「…切ったのか」
「何かの角に、ぶつけた。打撲と擦傷が合わさったみたいな、…この包帯とってよ。自分で巻くから」
「喋んな。うぜぇ」

 ベッドに乗り上げ座り込んだ男の足首を持ち上げる。乾いた血でこびりついてしまったズボンの裾を膝までたくし上げると、男はいよいよ諦めたのか肩の力を一気に抜いた。手のひらに乗った足首が小さく沈む。男の足は僅かに熱を持っていて、傷口は思いの外小さく血は止まっていたものの、ふくらはぎのすぐ下からかかとに続く辺りなんかはそのまま腐り落ちてしまっても不思議じゃない程変色してしまって青紫になっていた。昔からあまり肌を見せる格好をしなかったせいか、不健康な白さにぼうっと浮かぶ青みは見ていて痛々しい。もっと酷い怪我も痛みも散々与えてきたというのに、こうして他人から与えられたものを目の前に突き付けられると焦燥に似た感覚を覚えて奥歯を噛む。悟られまいとすることに必死だった。こんなのは何を経由したかどうかに関わらず、結果だけを見れば嫉妬と瓜二つだ。

 苛立ちのような戸惑いを、ぶつけることも叶わず消毒薬の白いボトルを両側からぎゅうぎゅうと押し付け包帯のパックに備え付けのガーゼを当てた。やはり痛むのか目を細めてやり過ごす仕種を視界の端で捉える。幼馴染には到底敵わない素早さで、それでも無感情を装うにはもってこいの手つきで包帯を巻き終えもう一度かかとを掬うように持ち上げた。重みと認識できる程の質量があるとは思えない。骨の出っ張った感触が、手のひらに伝わって微かにくすぐったかったがやはり力を籠めることは出来なかった。骨なんか簡単に砕けそうな小ささをしている。小ささをしている、のに、俺は今日まで、この骨を砕くことも叶わなかった。どうして。

「なぁおいノミ蟲、」
名前すら呼べずに。なんて様だ。
「手前、この二ヶ月の間何やってたんだよ」
そしてどうして、俺のところへ来たのだ。そんな状態の身体で。上手く笑えもしないで。
「…企業秘密かな」
「……ほんっとにうぜぇなお前殺してやりてぇ…」
どうして。



 雨音が、遠くなって行く感覚がする。ばらばらとアパートの壁を叩く震動だけが肌に伝わるようで、湿った空気は気にはならなかった。ぎき、とベッドのスプリングが悲鳴を上げる。不自由な片足を引き摺ってずるずると後ずさる男を追いつめるのは簡単だった。そんなつもりなど毛頭なくても、今なら俺の行動は大抵のことが男を追いつめるんだろう。それくらいに奴は隙だらけで、そのおかげで俺は幾分判断をする余白があった。巻いた包帯の上に掠めるだけの触れ方で指を這わせ、組伏せるつもりで上体を近づけても男は拒みはしなった。身体を支えるためについた左手の、手のひらが、汗をかいてシーツが少しだけ湿ったのが解って舌打ちを打ちたくなった。男は未だに括りつけられたままの両手で突っぱねることもなく、小さくは、と息を漏らして唇を震わせた。切れた口端から覗く肉の色が眩しく、舌で舐めてやるとひっと息を詰めて身体をがちがちに強張らせる。ようやっともがき始めた両手は拒むと言うより縋ると言った方が相応しく、ワイシャツの胸元を握り盛大に皺を造るだけだった。乾ききった血をようやくきれいに落として、それが先程傷口を拭ったのと同じ味がしたと言うことが未だに信じられなかった。みっともないくらいに、感動しているのだろうか。こんなこと、当たり前の事実だろうに。

 ナイフも千切った標識も殺意すら忘れてこんな風に近い距離にいるのは何年振りだろうか。そう言えばあの時は盛大に頭突きをかました覚えがある。簡単に触れてしまうあの距離で、あの頃、あれが精いっぱいだった。覚えている。あの時の放課後の無人の教室も少し埃くさい風のにおいも、差し込むひかりに浮かび上がった、あの骨の小さなくぼみの影の色まで、まだ、そうだ、こんなにも鮮明に、覚えている。今も。

「―――っ、…………ん」

 近すぎてぼやけてしまった視界で、最初に触れたのは目頭のすぐ下の辺りだった。あの潮のにおいを思い出す。あんな涙を、俺は見たことがなかった。哀しくて泣くのとも悔しくて泣くのとも違う。真白な肌を一筋だけ濡らして。もっとぐしゃぐしゃに、汚く泣けばいいのに。そんな風に曝け出すことすら出来ないのかと思うと不気味な程のしおらしさも少しだけ愛おしくなった。こめかみと瞼の上と額に一つずつ触れて押し付けて、ようやく唇に触れて目を閉じる。微かに戦慄いているのが嫌でも解った。泣くのだろうか。そうする寸前の、喉を潰したような呼吸ではっとして唇を離すと臨也は思い切り顔を背け俯いた。傷口に触れない程にささやか過ぎる口づけで、肩を震わせているのを笑う気になどはなれそうにない。

「…俺ね、今相当おかしいの。それは解ってんだろ、君だって」
「否定はしねぇ」
「だから。今日のことは忘れてよ。怪我の手当てまでしてくれたのは感謝してるけど、多分こんなのは違うよ。違う。殺したい程憎い俺と、こんなことするのはおかしいって君だって思ってるはずだ。だから、」

 はなしてよ。そうやって絞り出すように言い切る前に塞いでしまった。言葉を奪う手段なんていくらでもあるはずなのに、こうすることはきっと男を傷つけていると知って触れると今度は瞼も閉じずに膜の張った目で俺を睨みつけた。余裕なんて皆無で、軽蔑を前面に押し出す癖に頬を撫でてそのまま鎖骨の浮き出た骨を手のひらを使って硬さを確かめると泣きそうに顔を歪めた。もう耐えられないと言いたげに目を伏せいやいやをして、項垂れる寸前に目元からぽとりと何かが落ちてゆくのを見た。ベッドについたままの左腕を背に回して体重をかけると男の身体は酷く呆気なく傾いでシーツに埋もれる。両手で胸元に縋るまま、いやださわるなとわめいて首を振った。空回った力の入り方をしているのか臨也の抵抗は殆ど意味も成さなくて、意図を持って身体に触れると怪我を負った左足でシーツを掻いては痛みに息を詰めながら震えていた。潮のにおいが、微かにしている。

「やめろ、さわんな、……ぁ、なんでっ。なんでこんな、あ、ぁ、」


 服の裾から滑り込ませて触れた肌と、胸元を引っ掻く指の温度が噛み合わない。吐息がかかる程の距離で担いだ棒切れのような片足の、魚の腹のように湿った白さが嫌に眩しく眩暈がした。