novel


 冷めた恋をしているものだと思った。
 流れ過ぎていく街灯の中、車窓に反射する女の顔。遠くを見つめる何の感情も匂わせない淡泊さが、夜の中で冴え冴えと浮かんでいる。
 すこしだけ視線を上げると、その虚像と視線がかち合った。打ち付ける雨滴で所々が歪んだ顔はひどく不格好だ。
 けれど、それくらいが自分のような人間には似合いなのだろう。化粧で塗り固めたうつくしさなど、本当に欲するもののまえではなんの役にも立たない。そのことだけは痛いほど知っている。かなしいとは思わないのだから、どうしたって愛にはなりきれなかった。ただ、冷めた恋をしている。
 窓に映り込む女の口元が歪む。
 紛い物ばかり貼り付けているくせに、こういうときほど綺麗に微笑えるのだから皮肉なものだ。
「何か、面白いものでも?」
 唇が弧を描くような音でもしたのだろうか。敏感に気配を嗅ぎとった隣の男が、わずかに首を傾けていた。
 その拍子に上品な香りで鼻腔をくすぐるのは、この男の常套手段だ。清潔さと色香を絶妙に含ませて、意識の隙間に滑り込んでくる。
「…別に何も」
 肺を侵されるまえに言葉を返すと、可愛げなんていうものは微塵も匂わせない仕上がりになった。それでもこの男は、文句のひとつも言わず私に手を伸ばす。
 既に座席の端に寄っていた身体はどこにも引くことができない。仕方なく抵抗を諦めると、男の指がほどなくして触れる。いともたやすく。いっとうやさしく。あんまりにも繊細でむず痒いのに、やわらかな手口はだれかに似せられているようだった。
 決して触れてはくれない存在を、―――あのひとを模しているつもりなのか。
 その一言をぶつけるのは、まだ怖いのだ。何かが醒めてしまいそうで。正しいことをしているとは思わないが、束の間の夢を拒むこともできずにいる。
 無造作に座席へ放られていた手の上、男の指が滑れば、知らず肌が粟立った。ほんの数時間前までの感触を、細やかにたどる狡猾なやりくちには恨めしさしか抱けない。こちらの背筋がうしろめたさに震えるのをわかって、この男はそうしているのだ。
 まるでそれを裏付けるように、眉をひそめた女の顔をありありと写しこみながら、男の双眸が細められていく。それからひとつ。しようのない子どもでも眺めているみたいに、慈しむような吐息が漏れた。
「…何か、面白いものでも」
 ほんの意趣返しのつもりで問いかける。男は今度こそ破顔した。
「いいえ。…別に、何も」
 してやられた。
 そうは思うものの、わざわざにらみつけてやるのは面倒だ。反抗する代わりに視線を外へ投げる。
 手の上で滑る感触が、今度は包み込むような温度に変わった。咄嗟に固く握りしめてから、胸の底でじわりと後悔が滲む。
 どうあっても届かないことを知ったが最後、閉ざすことしかできなくなった女を溶かすのは、いつからかこの温度ばかりになった。あたたかみはない。けれど熱は伴っている。どこにも行けない感情ごと、解いて、暴いて、沈めてしまう。
 数時間前に一度そうされたのだから、今夜はもうよしてほしかった。聞き入れられることのない願いで力をこめると、なだめるように肌を撫でられる。この男は、守りに入った瞬間の隙を逃す人間ではない。無防備を晒したのはこちらだ。敗北は明白だった。
 車が静かに高速を降りる。バックミラー越しに見る運転手は雨の向こうを睨むばかりで、こちらには目もくれない。鏡の視界から外れた後部座席の上、彼は情事の真似事が繰り広げられていることなど知る由もないだろう。
 閉じた指の隙間へ男の爪がさしこまれる。それを皮切りに力んだ指をひとつひとつほどき、輪郭をなぞるように絡め合った。大きさも長さもちがう十本の指。ゆるやかに擦り合わせてみたり、手のひらまで使って握りこんでみたり。いたずらにひっかかれるたび、触れられてもいない足の先が縮こまる。
「なまえさん」
 吐息だけの呼び名は、たやすくエンジン音でかき消えた。横からのぬるい視線の気配だけが残されている。
 窓越しの雨に叩かれる振りを続ける一方、捕らわれた神経から逃れようとしていることなど、この男はとっくに見透かしているのだろう。おそらく想像する通りの姿を携えて座席に沈んでいるはずだ。
 しかし意味ありげな視線とは裏腹、男は肌の緻密なふれあいを好む質だった。一度覚えたことは決して違わない。私の中にあのひとの糸口を見つけるたび、寸分の狂いもゆるされない緊張感で自分もろとも私を刺しにくる。
「みょうじ」
 ふたたび囁かれた吐息が、明確な意志をともなってあのひとの影を負う。普段は何の敬称もなしに私を呼ばないのに、こんな夜だけ。私と彼しか知らない暗がりの狭間で、この声が、捕らわれた神経を麻痺させる。
 私の右手をしっかりと捉えた彼の左手は、見つめるばかりのあのひとの手と何一つ重ならない。見るからに鍛え上げられている武骨な感触を、与えてくれるわけでもない。
 けれども私に想像させる。こんなふうに、あのひとは女に触れるのだと。冷めた恋に熱をともして、きっと、
「…なまえ」
 ―――こんな風に、私を呼ぶのだと。
 とうとう指先までが震えて、知らず振り返った双眸が男の姿を認める。車窓から入り込む街灯の光を背負う姿は、曖昧な黒で夜の淵に染まっていた。
 落ちるのはひどく簡単だ。けれど沈みこめば最後、それ以上どこへも行かせてはくれない。恋を呑み込む最果ての色はすっかりこの身にこびりついている。忘れようとは思うだけ。これっきりなど到底、かなうはずもなかった。

 一緒に死んでくれるわけでもない高潔な男に、もう長い間恋をしている。あきらめにも似た恋だ。
 けれど私は同じからだで、愛してもいないこの男と、何度も心中を繰り返す。次までに一体いくつの朝と夜を越えさせられるのかは分からない。ただ、共に沈む夜がまたやってくることだけは、どんな約束よりたしかだった。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -