novel


「どうしようね、これから」
 答えないのはわかっていた。答えがないのもわかっていた。車輪は怠けることもなく規則正しくレールを叩いている。緑が窓の外をざらざらと撫でてゆく。四角い目ばかりのビルの群れも、光を跳ね返して青く光る海も通り越して遠いところまできた。長い道のりを辿るあいだ、私たちはほとんど口を開かなかった。眠ることも携帯や漫画を開くこともしなかった。山口くんが「なんだかんだ、部活サボったの、初めてだなあ」私に聞かせるようでもなくぽつりと言ったのに、あいまいにうん、と返しただけで、あとはただ黙って流れてゆく景色をじっと見つめていた。
「どうしようね、これから」「どうしようか」
 窓の外では緑が濃くなり薄くなりするだけで、変わり映えのしない単調な景色がずっと続いている。抱きかかえている鞄の中で、なにか震えたのを、わかっていたけれど気付かないふりをした。この鞄、の中に入っているもの、を掴み出して窓から放り投げてしまえば、世界と私たちを繋いでいるものはなんにもなくなる。ふと触れた金具のあまりの冷たさに、跳ねるように指を引いた。山口くんはこちらを見ずに景色の下の方をぼんやりと眺めていた。
 いつの間にか、眠ってしまっていたらしかった。
「みょうじさん、みょうじさん」
 山口くんが遠慮がちに肩をゆするので目を覚ますと終点のようだった。見知らぬ駅のホームに立って、まだ膜が張っているような目を片方ずつ順番にこする。電車の中にいたときよりも緑が迫っていてあたりは薄暗かった。ところどころに茶色い山肌が見えている。
「ここ、どこだろ」「どこだろうね」
 ぽつりぽつりと置いてあるじっとりと湿った木のベンチと、錆びた画鋲に紙の切れ端がくっついているだけの掲示板と、無人の改札口。たぶんあれが改札だ。「ねえ、外に出ようよ」
 山口くんは少し困ったような顔をして、でも黙って私のあとについてきて誰もいない改札をくぐった。
 市内から電車に乗ったときは切符を買ってきたのだけれど、当たり前のようにここにはそれを通す場所はなくて、切符をポケットに入れたまま駅の外に出てしまった。通す場所がないんだから仕方がないのに、誰かに叱られやしないかとこころもち身をひそめるようにして歩いた。車も人も、見渡す限り動いているものはひとつも見当たらない。風が吹いて足元の塵や砂を巻き上げてゆく。少し前まで晴れていた空はどんよりと曇り、半袖のブラウスから突き出た腕が肌寒いほどだった。転がっていった空き缶が、金物屋、の看板にぶつかって鈍い音を立てた。
「山の方にしよう」どちらからともなく言い、だから登っている方の道を選んだ。進むにつれてますます緑は濃くなり、ますます道は薄暗くなる。まだらに汚れたガードレールから見下ろすと、過ぎてきた道が見えている。片側一車線取れているのが不思議なほど狭い道だった。登りきると崖になっていて、向こうに海がごわごわと不機嫌そうに波打っていた。
「山、登ってきたのに、海だね」
 責めたつもりはないのに、山口くんは眉を傾けてごめん、と謝った。「海でよかったよ」私は慌てて言った。崖の上には一本松が生えていて、すぐそばに古びた宿屋が右側にかしいである。「あそこ、やってるのかな」取り返すみたいに山口くんは先に立っていって「すみません」入口から中へ声をかけた。
 誰も出てこない。私も寄っていって山口くんの隣で「すみません」と声を出した。しん、と薄暗い建物の中は静まり返っている。「どうしようか」「どうしよう」あ、と右手の受付らしいところを指差したのは山口くんだった。
「お部屋はご自由にお選びくださいだって。お会計はお帰りの際にって」
 壁に立てかけてある見取り図には植物の名前が並んでいる。松の間、菊の間、梅の間、檜の間。海に面した部屋がひとつあった。ここにしようよ、と指先でつつくと山口くんはゆっくりうなずいた。
 部屋は畳張りで、黒くつやつやとしたちゃぶ台が真ん中に置かれている。座椅子がふたつ。窓際の床の間には白いテーブルと籠編みの椅子、窓を開けるとざざあん、ざざあんと波の打ち寄せる音がかすかに聞こえた。押入れを開けていた山口くんが浴衣もある、と不透明な声を出した。山口くんがひっぱり出した浴衣の下から、手拭いが二つほどけて床に落ちた。
「どうしようね、これから」「どうしようか」
 私は手拭いをじっと見つめていた。なにか考えが泡のように浮かんで消えていった。「ねえ、これで足をくくって、」山口くんは不可解そうに首を傾げた。「崖だから」それでわかったらしかった。あっと言ったきり黙ってしまった。私はその手から浴衣を一枚取って代わりに押入れの中に残っていた腰紐を片方押し付けた。「でも、」「死ぬなら、身綺麗にしなきゃ」山口くんはなにかに耐えるように一度ぎゅっと目をつむって、今度もゆっくり首を縦に振った。
 お風呂から上がってきたら山口くんは籠編みの椅子に片手を置いて窓の外をじっと見ていた。浴衣の裾から足りない丈の分だけ骨ばった足が突き出ている。「山口くん、」振り向いた手には青く模様が入った手拭いが握られていた。
「いこうか」
 相変わらず誰もいない入口を抜けて外へ出ると海鳴りはずっと大きく聞こえている。一本松の根っこに腰かけて手拭いで足を結んだ。立ち上がるとふらついた。「もっと先へいってから結べばよかったね」山口くんは苦笑いをした。運動会の練習みたいに、いちに、いちに、と声をかけ合いながら、ほんの数メートルの距離を長い時間をかけて歩く。背の高い山口くんと私の歩幅は大きく違っていて、山口くんは私に合わせてくれようと苦労している様子だった。
 とうとう崖の上に立ったら、くろぐろとした海が波打っているのが見えた。それを見たとたんに、違う、と頭の中で閃いた。違う、これじゃない、思っているのにさっきまで怯えていたはずの山口くんは決然としていて口に出せなかった。二人三脚するのに抱えていた私の腕のあたりを強く抱え直して、「じゃあ」「うん」ついうなずいてしまう。山口くんは一歩足を踏み出した。私たちはまっさかさまに夜の海へ向かって落ちていった。
 いつの間にか、眠ってしまっていたらしかった。
「みょうじさん、みょうじさん」
 山口くんが遠慮がちに肩をゆするので目を覚ますと終点のようだった。見知らぬ駅のホームに立って、まだ膜が張っているような目を片方ずつ順番にこする。電車の中にいたときよりも緑が迫っていてあたりは薄暗かった。ところどころに茶色い山肌が見えている。
「ここ、どこだろ」「どこだろうね」
 ぽつりぽつりと置いてあるじっとりと湿った木のベンチと、錆びた画鋲に紙の切れ端がくっついているだけの掲示板と、無人の改札口。たぶんあれが改札だ。「ねえ、外に出ようよ」
 山口くんは少し困ったような顔をして、でも覚悟を決めたように首を横に振った。
「帰らなきゃ」「でも、私」「みょうじさんも、帰ろう」
 山口くんは私の手を引いて、降りてきたばかりの電車にまた乗った。その手には有無を言わせぬ強さがあった。電車は長いあいだ誰もいないホームに止まっていて、なんの前触れもなく扉が閉まってゆっくり動き出した。動き出すまで山口くんは私の手を握っていた。
 私たちは、ただ弱いだけで世界から逃げ出すことを決めたのに、誰も、山口くんでさえ、それを許してはくれないのだった。
 山口くんは顔を上げて、強い目をしてまっすぐ過ぎてゆく景色を見つめていた。私はぎゅっと握られている山口くんの右手ばかり眺めていた。どうしようね、どうしようか、と言い合っていたことだけが正しかったのだ、と思った。ただ、生きていかなければならないことを考えて、喉が詰まりそうになるのをこらえて静かに息を吸い込んでいた。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -