novel


 風が吹いている。その風は、少しばかりの冷たさを孕んでいる。頬を撫でられるような感覚に目をゆっくりと開くと、そこはなだらかな山の斜面の上のようだった。地面は見渡す限り丈の短い草で覆われており、視線を地面から上にあげれば幾つもの山が重なり合っているのが見える。厚い雲がいくつも空を覆っているが、その隙間から光が漏れているのが見える。空が焼け始めている。自身の下にある草は露で濡れている。どうやらここは朝を迎えようとしているらしい。自分の服装を見てみると、滅多に着ないような白のコットンシャツに、新品のような濃い色をしたブルージーンズを穿いていた。どちらも洗いざらしのようだ。不思議と肌に馴染んだ。微かに石鹸の香りがする。使い慣れた、固形石鹸のようなにおい。何となく動く気になれなかった。雲間から射す光の輝きが増した。そろそろ太陽が見え始めるかもしれない。足は裸足だった。膝を抱えて座っている今、尻と足の湿る感覚が広がっているが、不快さは感じなかった。眉をひそめる事も無い。自分以外には目の前に広がる自然しかないこの場所は不思議と居心地が良かった。また風が身体を撫でる。目を細めた。太陽が少し顔を出す。

 風が少し強く吹いた。ふと風の向かう方向に顔をやる。薄汚れた白い色をした、それなりに大きさのある生き物がいる。よく見るとそれは羊だった。黒い頭。昔、何かで見た事があるような気がする。テレビだったろうか。たぶん、実際に見たことはない。ただの一度も。おぼろげな記憶のわりに、判別はすぐについた。どうしてだろうか。羊はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。風に吹かれ、朝日に照らされながら、気品すら感じる足取りで。遅れて別の羊もこちらへ歩いてくる。後ろに何十頭と続いているのに今気づいた。群れで行動しているのだろうか。牧羊犬は見当たらない。一頭くらい逃げないのだろうか。異様なほどに静かだ。どの羊も鳴いていない。皆、同じ方向を向いて、同じような速さで歩いてくる。はじめの一頭が、すぐ傍まで寄ってきた。想像よりも、それは大きな身体をしていた。足元にある草を食み始める。朝露で輝く青い草。味わうように咀嚼されていく。ざり、ざり、という、草が口内に消えていく音。他の羊も同じように足元の草を喰いはじめる。なんだかその様子を見ていると、どことなく人間臭い動作のようにも見えた。羊たちの黒い顔、薄汚れた胴体、草、山々、あらゆるものが陽に照らされ輝きを増していく。だが静かだ。どこまでも音が乏しい。絵画の中に居るような気すらする。

「綺麗だね」

女の声が響いた。高くも無く、低くも無い。驚かない。自然の中から鳴っているような感じ。そこにあって当たり前のように響いた。


*


「天国みたいだと思わない?」
 女が尋ねながら俺の横に座った。音がしない。女の方を見る。白いワンピースを着ている。飾り気のない、半袖で膝丈のワンピース。女は膝を抱えている。身体がやけに白くて光が跳ね返っている。目が眩む。
「天国ってのは山の斜面にあんのか。そりゃ知らなかったわ」
「やだな、例えだよ例え。それくらい綺麗ってこと。神々しいというか、さぁ」
 ケラケラと笑って女が答える。黒い、肩くらいの髪が風になびく。柔らかそうに、ふわふわと。一束一束が艶めいている。
「私が天国として描いた世界そっくり。寧ろそのもの」
 目を細めて女が言う。これといって特徴の無い顔をしている。いつだかに行った寺に置いてあった仏の像みたいな印象を受けた。顔立ちではなく、雰囲気が、だ。余裕のある表情。いや、人間としての感情とか、そういうものを排除したみたいな。
「ふうん。お前の天国には羊がいるんだな」
「そうかも。好きだったんだよね、羊のショーン。知ってる?アニメなんだけどさ」
「いや、知らねえ。なんだソレ」
「昔テレビでやってたんだよね、粘土で作った動物とかがわちゃわちゃやっててさ。それ以来好きなんだ、羊」
「ふーん」
 楽しそうに話している女から目を逸らして正面を見る。陽は俺たちの真正面に来つつある。光が強い。まともに目を開けていられないほどには。
「嫌い?羊」
「いや、好きも嫌いもねえな。初めて見た」
「そっか。かわいいよ、きっとすぐに気に入る」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ」
「ふうん」

 暫く沈黙が続いた。朝露が渇き始めている。羊たちはいつの間にか草を食うのをやめていた。音もなく、丸まっているものもいれば、立っているもの、座っているもの、それぞれだった。
「おいで」
 俺のすぐそばにいた羊に女が声をかける。羊はのっそりと立ち上がり、女のそばに寄った。座って、ただそばに付いている。
「いい子だね。それに賢い」
 羊の頭を女が撫でる。羊は目を細める。本当に、人間みたいだと思う。
「うれしいな。みんな穏やかで、やさしい。羊の目はとっても静かだよね。ここは本当に私の為の天国かもしれない」
「そうか、良かったな」
「うん。…でもさ、この場所でさ、私の望みは叶ってるけど、君の望みは叶ってるの?」
「俺?」
「そう」
「…何で俺の望みが叶う必要があるんだよ」
「え、だってここは望みが叶う場所なんじゃないの?」
「知らねーよ、そんなことは」
「ふうん…なら君はもしかして間違ってここに来たのかな」
「さあな、気付いたらここにいたわ。つーかそれなら邪魔して悪かったな、お望みの場所に紛れ込んじまって」
「いや、いいよ。久々に誰かと話したし」
「へえ」
「それに人と会ってもこんなに心穏やかだ」
「なんだよ、普段心穏やかじゃなかったみてーじゃねーか」
「ははは、そうだね。今の返答だとそう思えるよね。実際はどうだと思う?」

 羊の胴体に上半身を埋めながら女が喋る。顔は羊の毛の中だ。声が少しくぐもっている。何を思っているか分からない声をしている。どんな表情をしているのだろう。

「まあでもさ、こうやって穏やかでいられるのはいいことだよ、きっと。悪いことなんてある?このシチュエーション」
「…」
「心が浮き立つようなワクワクはない、けど波打つような悪い予感もしない。凪いでるとでも言えばいいのかな」
「……ふうん」
「平穏ってたぶんこういうことだと思うよ」
「そうか」
「うん。…ねえ、そういえばさ、叶ってようが叶ってなかろうがまあそれは置いておこう。君の望みは一体どういうものなの?」
「俺の?」
「うん」
「なんだ、お前はもう十分望みを叶えて満足してるんだろ?俺のことまで知る必要あんのか?」
「別に。ただなんとなく聞いてみたかっただけ。でもなんとなく、一つだけ分かることがあるよ。ねえ、ここには無いんでしょ?君の望みのものは」
「…さあな、そもそも俺は何か欲しいもんあったっけな。忘れたわ」
「そう。忘れちゃったのか」

 俺が望んでいたものは何だったろうか。そもそもそんなものがあったか。思いだそうとしても靄がかかったように霞んでいる。俺の頭の中には何があったろう。何か、あったはずなんだが。
 光が少し強くなった、そんな気がした。草に付いていた露はいつの間にか乾ききっている。湿った感覚も無くなっていた。女が顔を上げてこちらを向く。羊の胴体に凭れ掛かったまま。じっとこちらを見ている。表情は、見ているのに、わからない。

「…どうしても思いだせない?」
「…ああ」
「そっか。ならちゃんと帰らなきゃね」
「…どこに」
「どこ?それは目が覚めたら分かるよ」
「はあ?なんだそれ」
「さあね。でもここはタイミングを間違えたら二度と出られなくなるよ」
「なんだよ、ここは夢の中か何かか」
「はは、訳が分からないって顔してる」
「あたりめーだ、どういうことだ」
「知らなくていいんだよ。知らないってことはここにいる必要が無いってことだもの。ここに来る必要がある人はね、自ずとここが何なのかきっと分かってる。それに自分が心から望んだものとか、自分が強く想っていたことを何よりも覚えてる」
「…」
「何も分からない、何も思いだせないってことはね、ちゃんとあるべき場所に全部残して来てるってことだよ。それがあるうちはちゃんと戻らなきゃ。望みに手が届くうちに」
「…お前は」
「私?」
「お前の望みはここ以外にもう無いのか」
「…私はね、いいんだよ。何もかも手に入ったから」
「じゃあ、お前はもう帰らないのか」
「……そうだね、私は来るべくしてここに来た。だからもういいんだよ」
「そうか。お前の帰る場所はここなんだな」
「そうだね、私の居場所は、ここだよ。きっとそれ以外のどこでもなく」
「そうか。寂しくないのか」
「なぜ?」
「人がいねえだろ。俺がいなくなったらここは誰もいねえんじゃねーのか」
「あら、私のことを気遣ってくれるなんて、見た目の割に意外と優しいんだ」
「うるせえな。んだよ、心配してやって損したぜ。返せ俺の親切心」
「あはは!ありがとう。…そうだね、ここには私以外いないね。…次の人を待つよ。誰か、私と話をしてくれる人が来るのを」
「そりゃいつだ」
「さあね…いつ来るのかな。下手したらもう来ないかも。君は偶然来てくれたのかな。でももうそれでも十分かもしれない。ほんのわずかな時間だったけどね」
「それでいいのか」
「それしかないんだよ。でも待つ間はきっと羊たちもいてくれるんじゃないかな」
 羊は女に寄り添うように身を摺り寄せる。くすぐったそうに女がわらう。どうしてだろう、どうしても顔の印象が掴めない。

「大丈夫、だからさあ、早く行ってね」
「行くってどこに」
「すぐに分かるよ」

 各々の場所に好き勝手に居た羊たちが、気付けば皆こちらを向いていた。何を思っているか分からない顔。羊も、女も。ただ光に照らされている。風がより強くなる。どんどん強くなっていく。羊は、こちらを向きながら、女の周りに集まっていく。女をまるで守るように。なんと人間臭い生き物だ。女が静かだと表現した目は、俺にとっては何考えてんのかさっぱりわからない、奇妙な目だった。風はもはや、台風の日を思い出す程の強さだった。全身が押されていく。…台風?そりゃ何だった?いつ経験した?

「……できればもうちょっとだけ、一緒に居たかったなあ」

 風に吹き飛ばされそうになった時、女の声がすぐ近くに響いた。一瞬で視界は暗転した。



*


 起きたら何でか泣いていた。何かが頭をかすめた気がしたが、一瞬で忘れた。よくわからないまま涙を拭う。随分長い間寝ていたような気がしたが、ベッドを降りてカーテンを開くと空が白み始めたくらいだった。そんなには寝ていない。うっすらと、寒さを感じた。またベッドに戻る。目蓋を閉じた。



*


 目覚めるとすっかり日は高くなっていた。窓を開けても蝉の声はもう聞こえない。冷房を入れなくてもそこそこ快適。季節はすっかり秋になっている。景色は何時もの通り住宅街。生まれて以来の景色。何の感慨も沸かない。そろそろ起きるべきだろう。両親は既に仕事に行っていた。用意された朝食をレンジに入れる。テレビを付けるとワイドショーだった。なんとなくチャンネルを変えるのも億劫で、ぼんやりと見ている。いろいろな顔が機械的な光の上に浮かんでいる。なんとなく、見た事があるような顔、見たことがない顔。頭の中を探る。思いだせなかった。加熱の終わった音がした。皿を取り出し、ラップを外す。箸をかまえる。咀嚼する。他人事のように、目を刺す光の先を見続けている。実際他人事なのだが。しかしこいつら好き勝手ばっか言ってんな。ちょっと世間で名の通った他人の、人目を忍んだ恋愛沙汰がそんな騒ぎ立てるようなことかよ。ふと目を離せば何を言っていたかは記憶の彼方だ。
 食事を終えて、食器をシンクに置く。洗っていないとまた母親の堅くて鋭い声が飛んでくるところが目に浮かぶ。それでも面倒でそのままにしておく。歯を磨いて、顔を洗って、一応平日なので制服に着替える。することがない。テレビを見ても何も頭に入ってこない。スイッチを切った。筆記用具にパスケース、財布、携帯しか入っていないスカスカの通学鞄を下げて外に出る。錠の落ちるガチャンという音。
ふと思い浮かぶ言葉。

 望みに手が届くうちに。

 俺は俺の望みなど遥か前から知っている。まだ当分叶いそうにない。叶わぬまま、そのうち腐って死に絶えそうだ。歯を磨いたはずだが、そのさらに奥で、朝食の、混ざった味を思い出す。ああ、なんかまた腹減ってきた。望みが叶わなくとも、腹が減ったら飯を食う。繰り返し、繰り返し。笑えてくる。一体何の意味があるのだろう。



 知らねえ何かが、どっか遠くでうっそりと動いた気がした。気がしただけだ。あのまま一緒にいてやればよかった。さて、そりゃなんの話だったっけ。電車に乗るころには、全部知らない場所に流れていくに違いない。どこにいくかは知らないが。



 大事なことほど一瞬でどっかいっちまって、そのままずっと出てこない。夢と同じだ。そんなことを、誰かが昔言っていた。田舎のじいちゃんだっけ。




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