五月、まだ肌寒さの残る春の終わり。
先月から調査もなく、後処理もすべて終了し、業務は日常へ戻った。
あれから滝川は訪れていない。
先月の終わりからスタジオにこもるらしい、とのことを麻衣と話していたのは知っている。
普通どのくらいの期間こもるのか、リンは知らない。
スタジオ・ミュージシャンという職業に関して、こと音楽に関して、リンは無知に等しい。
一応連絡先は知ってはいるけれど、それは調査に関しての連絡用で知っているだけ。
そもそも番号のみでアドレス自体は知らない。
知っていたところで、何をどうすればいいというのか。
先日の一件以外、特に親しくもなく会話も数えるほどしかしたことがないというのに。
いきなり電話やメールをしても、彼を困らせるだけだ。
彼と話をしてから、あの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
穏やかに優しく、包み込むような笑顔。
普段の彼からは想像しがたい、近しい人間しか見られないような。
笑顔を浮かべると、とくりと心臓が音を立てる。
心底から暖かい、それでいて少しむず痒い、胸を締め付けられる感覚が沸く。
彼のことは嫌いではなく、むしろ好ましい。
しかし、仕事仲間としてこの感情は、明らかに行き過ぎだろう。
友人すらも越えてしまっている。
恋は落ちるものだと果たして誰が言ったか。
あれほど嫌悪していた日本人を仲間と思い、あげくに恋愛感情を寄せるとは。
今までの自分からしたら到底考えられない。
あれほど頑なだったのに人とは簡単に変わるものだと、一人苦笑した。
時間を見てみればもう夕方、今日は麻衣は来ないためリン一人だ。
持ち上げたカップの中身は空。
お茶でも淹れようかと資料室を出たところで、ドアベルが軽い音を立てた。
カップを片手に、扉を開けた体勢のまま思わず硬直したリンに、その人はぱちりと瞬く。

「えっと、よう」
「……どうも」

扉を閉めて給湯室へカップを持っていく。

「谷山さんなら今日は来ませんが」
「俺がいつも麻衣目的みたいに言うなよ」
「違うんですか?」

五分五分かな、と給湯室を覗く滝川は笑う。

「今日はリンさんに用事があってさ」
「私に?」

洗ったカップを拭きながら振り返る。
滝川は頷いて、垂れがちの淡い瞳を細めた。

「リンさんさ、このあと暇?」
「特に用はありませんが。……何か?」
「夕飯、一緒に食べたいなって」

つるり、カップが手から落ちた。
幸いシンクの上だったので割れずにすんだが、思わぬ言葉に瞠目する。
夕飯を、一緒に食べたいからとわざわざ誘いにきてくれたのか。
日本人が嫌いだと突き放したリンに。

「俺とじゃいや?」

ことりと首を傾げた際に蜜色をした髪が流れる。
長かった髪は春とともに切られて、今は短い。
それでも光にきらきら透ける様は変わらない。
じっと真っ直ぐに隻眼を見つめる琥珀に他意も何もない、純粋な色が映る。
それでもほんの少しだけ、拒否されることの怯えが一滴だけ、奥の方に覗く。
いつもなら隠しきってしまうくらいの滴をリンが見つけてしまう程度には、彼は不安らしい。
そのくらいリンを、どんな意味であろうと意識してくれていることに心底が暖かくなる。
ふ、と無意識に頬が緩む。

「あなたとなら、喜んで」




「菜食主義ってやつ?」

リンが頼んだメニューを見ながら滝川は味噌汁を啜る。
リンの目の前にあるのは野菜ばかり。
辛うじて玉子が入っているものがあるくらいで、肉類はいっさいない。
対して滝川の方は意外とバランスよく整えられている。
外見に反して礼儀作法から何からしっかりしている人だ。

「卵くらいなら食べられますよ」
「へー。ああ、うちも寺だから精進料理だったしなあ。慣れると大変ってわけでもないんだよな」
「食べられる場所は限られますがね」

道士と僧侶。
似ているようで、実際の境遇はまったく違う。
生まれた時から道士の跡取りとして育てられた自分と違い、彼は真っ当な道を歩いてきたはずだ。
リンのような、他人を排除するような孤独な幼少期を、過ごしてはいないはずだ。
明るい道を歩いてきた人だから、きっとこれからもそうなのだろう。
だから近くにいられるだけでいい。
それだけで、あの暖かさは全身を巡っていく。
せめて、せめて想いだけは、あの日から芽吹いたこれだけは、表に出しはしないから抱えて歩かせてほしい。


 
(14.05.18)(修正 14.07.18)
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