。知れないで。
「あのノミ蟲が…」

引っかかって掠ったような声で、だから誰も聞いてくれるな。くれるな。







潮のにおいは寂しい

2010.4.29 喧嘩人形と運び屋(あの男はどこへ行ったのだろう)