かちかちと音が鳴る。瞼を開けられない不自由さの中で、乾いた音を二回聞いた。指先は未だに一つも動かすことも出来ない。意識だけが勝手に明るくなったのは、衣擦れの音でも慣れない存在の気配でも逃げ出した体温の低さでも何でもなく自分にとっては馴染みの、男にしてみれば嫌悪すべき煙草の匂いのせいだ。雨はいつの間にかに止んでいて男の呼吸が嫌でも良く解る。どうやら煙を吐き出している訳ではないようで、酷く静かに、ゆるりと呼吸する。自分の心臓の鼓動がうるさく、落ち着くはずの煙草の匂いが鼻につく。相変わらず男は勝手に拝借した人の煙草を放置しているようで、だったらなんでそんなことをしているのか問い質そうにもまだ上手に身体は覚醒していなかった。




 昨夜のあの行為を、後悔していないと言ったら嘘になる。だけど何度だって繰り返すだろう。明確な意志の開示などお互いにある訳もなくて、だけど確かに何かを伝えたくてみっともなく震えた手であの男の身体に触れた。手のひらを覗きこみたい衝動に駆られて、伝えたかったものはなんだったのかを考える。或いは何かを捉えたかったのだろうか。震える身体の温度も骨の感触も、やわく白い皮膚の薄さもまだ覚えている。あの潮のにおいすら。確かに。
 あんな風に接することが出来るのかと自分でも戸惑う程丁寧に触れたと言うのに、臨也にとってはそれは逆効果らしかった。手のひらで確かめるように身体の輪郭をなぞり、舌でそれを追っても首を振って否定した。どこに触れても同じように言う。瞼は伏せるが決して目を閉じずにぼたぼたと涙を零すのがきれいで、じっと見つめると見ないで気持ち悪いと罵った。普段ならとっくに切れて壁の隅にでも投げ飛ばす言葉も、掠れてまともに届かない声では冷静にさせるだけだった。
 隙間風のような呼吸の、衣擦れよりもか細い音が耳に張り付いている。男は痛みを声に出せない部類の人間らしい。散々慣らして弛緩しきった片足を担ぎ直し、出来るだけ慎重に押し込めると背筋をこれでもかとしならせ無防備に喉元を晒して震えていた。いつまでたってもまともに呼吸しそうにないので喉をさする。指の腹で控え目に凹凸する喉仏を撫ぜると、男はがくりと身体を跳ねさせ魚がするように口をはくはくと閉じては開いた。ゆるやかに揺さぶるのにも追いつけないのか握り締めたシャツを何度も取りこぼし、その度に余裕もない手つきで指先が白くなるまで力を込めて握り締めた。時折思い出したように息を吐き出し切れ切れの声でやさしくしないでと泣く。緩くなった涙腺は痛みからか羞恥からか、そのどちらでもない感情からか。きっと多分、すべて綯い交ぜになっている。ほんとうは怖くて淋しくて堪らない癖に。







 瞼の向こうはまだ暗い。明け方には近いらしく、それでも僅かに開いた瞼の隙間からいつの間にか消した電灯が目に入る。剥き出しになった肩がうそ寒く、視界の端にも入らない男がこちらに気付く前にしっかりと瞼を閉じることにした。冷えた指の感覚が戻ってきて、シーツの中で痙攣したのが他人事のように感じる。煙草のにおいがぐっと近づき、ほぼ同時に顔の真上から影が落ちてきた。顔の両側のシーツが沈むのが解って、そう言えば臨也の両手を縛ったあの包帯をどうしたのか思い出そうとして失敗する。煙草のにおいが染みている。唇に柔らかいものが触れて、入り込んできた舌が酷く苦い。なんだ、吸っていたのか。

「しずちゃんなんか、だいきらいだ」


 掠めた頬は乾いたままだった。あの潮のにおいが、ほんの少しだけ懐かしい。











立ち止まってはいけません

2010.3.24 静雄と臨也