novel


「誓ってくれますか?」

なまえちゃんはそう言って持っていたカッターで指を切った。右手の薬指から血がポタリ、ポタリと垂れ、英語の課題プリントが赤く滲む。俺の描いた下手くそな猫の絵を「ブタですか?」と言った彼女はもうそこには居なかった。
俺に純粋真っ直ぐに「友達になって下さい」と言ったあの頃の彼女は見る影も無く、薄い睫の下に暗い影を落とし俺の前で冷たく微笑んでいる。童顔に見えていた顔が瞬きする間に女の顔に変わり、俺は彼女が彼女を傷つける姿をただ黙って見ている事しか出来なかった。

「案外痛いもんですね」

他人事のような顔をして、今度は爪と皮膚の間を引き裂く。予備動作も無く、躊躇いも無く、傷付ける。彼女は体中の血液を絞りだすように左手で右手の薬指を掴んだ。先ほどよりも多くの血が流れ出し、俺は気持ち悪くなって口元を覆った。誰も居ない放課後の教室に、錆びた鉄の匂いが充満している。
遠くの方から聞こえるブラスバンドの演奏や野球部の威勢の良い声がまるで別世界のようだ。気づけば俺たちは、爽やかな青春から程遠いところに来てしまっていた。もう後戻りは出来ない。

「もうすぐ死んじゃうんですよ」

猫の絵を赤く塗りつぶすようになまえちゃんは滑らかに指を滑らせる。まるで幼稚園児がお絵かきするように、鼻歌でも歌いそうな穏やかな顔をしていた。それが先ほどの彼女と相対して、より恐ろしいものに見えてしまう。
俺はなまえちゃんから目を逸らし、視線をプリントに落とした。教科書から抜き取ったような整った文字で“及川徹”と綴ったなまえちゃんは、普段のアホさ加減に似合わず達筆だった。意外なギャップを目にすれば、愛おしさが込み上げてくる。それなのに、俺の指先は変に冷えたまま固まってしまっていた。

「死ぬのは恐くないんです。強がりとかじゃなくて、本当に怖くないんです」

言葉の通りなまえちゃんの顔に怯えはなかった。彼女にとって死とはそれほど身近で当たり前にあるものだったのだ。俺にとっての死は、現実味が無くもっと遠い未来の話で今は想像すら出来ない。
この世に不幸なんて無いような顔をしてキラキラと瞳を輝かせていた女の子は、誰よりもこの世の不幸を知っていた。迫りくる死、限られた時間の中で手に入れた小さな幸せ。簡単に手放してなるものかと、最期のその瞬間まで足掻こうとしている。
俺は胃にズシリと重たいものが落ちた気がした。

「やっとなんです。やっと、出会えたのに……」

彼女が生きてきた16年という時間は、きっとすごく短い。俺がバレーをしている時間、彼女は死と向き合い怯えながら闘い続けていた。尊敬と同情よりも憐憫が勝った。俺よりも二つ年下で、これから楽しい事がたくさん待っている筈なのに、なまえちゃんの未来はもう殆ど残っていない。どんなにもがき苦しみ先を見ても、なまえちゃんが歩く道は閉ざされてしまっているのだ。

「……及川先輩、誓って下さい」

彼女の制服のサイズが合っていない理由に気付いたのはいつだっただろうか。初めて会った時よりどんどん小さくなって行く身体。りんごのように赤いほっぺたが日に日に青白くなっていく。衰弱していく彼女に気付いていながら、知らない振りしていた罪が今突き付けられている気がした。

「うん、誓うよ」

少しの戸惑いが残った声で俺は頷いた。彼女と同じように指を切ろうとすれば、カッターではなく針を渡された。

「左手の薬指です」
「カッターでいいのに」

なまえちゃんは何も言わずただ微笑んだだけだった。俺は釈然としないまま、渡された針で薬指の第一関節に針を刺した。プツリと小さな痛みととも赤い点が指に出来た。「針だとそんなに痛くないよ」と言えば、安堵したようになまえちゃんは息を吐いた。いつもの俺に純粋真っ直ぐななまえちゃんだった。俺は途端に泣きだしたい気がして、俯いた。彼女が泣いていないのに、俺が泣くのはおかしい。何より格好悪いじゃないか。そう思うのに、頬に冷たい液体が伝い太腿に落ちた。

「やっぱり痛かったですか?」

俺の手を取って、赤い点になまえちゃんの唇が重なる。青褪めた彼女の口元に赤はとてもよく映えていた。

「うん、ちょっとだけ」
「及川先輩は注射とか苦手ですか?」
「……何そのうれしそーな顔は」
「だって新しい先輩発見出来たんだもん」

目元にクシャっとした皺を作って笑うなまえちゃんは、俺が見てきたどんな女の子よりも可愛く思えた。

「別に大した事じゃないじゃん」
「どんな些細な事でも好きだから嬉しいんです」

彼女はいつだって純粋真っ直ぐに俺にぶつかってきてくれる。
「及川先輩」と意味も無く俺の名前を呼んで、振り返ると顔を赤くして「なんでもないです」と嬉しそうにはにかむなまえちゃんが愛おしくて愛おしくて仕方が無かった。クシャクシャに頭を撫ぜると「何するんですか」と怒りながらも嬉しそうにするなまえちゃんが大好きだった。
俺はプリントにみょうじなまえと歪な文字を綴った。「先輩、字下手ですね」と頬杖をついて笑う彼女の血は止まる気配がない。いつもならもっと上手に書けるよ、とか軽口を叩くのに、今ばかりは声にはならなかった。嗚咽が漏れ、泣く事しが出来ない俺を「仕方が無いなあ、先輩は」と言って俺を抱きしめたなまえちゃんの胸元はゾッとするくらい薄っぺらかった。

「先輩」
「……うん」

なまえちゃんはもう一度俺の手を取って、薬指に触れるだけのキスを落とす。胸に埋めていた顔を上げれば、純粋真っ直ぐな瞳が俺を見つめていた。

「私が灰になるその瞬間まで、愛してくれると誓ってくれますか」

まるで結婚式のような厳かな口調で、なまえちゃんは俺に問う。俺は頷くのが精一杯で、抱きしめ返してあげる事も出来なかった。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -