novel


緩やかな川に石を一つ、本当はもっと遠くに飛ばせるはずなのにかなり手前に落ちたそれが完璧な円を描いて沈んでいった。
遣る瀬無く石を投げたはじめがあたしの隣でもう一つ、足元の石を拾い上げ軽く上へと放り投げる。
見なくても視界に入るはじめの動向に余計虚しくなってきて、あたしはあーあ、と言って大きく伸びをした。

「今何時?」
「1時」
「まだ1時かぁ」
「もう、だろ」
「14時からだからそろそろ12時間一緒にいるね」
「12時間の割に千円も使ってねぇのな、俺たち」
「お腹すいた?」
「…まぁ、かなりな」

口を尖らせてそう呟いたはじめは、手の中の石をぐっと握りしめた。
あたしは平気だけれど育ち盛りのスポーツマンにはおやつも夕食も夜食も抜くのがかなりきついらしい。
夜が更けるにつれ段々と口数が少なくなるはじめに、申し訳なく思う気持ちも強くなる。
もういいよ、喉まで出かかっている言葉が上手く口に出ないのは、きっと寂しいという理由だけではないことは分かっていた。

「ファミレス探す?」
「俺は数時間前から探してる」
「…まぁ、ないもんね」
「くそっ」

Tシャツを肩までまくりあげたはじめが、その筋肉をしならせた。
一瞬で対岸にほど近いところにぽしゃんと消えた石に、やっぱりそんなとこまで軽く飛ばせるんだとつい感心する。
耳に受けたはじめの悪態を無意識に聞き流すと、川に広がる円を睨みつけたままはじめが言った。

「…で、どうすんだよ」

そうなんだよねぇ、あたしは心の中で小さく応えた。

そろそろ頭も冷えてきた。
大喧嘩したと言っても今に始まった事ではないしどこか遠くへ逃げるといってもあたしにはそんな財力も体力も勇気すらもない。
家を飛び出したままの勢いではじめの家に上がり込み、はじめがあたしの泣き顔に驚いたのをいいことにこんな、無意味な逃避に12時間近くも付き合わせている。
お金はない、あるのははじめが持っていた僅かな小遣いだけ。
それもあと一度、二人でジュースを買えば底を尽きる。
家から12時間もかけて移動した、途中でパンクした自転車はただの荷物でしかなくなって今はこの河川敷の上の方へ投げ出されたまま。

月明かりに照らされる水面がゆらゆらと揺れていた。
また足元の小石を一つ拾ったはじめが、あたしの言葉を急かすわけでもなくこめかみを小さく掻いた。

「…今更帰るのもやだなぁ、って」
「そうか」
「でも帰んなきゃなぁ、って。はじめもお腹空いてるし」
「俺のことはいいけどよ。お前が、どうしたいか、だ」
「…えぇー、あたしは…」

もういい加減に疲れたなぁ、と、静かに移ろう川の煌めきを眺めながらそう思った。
それは歩きっぱなしで血豆の出来た足の裏を見たときにそう思ったし、今からまた歩くなんて無理な話だというのは目に見えていたからで。
それならここで休んでまた目覚めたら歩こうか、けれど何処へ、そして辿り着いたその先でどうやって、生きるのか、その不安は計り知れなく大きい。
こんな無意味な逃避行にはじめを付き合わせてしまったことも、そうさせてしまった自分の弱さも、なんだかもう、全てに疲れてしまった。
ここから家に帰ったとしても、帰った先で待ち受けるいつもの生活には既に希望なんかない。
それならば進めというのも随分酷な話だなと、立てた膝をあたしは無意識に抱え込んだ。

「…でもはじめは、帰った方がいいよね」
「いや、だから俺じゃなくてお前がどうしたいのかって言ってんだろ」
「明日も学校、あるでしょ?」
「関係ねぇよ。今から戻ったって間に合わねぇし」

もうダメだ、そう思ったときに思い浮かんだのは中学の時以来会っていないはじめの顔だった。
夢中で家を飛び出してはじめの家に上がって、そしたら懐かしい部屋の中にはじめはぼんやりと寝転んでいて、そうして突然泣き崩れたあたしを慌てて抱きしめた。
あぁもう今なら死んでもいいと、やっと安心できる居場所を見つけた気がしてあたしは、きっとその時もう死んだのかもしれない。

「…あたしさぁ、はじめがあんな私立の高校行くなんて思ってなかったから、その時めちゃくちゃ泣いたの、知ってる?」
「…知らねぇ」
「もう幼馴染解消だねって及川に言われて、あー、そっかー、もうきっと及川の家にもはじめの家にも気軽に行っちゃ行けないんだな、って、ていうかその言葉がもう来るなって言ってるように聞こえて、今まで行けなかった」
「ほんとあいつはクソだな」
「…はは、えーと、今日はありがとね、付き合ってくれて。はじめはもう、帰っていいよ」
「は?」

ずっと一緒にいれると思っていたのに突き放された感じがして辛かった、それなのに今日、縋ってしまって、そしてそれにはじめは応えてくれて、だからもう、あたしの人生はそれでいいんだ。
煌めく川は広くもなかったけれど浅くはなくて、急ではないけれど確かに流れは早かった。
はじめが投げ入れた石は結構たくさんある、手前にも奥にもそこら中に転がっているはずで、この川に沈めばきっとはじめが触れた石に出会える、だからあたしはそれだけで幸せになれるはずで。

「帰っていいっていっても、ひどいとこまで連れてきちゃったけど。朝になったらタクシー拾って…、あの、あたしの部屋の貯金箱にそれなりのお金入ってるはずだから、そこからタクシー代とか自転車代とかは払えるはずだから、ね、ごめんね、付き合わせて」

助けて、心の中で叫んだ声をはじめが聞いてくれて嬉しかった。
そしてこんな綺麗で静かなところまで一緒についてきてくれて嬉しかった。
あたしはなるべく笑顔を作ってはじめの頬を撫でた。
小さく歪んだ眉が、あたしを見つめた。

「…ごめんね、ありがとね」
「…お前は、どうすんだよ」
「あたしは…、その、朝になったら、多分、大丈夫だよ」

はじめに告げた言葉があたしの耳に突き刺さる。
朝になったら、大丈夫。
きっと何もかも終わってる。
はじめはお昼までには家に着いてて、あたしの家族はあたしを探しもしないはずで、もしかしたら身元不明の何かがこの川で見つかるかもしれないけれどでも、そんなことはもうはじめには関係のないことだから。
自身の言葉に小さく頷いた。
小さく唇を噛むと、呆れた顔をしたはじめがあたしの頭をぐしゃりと掻き回して、表情とは裏腹にひどく怒った風に言った。

「嘘つけ。どうせ自殺しようとかそんなくだらねぇこと考えてんだろ」
「…え」

無理に作った笑顔が歪んだ。
その一瞬の歪みを見逃さなかったはじめが、目を細めて口を曲げる。
頭突きでもしそうな勢いであたしの目の前に迫ったはじめの顔に痛みを予想して目を瞑るも、こつり、と小さく優しい痛みだけが額に広がった。
かかる息が、熱くて、怖いくらいで。

「そんならせめて『心中して』とか言え、薄情者」

ぶっきらぼうに吐き捨てられた言葉に、理解した頭が瞬間的に冷えた。
声にならない声が数回口を開閉させるも、つまらなそうに頭を振ったはじめが、大きなため息をついてゆっくりとあたしを睨む。

「言っとくけど言われてもしねぇからなバーカ。おら、気が済んだら帰んぞ」
「…えっ、」
「今はとにかく我慢して、俺が卒業するまであと半年、それまで待っとけ。耐えられなくなったらまた俺ん家逃げてくればいいべや。母ちゃんに言っとくし」
「…な、何言ってんの」
「は?お前が俺を頼ってくれて嬉しかったって話だろ?だから俺も腹決めたんだよ」

はじめはんー、と伸びをしてごろんと大きく寝っ転がった。
つられて見上げた夜空には明るすぎる満月と不気味なほど遠くまで見える暗闇が広がっていて、今ここがどこだかそんなことは分からないのに、分からないはずなのに無数の星がそんなことどうでもいいことに思わせてくれた。

「卒業したら、一緒に住むべ」

耳に吹き抜けた生暖かい空気に、微かに触れられた左足に、どくりと強く心臓が動いた。

「なんもかも、おぶってやっから」

はじめならあたしをきっと遠くまで連れて行ってくれる。
血豆だらけのあたしの足を掠めるようにはじめが撫でた。
強く言い放たれた言葉の行方を少し不安そうな顔で見守るはじめのその顔に、あたしはまた、思わず声を上げて泣いてしまうんだ。

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