西暦一九七三年。
日本の西部に位置する九州の北の端、その南東部に鬱蒼とした森が青々と広がっていた。そして同年神無月十八日。森の中から小さな小さな、しかし力強く、胸を強く揺さぶるような生命の息吹を感じさせてくる凛とした産声が上がった。
顔が吹き出していた汗でぐちゃぐちゃになり、漆黒の髪が額にべったりと張り付いているのも厭わず産まれてきた赤子を愛しい愛しい子だと、暖かで強かな眼差しを向けている赤子の母。
その母の名は大野 縹哥と言った。
縹哥は目を細め、滲んでいた視界を澄み切らせるために何度も瞬いた。しかし一向に縹哥の世界はぼやけたものから戻らない。
そうこうしているうちに赤子を大事に抱きかかえていた両手から不意に力が抜けた。不思議に思っていると縹哥は目の前に人の気配を感じ、そしてその正体を悟りすぐさま頭を垂れた。
目の前の者がどんな表情で、どんな気持ちで我が子を、我が娘を見下ろし、抱いているのか。縹哥には到底考え付く内容ではなかった。


「『トウコ』だ」
「畏まりました。当てる字は、如何致しますか?」
「貴様に任せる」


短く言って、目の前にいた男はさっさと母親に赤子を返した。縹哥は飛びつくように赤子−トウコ−を抱き締めた。
男は嘲るような表情でそれを見た後すぐに出て行った。そうしてようやく縹哥は顔を上げた。


「アァ!」


赤子は部屋に纏わりついていた暗い空気を晴らすかのように、泣いていた声を一度止め、大きな声で短く泣いた。
同時に部屋がぱあっと明るくなった。縹哥は目を見開いたが、幻覚では無いように思えた。すぐに縹哥は赤子を力強く抱きしめ直し、その頬に自分の右頬をくっつけた。


「トウコ。貴女の名はトウコよ。素敵な人生を送れますように。幸せになれますように。貴女は私の宝物。トウコ……字は、どこまでも澄んだまま、誰の色にも染まらず自分の信じる道で澄んだ透明に輝くように、心を込めて授けましょう。……透哥。貴女は透哥よ。きっと、心の澄んだ子になってね。心を開いて周りの子と沢山仲良くなってね。そして誰よりも心の奥底から愛する人と結ばれますように」


縹哥の声は悲痛に満ちていた。まるで人生最大の苦渋の決断に迫られているような形相で、赤子の透哥に懸命に語りかけ続けていた。
そして一日後の十月十九日、縹哥は静かに静かに、息を引き取った。
透哥は何も知らないまま母を探して息も継がずに泣き、喚き続けていた。





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