美山邸の調査が終わって半月が経とうとしている。
波乱だったあの調査も終わってしまえばいい思い出だ。
また体験したいかと言えば、心底から拒否するけれど。
本業も副業も入っていない、完全なオフの日。
心地好い春の陽気を浴びながら道玄坂を上る。
何度来たか把握していないくらいには馴染みのあるオフィスの扉を開ければ、応接間には誰もいなかった。
平日だ、麻衣がくる時間ではないし所長もメカニックも接客向きの性格では到底ない。

「こんちわー」

とりあえず声をかけてみると開いたのは資料室。
相変わらず無表情で滝川の姿を認めたリンは、驚いたように見える片目を見開く。

「何か御用ですか」
「や、ちょっと寄ってみただけなんだけど……」
「谷山さんなら今日は学校の用事で遅れるそうですが」
「そっかー……」

こう言われてしまうと居座りにくい。
麻衣を待つには長すぎるし、リンは話し相手になってくれはしない。
居心地悪く頬を指先で掻いて、ふと思う。
綾子やジョンとは時々飲みに行ったりするが、リンとはプライベートの付き合いは一切したことがない。
美山の一件で多少は柔らかくなってくれたはず……だと思う。
資料室へ戻らず、滝川を見やる彼にへらり、笑ってみせる。

「今夜暇だったら飲みに行かね?」

意を決して誘ってみたも、やはりリンは感情の見えない顔で眉を寄せた。

「お断りします」
「ですよねー」

わかりきっていた答えなので大してショックもない。
ほんの少しの期待は粉々に砕かれたけれど。
むしろ滝川に多大なショックを与えたのは言葉の続きだった。

「私は日本人が嫌いです」

ただただ愕然と、した。
中国人だと知ったのはついこの間。
意外と国内では姿を見るが、同じアジア人、見分けがつきにくいものだ。
流暢に訛りもなく、綺麗に日本語を発する彼がそうとは、まったく考えていなかった。
言葉が出ない滝川にリンはさらに続ける。

「日本人が何をしたか知っているでしょう」
「知ってる、けど……」

滝川は肯定したあと、押し黙る。
歴史を顧みれば日本は恨まれて当然だ。
しかし逆も然り。
両国ともに、恨み恨まれの関係。
それを知っているからこそ、滝川はリンの考えを否定できないし、かと言って肯定もできない。

「だから、私は日本人が嫌いです」

重ねて放たれた言葉につきりと胸に痛みが走る。
強く拳を握り、震えそうになる声を無理矢理押し出した。

「……そう」

たった一言、たった二文字をいつも通り返すだけなのに、ひどく苦労した。



美山邸の調査が終わって半月、忙しい時期から解放された頃だった。
調査も入っていないので本部から送られてきた仕事を片付けていると、リンはオフィスに誰かが入ってきた気配を感じた。
依頼人だろうか。
それとも喫茶店や興信所と勘違いして入ってきたのだろうか。
リンは一瞬手を止め、思考した。
今日は運が悪いことにナルは出張中。
麻衣は学校のため夕方から来る。
そのためオフィスには自分ただ一人。
やはり出て対応するべきだろうと結論付け、リンは資料室を出た。
しかし、応接間にいたのは依頼人でもなく勘違い者でもなかった。

「……滝川さん?」

わずかに目を瞠るリンを、滝川は振り返る。
常ならソファーへ腰を下ろすはずなのに、今日は立ったまま、いつものように快活に笑む。

「よお、邪魔してるぜ」
「谷山さんならまだですよ」
「ああ、知ってるよ」

にこりと笑い、彼はリンを見上げる。
その笑顔にリンは疑問を抱く。
数日前、彼に自分が日本人が嫌いだと明かした。
滝川は驚愕の表情を浮かべたが、すぐに元の表情に戻って「そう」とだけ返してきた。
だからもう、滝川は前のように接してこないと思った。
なのに、彼は。

「……なぜ、あなたは変わらず私に接するのですか」

自然に口を出た疑問にリンは眉を寄せる。
滝川はリンの様子に気付かずに不思議そうに首を傾げた。
そのままの体勢で数秒経ってから、ようやく言っている意味に気付く。

「じゃあ訊くけど、お前は俺のこと嫌いなの?」

不意を突かれたのはリンだ。
まさか、こんな言葉が返ってくるとは思わなかった。
リンは内心戸惑いながらも滝川のことについて考えてみた。
まず、霊力は攻撃に関してはリンをも上回る。
精神面も強い力を抑えられるだけあって強い。
けれど時折見せる脆さのようなものがひどく危うげで。
彼に気遣われると心配してくれているのだと、心の底が暖かくなる。
時に鋭い洞察力にはこちらにとっては毒で、けれど妙なところで鈍い滝川に安堵し、同時に不安を抱く。
ころころと変わる表情が見ていて微笑ましく、不意に見透かすような色を宿らせる瞳にどきりとして。
人を選ばず向けられる笑顔は快活で、優しく、無邪気で、柔らかい。
色素の薄い髪は様々な自然の光に透けて美しく、触れたくなってしまう。

(……ああ、私は、彼が嫌いではないのか)

ようやく導いた答えに視線を下に向けた。
首を傾げて笑む滝川にリンは目を細め、自らの答えを告げる。

「私は、あなたが嫌いではありません」

滝川は一瞬目を瞠り、しかしふわりと微笑んだ。
あまりにも穏やかで柔らかい笑顔に、言葉を失う。

「そっか。よかった」

滝川は言いながら更に笑みを深め。

「今日はそれだけ聞きたかったんだ。邪魔したな。……また今度」

今度は常の快活な笑みで手をひらひら振って、オフィスを出ていった。
残されたリンの胸にはあの笑顔が焼き付いていて。
春のような、包み込むような暖かさがじわりじわり、浸透してゆく。



(09.03.26)(修正 14.05.18)
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